芙美花視点(10)

「B専って言ってゴメン……」


 芙美花は、まず木槿に謝った。そしてあとであの場にいた客人たちにも謝罪せねばならないだろうとも思った。……木槿を侮辱した公子には謝りたくなかったが、しなければならないのだろう。そう思うと憂鬱になる。


「いえ、わかっていますよ。B専でもなんでも……芙美花様に好ましいと思っていただけるのなら、なんでもいいのです」


 芙美花があからさまに落ち込んでいるからか、木槿の声音はいつもより、より柔らかく聞こえた。


 そういう風に、細かな気遣いができる木槿を、つい先ほど侮辱された。そう思うと芙美花の中に萎えていた怒りが再び力を取り戻す。しかし、それを逃がすように芙美花は小さくため息をついた。


「……なんでみんなムーさんのよさがわかんないんだろうね……。――あーっ! それにしてもやっちゃったー! あーあーあー。せっかくの“お披露目”だったのに……。はあ。ああいうときの上手い切り抜け方なんてわかんないよ……」


 そこまで言ってから、今度は大きく深いため息が出てしまった。自然と顔もうつむいてしまう。


 木槿の顔が見れなかった。木槿にとって、誇れる主人でいたかった。“お披露目”だって、完璧にこなして見せたかった。


 ……けれども現実にはこんな有様で。自分自身に嫌気が差して、芙美花はもう一度ため息をつきそうになる。


 しかし、


「あれは、仕方のないことだとわかってくださる方もいらっしゃるでしょう。むしろ、芙美花様の上辺だけを求める御仁を振り落とせて良かったのでは?」


 木槿が芙美花の心中を察してか、慰めの言葉を口にしてくれたので、芙美花はそれに流されるように顔を上げた。


「そうかな……」

「芙美花様はまだ一七でいらっしゃいます。これから、失敗することなどないとは言い切れません。重要なのは失敗してしまったあと、ではないでしょうか」


 木槿はいつもは言葉が多いというわけではない。しかし今は明らかに饒舌だった。それは芙美花のためだろう。芙美花を元気づけてやりたくて、木槿は一生懸命に慰めの言葉を口にしてくれているのだ。それは、芙美花のうぬぼれではないだろう。木槿はいつだって心優しい青年であったから。


 落ち込んでいた芙美花の顔に、やっと微笑を浮かべるだけの余裕が戻ってきた。


 最初から完璧にしようと、力を入れすぎていたのかもしれない。その結果があの爆発だったのかもしれない。だとすれば、芙美花からするとそれは非常にみっともないことであったが、やってしまったものはもう、仕方がない。


 あとで謝罪の手紙の書き方を調べよう。芙美花はそう建設的な計画を脳内で立て始めた。


「ありがと、ムーさん。ムーさんはやっぱり頼りになるね」


 落ち込んだり反省したりするのは、悪いことではない。けれども、いつまでもそこから抜け出せないようではダメだ。芙美花は気持ちを切り替えて、木槿に礼を言う。


「お褒めいただきありがとうございます。……ところで芙美花様」

「なあに?」


 木槿が真剣な面持ちで、改まって言い出したので、芙美花が身構えた。しかしすぐに彼がなにを言わんとしているかを理解する。


「今日のようなことがまたないとは言い切れません。ですから――」

「ムリ」


 言い終える前に芙美花がバッサリと切って捨てれば、木槿は「え?!」とおどろいた声を上げた。


「ムーさんの言いたいことならわかるよ。今後はムーさんのことで怒らなくていいって、そういうことを言いたかったんでしょ?」

「! ……はい」

「それはムリ。約束できない」

「ですがっ……」

「ムリだよ。イヤだったらイヤって言う、怒るべきところでは怒る。それはいけないこと?」

「そう、ではありませんが……。ですが、私のことでは、もう――」


 今日のことで木槿が責任を感じる必要なんてない。木槿の見た目は持って生まれた、変えられない、選べないもの。公子は、それを公然と中傷したのだ。公衆の面前で大騒ぎしたことへの申し訳なさを芙美花は抱いていたが、木槿を中傷した件については、今だって怒りをあらわにしたことを恥ずかしくは思っていない。


 それは――


「だってわたし、ムーさんのこと好きなんだもん」


 木槿のことを、心から愛しているから。


「好きな人が侮辱されたら……やっぱりイヤだし、怒るよ。これからもね。こういうのは耐えることじゃないと思うんだ。今日はガラにもなく最初は耐えちゃったけど、やっぱり初手でガツンと決めてればよかった!」


 芙美花が後悔しているとすれば、最初から毅然とした態度を取れなかったことだろう。どう切り抜けるべきか迷っているあいだに公子を増長させてしまった気がしていた。


「芙美花様……」

「ムーさんは、こんなわたしはイヤ?」


 やはり涼しい顔をして、なんでもないという風に振舞える主人のほうがいいだろうか? 芙美花はそんな不安を抱いた。けれど木槿は、


「……いいえ、いいえ。決してそのようなことは。むしろ……芙美花様が私の主人であることを、誇らしく思いました」


 そう言って、芙美花が欲しい言葉をくれる。


「ありがとう、ムーさん。こうしてムーさんがいるから、ムーさんがわたしをたくさん褒めてくれるから、わたしはわたしらしくいられるんだよ」


 うれしかった。心の底から、うれしかった。他人の、ありのままの姿を肯定するのは、むずかしい。それは芙美花にもよく理解できる。自分ですら、ありのままの姿を肯定してやれることはむずかしいのだ。いわんや他人をや。


 けれども木槿は、芙美花を「誇らしく思う」と言ってくれた。芙美花の失態に失望する様子もなく、落ち込む心に寄り添ってくれる。それは涙が出るほどにありがたいことだろう。


「私は……私のことが好きになれません」

「……うん」

「しかし、芙美花様が私のことを好きだとおっしゃってくださったので、少しだけ自分自身を好きになれた……気がします。こんな私でも芙美花様のお傍にいても良いのですか?」


 木槿がおずおずと問うが、芙美花の答えは最初から決まっていた。


「もちろん! ムーさんがこれから変わっても、変わらなくても、たぶんわたしはずっとムーさんが好き。ムーさんが自分のこと嫌いでも、好きでも、わたしは好き。だから――これからもよろしくね、ムーさん」

「こちらこそ。……これからもよろしくお願いしますね、芙美花様」

「それでムーさん……」

「はい。なんで御座いましょう」

「返事は?」

「え?」


 おどろいた顔をする木槿に、芙美花はわざとらしく口をとがらせて再度問う。


「返事! わたし……ムーさんのこと好きって言ったじゃん……」

「え?! えっと……それは」

「もちろん、ムーさんのことは恋愛的な感情抜きにも好きだけど、わたしとしてはムーさんの恋愛対象に入っているのかなーって気になるん、だけ、ど……」


 己の好意をストレートに示した経験が少ない芙美花は、顔に熱が集まって行くのを感じた。しかし不意に木槿を見れば、彼の頬も紅潮している。それがなんだか可愛らしくて、微笑ましい気持ちになったが、木槿に名前を呼ばれてそんな考えはすぐに霧散した。


「芙美花様」

「……! はい!」


 木槿は、一拍置いて金の瞳で芙美花を見つめる。


「私も……芙美花様のことをお慕いしております。初めてお会いした時から、ずっと」

「ム、ムーさん……!」

「……どうか、口づけを送ることをお許し願えますか?」


 芙美花は、急展開に心臓が飛び跳ねるのを感じた。しかしここでノーという選択肢を選ぶという道はない。


「も、もちろんいいよ……?」


 どもりながらも芙美花は答える。木槿がそっと芙美花の手首を取ったので、芙美花は黙ってまぶたを閉じた。


 しかし――


「そ、そっち……?!」


 木槿は、芙美花の手の甲に口づけを送ったのだった。


 それはそれでうれしくないわけではなかったものの、キス待ち顔でいた自分が恥ずかしいやらなんやらで心が乱される。


 そんな芙美花を見て、木槿は立てた人差し指を唇に当てる。


「申し訳御座いません、芙美花様。唇へ送るのは、またいずれ……」

「……いずれって、いつ……?!」

「ふふ。さあ? いつでしょうね?」


 悪戯っぽく木槿を見て、芙美花はこれからも彼には心乱されるのだろうなという予感を抱いた。けれども、それは決して不快な感情ではなく――。


「『いずれ』って言ったんだから、いつかはちゃんと……その……キス、してね?」


 芙美花が上目遣いに言えば、ほのかに赤らんでいた木槿の頬の朱色が強くなった気がした。


「も――もちろんで御座います。芙美花様とのお約束、たがえることはないと誓いましょう」


 わずかに目を泳がせた木槿を見て、芙美花は「してやったり」と思いながらも、冷たい夜風が早く己の頬を冷ましてくれることを待ち望むのであった。

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