芙美花視点(7)

 三年を共に過ごした木槿への、芙美花の感情は「あばたもえくぼ」という勢いであったが、おおよそ彼女の目から見てこの執事に欠点などないように見えた。


 いや、この世界の住人からすれば木槿の最大の欠点はその容姿なのだろう。しかし芙美花は価値観の違う異世界からやってきた人間であったから、それは決して彼女の中では欠点にはならないのであった。


 木槿は、たいていの家事をマスターしていた。設備管理もそつなくこなすその姿に芙美花はおどろいた。いや、『魔女ノ執事』を通して木槿の万能ぶりは知っていたが、現実に目にすると新鮮なおどろきがあった。


 そして、木槿自身もおどろいている様子であった。木槿からすると芙美花との日々は、夢の中での出来事である。ゆえに夢の中で習得したスキルがそのまま現実でも通用していることにはおどろきを覚えたらしい。


「御主人様にご迷惑をおかけせずに済みますね」


 芙美花は、たとえ木槿が子供の手伝い程度も家事ができなくても落胆したりはしなかっただろう。そもそも、芙美花自身がそうやって棚に上げられるほどの家事スキルを持っているわけではないのだ。


 けれどもやはり、好いている相手の仕事ができる場面を見ては、惚れ直してしまうというのが恋する乙女心。芙美花はそんな木槿を見て魔法の勉強や修行に力を入れようと気持ちを新たにした。



 魔法を習得する過程は新鮮さも手伝って芙美花には楽しいものだった。だがそれでもたまには息抜きがしたくなる。


 ふたりが暮らす屋敷から見下ろせる位置には、レンガ造りの家々が並ぶ街が広がっている。この世界にきて当初は、周囲に目をやる余裕なんてなかった。急に街に下りてみたいと思ったのは、芙美花の中で余裕が出てきた証拠だろう。


 ちょうど、木槿も細々とした足りないものを買いに行きたいと思っていたらしい。芙美花が「街へ下りてみたい」とねだれば、少し渋りはしたものの了承してくれた。


 木槿は、基本的に芙美花の頼みは断らない。芙美花の胸中に邪心が生じそうになるほど、木槿は芙美花に対して甘かった。


 けれども、芙美花に対してどこか線を引いていることもたしかだ。『魔女ノ執事』で見てきた木槿は至極真面目な性格だったから、その態度に芙美花は理解があった。ただ、納得してはいなかったが。


 だから、木槿と出かけられると決まったときはうれしかった。デートというわけではなかったが、芙美花の気分は浮き上がって、ほとんどデートするのと同じ気持ちであった。


 念入りに身なりを整えて、服を決めるのにも時間をかけた。すべては木槿の目に少しでも良く映りたいがため。


 そう、すべては木槿のためであって――


「そこの可憐なお嬢さん。ひとりでどうしたのかな?」


 見知らぬ男を喜ばせるためのものではなかった。


 芙美花の口元がわずかに引きつる。ナンパだ。見事なナンパだ。でっぷりと脂肪を蓄えた恰幅のいい男は、木槿よりもやや年嵩だろうか。身体を微妙に傾斜させた角度で芙美花を見下ろし、流し目を送っている。これがこの男のキメ顔ってやつなのだろうと芙美花は冷静に考える。


 木槿は今、小さな商店の中にいた。芙美花は深く考えずに可愛らしい小物が飾られていたショーウィンドウを見に店を出た。そこでこの男に声をかけられたわけである。芙美花にとっては、なんともタイミングが悪い。


「……ひとを、待っていますので」


 微笑を引きつらせつつ、かと言って最初からケンカ腰の態度を取るのも失礼だと思い、芙美花は当たり障りのないセリフを口にする。


 しかし男は空気を読まないのか読めないのか、芙美花の前から動く気配がなかった。細い目をますます細くさせ、芙美花を舐めるように見回しているのがわかり、生理的嫌悪感に鳥肌が立った。ファッションは洗練されている様子だし、不潔感もないが、芙美花を見下ろす目の動きがひたすら気持ち悪かった。


 芙美花には、こういう視線には覚えがある。己に性的欲求を抱かれるのは、態度や口に出されないのであればどうだって良かった。他人の心にまで踏み入る権利はだれだって持っていないからだ。


 けれど、態度に出されれば別である。どうしたって、嫌悪感を抱いてしまう。特に今目の前にいるような男の場合は。


 いつか、しつこく芙美花のストーキングをしていた男を思い出す。ひどく太った、恰幅の良い男は芙美花に熱を上げ、自宅にまで侵入してきたのだった。そのときは大事にはいたらなかったものの、この出来事が芙美花の心に深い傷を残したことは、言うまでもないことだろう。


 そんなことは今芙美花の目の前にいる男にとっては関係のないことだろう。けれどもどうしても、この男の容姿はかつてのストーカーを思い起こしてしまう。舐めるようなじっとりとした視線も、ストーカーを想起させた。


 男が芙美花を口説き落とそうとなにごとかをまくし立てている。けれど、芙美花は急に耳が遠くなったようになって、上手く言語を脳で処理できない。背中にイヤな汗をかく。手のひらが、じっとりと湿る。一方で、体の末端が冷えて行くような感覚。


 ――ハッキリきっぱりと断らなければ。そう思いはするものの、舌がもつれて上手く話せない。


「芙美花様」


 そんな芙美花の耳に飛び込んできたのは、聞き慣れた木槿の声。その声を聞いただけで、芙美花の中に冷静さが戻ってくる。まるで呪いが解けたかのように、体から緊張が抜けて行く。


 芙美花は、近づいてきた木槿に駆け寄るや、おもむろにその腕を取った。


「あ、わたし恋人いるんで! 行こっ、ムーさん」


 なぜそのように大胆なセリフが口にできたのかわからないまま、芙美花は木槿を連れて雑踏に紛れる。ぐんぐんと進んで行く芙美花に、木槿は歩調を合わせてくれた。たったそれだけのことで、芙美花は安堵する。


 やがて屋台が集まった街の中心部の広場に到達して、ようやく木槿の腕を手放すことができた。


「申し訳御座いません御主人様。目を離すべきではなかったですね……」


 木槿はそう言って心配そうに芙美花を見やる。心から芙美花を案じている様子が、金の目から伝わってくる。その視線は、怖くはなかった。


「謝らないで。わたしが『ついて行きたい』って言ったんだし」


 謝るべきだとすれば、それは芙美花のほうだろう。木槿の事情などお構いなしに広場まで連れてきてしまったのだから。


 しかし、そのことや先ほどのナンパ男のこともすっ飛ぶほどの出来事が、つい今しがた、あった。


「ねえ、今日からは『御主人様』じゃなくて『芙美花』って呼んでよ」


 木槿は、ずっと芙美花のことを「御主人様」と呼んでいた。そのことに特段不満はなかった。彼が「御主人様」と親愛を込めて呼ぶのは芙美花だけなのだ。


 けれど、つい今しがた、名前を呼ばれて芙美花は知った。恋しい相手に名前を呼ばれるという甘美な喜びを。だから気がつけば芙美花は先のような言葉を口走っていた。


「そ、それは……」


 木槿がためらいがちに視線をさまよわせる。あからさまに困ってはいたが、イヤという意思があるとは、その気恥ずかしそうにしている顔からは認められなかった。


「イヤ? 馴れ馴れしい?」


 芙美花は小ズルく「押せばイケる」と思い、木槿に畳みかける。


「そういうわけでは御座いませんが……」

「『芙美花様』……じゃダメ? ごめんね。執事と主人の関係とか、まだよくわかってないから、なんかすごくダメならあきらめる……」


 芙美花は、知識として主人と使用人の関係の、そのあいだに深い溝があることは知っている。知ってはいたが、イマイチ実感は伴っていない。だから、木槿が芙美花とのあいだに線引きをして、頑なにそれを守っていることをもどかしく思ってしまうのだった。


 畳みかけはしたものの、木槿が無理だと言うのならば、芙美花は引き下がるつもりだった。無理矢理に言わせるものでもないと思ったからだ。けれど、木槿は


「……わかりました。……ふ……芙美花、様」


 と、気恥ずかしそうに視線をさまよわせながらも、そう言って芙美花を喜ばせてくれるのだった。


「ありがとう、ムーさん」


 思わず、満面の笑みを浮かべる。先ほどフラッシュバックを起こしかけたことなど、芙美花の頭からは瞬く間にすっ飛んでいった。その心に満ちるのは圧倒的な幸福感。ふわふわとした気持ちのまま、芙美花は気恥ずかしそうにしている木槿を見上げるのだった。

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