木槿視点(7)

 芙美花の言葉は魔法のようだった。芙美花が褒めてくれるたびに、心に刺さっていたトゲが抜け落ちるような気持ちを木槿は味わった。


 木槿の他とは違う特異な容姿に関する中傷の言葉も、忌避や拒絶の態度も、いくらも響かなくなった。


 木槿は一度、真面目に魔法を疑った。芙美花は新米と言えど“魔女”であったから。けれどもどうやら、芙美花のこれは木槿の知る魔法ではないらしい。


 芙美花の言葉は魔法のようで――麻薬のようでもあった。一度知れば、それなしに生きて行くことは難しい。抗いがたい誘惑。しかし木槿はそれに惑わされないように、芙美花に抱いた情欲の類いを胸の奥底に押し込める。


「どう? ムーさん」

「よくお似合いですよ」

「よかった……」


 かつて夢の中で木槿は芙美花と海を見に行ったことがある。そこで見た広がる空の青と、透き通った海の青。両者がないまぜになったかのような、目を惹くサックスブルーのドレス。足を覆い隠すフロア丈の裾が、ドレスを確認する芙美花の動きに合わせて優雅に揺れた。


「何度も確認しちゃってごめんね。ドレスなんてまず着ないから……。似合ってるのかどうか、よくわからなくて」


 芙美花はどこか緊張した面持ちで全身鏡をにらみつけるように見ている。そんな芙美花を見ながら、木槿は湧き上がる独占欲を封じ込めるのに必死だった。


 できうるならば、だれにもこの美しく可憐な芙美花を見せたくはなかった。けれどもそんなことを、執事である木槿が言えるはずもない。


 芙美花はこれから“新米魔女”の“お披露目”に臨む。第一印象は重要だ。しかし今の芙美花であればひと目だけでたちまち老若男女を虜にできるだろう。木槿は本気でそう思っていた。


「……応援、してくれる?」


 不安をあらわにした芙美花が上目遣いに問う。


 “お披露目”の目的は“魔女”の存在をお歴々に周知させると同時に、この世界との繋がりの薄い“新米魔女”らに人脈作りの場を提供することだ。パトロン探し、とまでは行かずとも、遠からず。これからの生活を快適に過ごしたいと考えるのであれば、欠席という選択肢はないに等しかった。


 芙美花はそれをよく理解している。それでも不安は消せないのだろう。


 芙美花は、他人からの視線を厭う。嫌悪するというよりは、恐怖している。好感情にしろ悪感情にしろ、芙美花にとって他者からの注目は恐ろしいものなのだ。


 芙美花は、あまりにも美しすぎる。ゆえにこれまで種々のトラブルに巻き込まれてきた。だから芙美花は木槿への人懐こい態度からは想像もできないほどに人見知りが激しく、他人という存在を恐怖の目で見てしまう。


 けれども芙美花は今、それから逃げることなく立ち向かおうとしていた。


「もちろんで御座います」


 木槿のその言葉だけで、芙美花は少し肩の力が抜けたようだ。木槿はその華奢な白い肩に軽やかなストールを羽織らせる。木槿は魔法なんてものは使えない。けれども芙美花に掛けてやったストールが少しでも彼女に勇気を与えてくれたら、と願う。


「社交の場では常におそばに控えることは叶いませんが……気持ちは芙美花様のお傍に」

「うん……。このストール、ムーさんだと思っとくね」


 芙美花はぎこちないながらに笑顔を見せてくれる。木槿に心配をかけまいとしているのだろう。その健気さに木槿は胸を打たれる思いだった。


「よしっ、人脈作り頑張るぞ!」


 芙美花を微笑ましく見ながら、彼女に不運が訪れないことを祈る木槿であったが、現実はそう上手くはいかないわけで……。


 “お披露目”のために準備された広大なホール。当初は中心にいた芙美花も今ではその中庭へと繋がる、テラスに面した場所まで後退してきていた。


 “お披露目”の場で、まず間違いなく一番目立っていたのは芙美花だった。他の“新米魔女”たちが劣っていたとかそういうわけではなく、ただ芙美花が持つ存在感があまりにも圧倒的だっただけの話だ。


 芙美花をひと目見て、多くの人間は息を呑み、きっとお近づきになりたいと思ったはずである。そしてその栄誉を与ろうと群がる人々から逃げるようにして、芙美花はテラスの近くにまできていたのであった。


 芙美花が距離を取れば、察して食いついてこないだけの品位を持つ人間ばかりであればよかったが、実際はそういう者ばかりではない。


 特に美貌で鳴らすブレナダン公子は芙美花にご執心で、木槿の目から見ても下心があることは明らかであった。しきりにホールの外に連なる休憩室――もちろん扉を閉め切れる個室――へと誘う姿は、だれがどう見たって、芙美花に邪な感情を抱いていることがわかる。


「美貌で鳴らす」、とは言いはしたものの、芙美花からすれば公子の身なりは気を引くようなものではないだろう。木槿とは正反対の容姿。芙美花が今まで言っていたことが、木槿を慰めるための偽りでなければ、その脂肪を蓄えた肉体は彼女からすると威圧的に感じられるに違いなかった。


 公子は、“建国七公”に名を連ねるブレナダン公爵家の跡取り。その品位は――今現在の芙美花への態度から明らかなように――ともかく、権力、財力、人脈、申し分なし。――そう芙美花に耳打ちをしたのは、他でもない木槿だ。ゆえに芙美花は公子からの露骨な誘いに対して、手ひどい態度を取ったりといった、思い切ったことができないのだろう。


 そもそも、芙美花は木槿以外に対してはそう押しが強いわけではない。初対面の相手に対して強い態度に出られないのも、特に不思議なことではなかった。


 しかし木槿は芙美花に公子の「余計な」情報を与えなければよかったと思った。執事である木槿が、そうやって芙美花の補佐をすることに不思議はない。むしろ、当たり前のこと。だと言うのに、芙美花が公子に公然と休憩室へと誘われる場を直接見て、木槿の心にさざ波が立ったのだ。


「芙美花の人脈作りを応援する」……そう言ってしまった手前、芙美花が他の男と一緒にいるからといって、木槿が嫉妬に駆られるなどということはあってはならないのだ。


 それは、わかっている。


 けれど。


「――ご歓談中、失礼いたします。御主人様、お約束の時間が迫っております」


 感情を押し殺した、淡々とした声で木槿はそう告げた。……芙美花の笑顔が、あの可憐な花のような笑顔が、次第に曇って引きつってきていたからだ。だから木槿は芙美花の執事として、泥をかぶることにした。


 案の定、公子はもとより細い目をますます細くさせて木槿を一瞥する。冷たく、凍えてしまいそうなほどの視線。しかし木槿は涼しい顔する。事実、そんな公子の態度は木槿の心にはいくらも響かなかった。


「ムー……木槿。もうそんな時間なの?」


 木槿を見上げる芙美花の顔に、わずかに安堵の表情が浮かび、明るくなった。「約束」など木槿のでっち上げであったが、芙美花は木槿の意図を速やかに察して話を合わせてくれる。


「ごめんあそばせ、公子。わたし、先約があったことをすっかり忘れてしまっていて、申し訳ないのですが――」

「フミカ様! 最後にひとつだけよろしいですかな?」

「は、はい……?」

「新しい執事にご興味は? もちろん、主人の邪魔をしないような、優秀で、見目麗しい執事にご興味は?」


 木槿は冷静に、公子に当てこすられていることを理解する。どうやら芙美花との会話を邪魔したことで、相当ご立腹らしい。そんな公子に対し、芙美花は困惑するばかりだ。


 公子は、芙美花の様子などお構いなしなのか、木槿への当てこすりを超えて、明確な侮辱に打って出る。あるいは、芙美花が当惑している様子を、図星を突かれて動揺しているとでも考えたのだろうか。


「見るに堪えないほど醜く、枯れ枝のように心もとない、女々しい執事を持ってはフミカ様の品位が下がりますぞ。どうでしょう? 私が新しい執事を紹介して――」


 いずれにせよ、それは芙美花の逆鱗に触れる行為だったようだ。


「結構です!」


 芙美花の良く通る声が、ホールに響き渡った。なごやかに談笑していた人々の声が、わずかに途切れる。視線が芙美花と公子に集まる。けれども芙美花はそんなことでは怯まなかった。


「わたしの執事に対する侮辱は許しません。それに――」


 芙美花はひと息置く。


 そして威勢良くまくし立て始めた。


「見るに堪えないほど醜い? 美しいの間違いでしょう! 見てくださいよ、この切れ長の大きな目! 輝く金色の瞳からは聡明さが見取れるでしょう! きらめく銀の髪もさらさら! 毎日丁寧に手入れしてるのがわかるでしょう?! 『枯れ枝のように心もとない』? わたしにはこれくらいでちょうどいいんです! それにムーさんは毎日鍛えてるんで頼りになります! それに! なにより! ムーさんはわたしにとーっても優しい、これ以上ないくらい出来た執事なんです―――――――――!!!!!!」


 はあ、はあ、と芙美花が肩で息をしている。ホールにいるだれもが、呆気に取られていた。


 そこへ、とどめを刺すかのような芙美花のひとこと。


「わかりました?! ――わたしっ、B専なんです!」

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