第9話 襲撃
ゴブリン王国の首都であり、現在のところ唯一の都市であるエモットを、都市と同じ名を持つ少女ネム・エモットが、姉の恋人であり薬師の師匠でもあるンフィーレア・バレアレと共に歩いていた。
覇王エンリは、最近王としての務めが忙しく、あまり相手をしてくれなくなった。恨んでいるわけではない。エンリとネムは姉妹とはいえ違う人間なのだ。いつまでもエンリに甘えているわけにはいかないことぐらい、理解している。
だから、エンリの恋人であっても直接会うことが少なくなってきたンフィーレアに弟子入りしたのだ。
それほど前のことではない。エンリがこのエモットに入場してから、まだ二週間ぐらいしか経っていないのだ。ネムが弟子入りしたのは、ほんの二日前である。
カルネ村にいた大工とゴブリン後方支援隊の大工や鍛冶師の指導の元、怪力のオーガやトロールが力を振るい、街の建設は急ピッチで進んでいた。
丸太をそのまま使用したような武骨な建物ばかりだが、丁寧に仕上げるには時間がかかる。人間は弱いし、亜人も決して強者の部類ではない。
まずは身を守る程度の都市を作り上げ、ゆっくりと建て替えていけばいい。そうゴブリン軍師は判断した。
ゴブリン軍師はあくまで覇王エンリ直轄のゴブリン軍団の軍師であったが、現在はゴブリン王国の宰相のごとき位置にいる。他に適任者がいないこともあったし、ゴブリン王国の中核は、やはりゴブリン軍団なのだ。
ネムはエンリではない。ネムとンフィーレアが外出しても、ゴブリンたちは積極的に護衛を申し出ることはない。ただ、周辺のモンスターや敵対的な存在が一掃されたわけではないため、エンリの指示でレッドキャップのうち2人が護衛についている。
遠巻きにしているため、その姿は認められないが、鋭敏な知覚を持ったレッドキャップが守っているというだけで安心できた。
「ンフィー師匠は、いつお姉ちゃんと結婚するの?」
早くも出来上がりつつある街並みの中を森に向かって歩きながら、ネムは尋ねた。いつもの問いである。いつものようにンフィーレアは戸惑いながら、やはり応えてくれる。
「僕はいつでもいいんだけどね。エンリがいいって判断したときじゃないかな。なにしろ、今は女王だし」
「でも、早くしないと、とられちゃうよ。お姉ちゃんの回りには、色々な人がいるじゃない」
「人間がいないから大丈夫だと……うん。そうだね」
長く前髪を垂らして目さえ見えないいつもの風貌は、ンフィーレアを頼りなく見せていたが、薬師としては一流で、マジックキャスターとしてもそれなりの腕だ。
この街にいる人間の中では、もっとも高い能力を持っているとも言える。ただし、優秀な亜人種がこの都市には五万といる。
街の中ではまだまだ家が足りず、丸太を担ぐゴブリンやオーガが立ち働いている。亜人たちは屋根が無い場所でも平気で寝るらしいが、ゴブリン王国の国民は屋根のある建物を住処とするよう、国王名でお達しが出ているのだ。
「師匠、今日はどこに行くんですか?」
「薬草が何種類か足りなくなってきたから、補充に行こうと思う」
ネムは元気よく返事をする。
森に行く。ネムにとっては恐ろしい場所だ。
だが、そうも言ってはいられない。薬師を目指す以上、避けられないことだとはわかっている。
首都エモットの周囲は、丸太を突き刺したような囲いに覆われている。ゴブリン軍師が真っ先に作ったのが、女王の住むべき場所の建設と囲いである。
その外に出る。
確かに不安だったが、囲いのすぐ外には森が広がっている。
周囲の強いモンスターは、ゴブリン軍団の精鋭が討伐しているはずだし、危険は少ない。
現在では、ゴブリンやオーガといった亜人種は、むしろ友好的な存在なはずだ。
行く先々で、ネムを見かけたゴブリンたちが挨拶をしてくる。
たどたどしい人間の言葉を発する者もいれば、大柄で流暢な言葉を発するホブゴブリンもいる。オーガはネムの顔がわからないらしかったが、近づくとエンリと同じ臭いを感じるらしく、硬直して頭を下げた。
亜人種たちにここまで心服されている姉を誇らしく思いながら、ネムはンフィーレアに連れられるように囲いの外に出た。
囲いの外側にすぐ森が広がっているのは、加速度的に増えていく亜人種たちを多く迎え入れるため、可能な限り広い面積を都市の範囲としようとしているからだ。
おかげで、一歩踏み出しただけで薬草に関するンフィーレアの講釈が始まった。
ゴブリンやオーク、その他の亜人種たちも薬草の識別ができず、カルネ村の人たちだけで採取できる広さではないため、ほぼ手つかずで貴重な薬草が取り放題だった。
ネムもエンリの手伝いで薬草を潰したり煎じたりすることには自信があるが、ンフィーレアの知識は正直に凄いと思った。
亜人たちは、ゴブリン軍団だけではない。ほぼすべての亜人が戦闘を厭わない。戦力にならない者は、たぶん子供たちだけだ。現在では、カルネ村の人たちも、野伏のブリタを中心に戦闘訓練を続けている。
周辺の森に出る魔物はよい訓練相手であり、すっかり掃討されてしまっているため、不安を覚えることもなく、ネムはンフィーレアの教えを受けながら、少しずつ森の奥に分け入っていった。
「待って、ネム」
突然、ンフィーレアがネムの手を引いた。目の前に咲いた綺麗な花に手を伸ばそうとした時だった。
「あの花、毒でもあるの?」
「違う」
「ひょっとして、お姉ちゃんから乗り換えるつもり?」
「冗談でも、二度と聞きたくない」
「ごめんなさい」
ネムは素直に謝った。では、どうして止めたのだろう。
ンフィーレアは自分の唇の前に、指を一本立てた。静かにするように、という合図である。
目の前の下草が揺れた。何かが音もたてずに降りてきた。
悲鳴を上げようとしたネムの口を、突然現れた何者かが塞ぐ。
逞しく、筋張った、緑色の手だった。
ゴブリン軍団、13レッドキャップだ。ゴブリン軍団でも最強と噂が高い。
ネムの口を塞いだレッドキャップは、視線だけを動かして周囲の様子を探っているようだ。ネムと目を合わせ、小さく頷いてから、ネムの口から手を離した。
「何?」
声は出さず、息の音だけで問う。
「でかいのがいます。仕留めるのは簡単ですが……一頭じゃないようだ。囲まれるとやっかいだな」
「どんなモンスターか解る?」
さすがにンフィーレアの声も緊張している。
「待ってください。来たようです」
再び目の前の下草が揺れ、今度はがさりと音がした。緑色の体をした人影が降りる。
『来た』というのがモンスターだと思い込んでいたネムは、驚いて声を上げる。
「キャッ!」
ンフィーレアがネムの口を塞いだが、間に合わなかった。レッドキャップはもはや気にしない。たぶん、それどころではない。現れたのも、赤い帽子を被った一人だった。
「どうだった?」
「ギガントバジリスクだ。最低でも5体以上はいるな」
「ま、まさか。そんなはずがありません。ギガントバジリスクは交配時期以外に群れを作ったりしない。それも、二体が最大のはずです」
ンフィーレアに視線を向けてから、レッドキャップは冷静に言った。
「誰かが呼びだしたか、けしかけたんでしょう。どこに向かっている?」
「こっちだが、狙いは王都だろう」
「呼び出したなら、術者が近くにいるはずだ。捕まえに行ったほうがいいと思うが……」
「ネムさんとンフィーレアの兄さんの安全が優先だ」
「わかっている」
「ご迷惑をおかけします」
ンフィーレアが深々と頭を下げた。ネムには、その意味がわからなかった。
「ンフィーだって、凄いマジックキャスターなんだよ。そんなに強いの?」
「仕留めるのは簡単ですが、少しばかりやっかいな力があります。目を見ると、石化するんですよ。石化に利くポーションがあるっていうのなら、大丈夫かもしれませんが」
「無理だよ。ギガントバジリスクは、アダマンタイト級の冒険者じゃなければ倒せない。僕には無理だ。ネム、レッドキャップさんたちの言うことを聞いて。僕も一緒にいるから」
「……うん」
ネムは頷いた。この時はまだ、事態の深刻さを完全には理解していなかった。
※
覇王エンリは、ゴブリン軍師に連れられてゴブリン軍団の訓練を見回っていた。さすがに高レベルのゴブリンたちである。カルネ村の人々の訓練には参加したことがあるが、力強さも迫力も全く異なる。
ゴブリン重装甲歩兵団の突進力は、どんな頑強なモンスターでもひとたまりもないだろうと思われた。ゴブリン長弓兵団は、離れた森のハチさえ射殺すのではないかと思えるほど正確だった。
上空をフクロウが舞っていた。
エンリはどういう顔をして訓練の様子を見て回ればいいのか、いまだに解らなかったが、エンリが近くに来ると、ゴブリン軍団の戦士たちはいずれも手を止めて平伏する。
訓練をねぎらい、続けるように言うと、畏まって訓練に戻る。
「ゴブリン軍師さん、わたしの対応、あっている?」
解らないことは聞けばいいのだ。ゴブリン軍師はトレードマークの羽扇を動かしながら、笑った。
「ほっほっ。上出来だと思いますよ。エンリ陛下はいてくださるだけでも十分でしょうに、あれほど慈愛に満ちた言葉をかけられれば、命に代えても訓練を行うでしょう」
「わたし……そんなに慈愛とか満ちていないし……命を賭ける場所、間違っているんじゃない?」
「なるほど。さすがは陛下、よくお気づきで」
ゴブリン軍師が何に感心したのか、エンリにはわからなかった。上空を舞うフクロウを指で示した。さっきから、気になっていたのだ。
「ゴブリン軍師さん、あのフクロウ、誰かが飼っているのかな?」
「……ほう。さすがは陛下、よく気づかれました。この時間に、フクロウが活動しているのは不自然ですね。しかも……真紅のフクロウとは……何者かが召喚したのかもしれません。いかがいたしましょうか」
「……悪いもの?」
「何者かの偵察でしょう」
「じゃあ、何とかした方がいいよね」
「解りました。ゴブリン長弓兵団団長、覇王エンリ陛下の意を示せ!」
「覇王エンリ陛下配下、ゴブリン長弓兵団団長、お任せを!」
高く上空を待っていた真紅のフクロウの背に、矢が生えたように見えた。あまりの矢の速度に、エンリは目で負うこともできなかったし、フクロウは回避行動すらとることができなかった。
体を貫かれ、空中で姿勢を立て直そうとしている真紅のフクロウに、さらに矢が突き刺さる。
体から数本の矢を生やし、クリムゾンオウルが地面に落下する。
オオカミにまたがったゴブリンライダーが駆け出した。
「さすが、凄い腕だね」
「過分なお言葉、ありがとうございます」
ひときわ長い弓を持つ、ゴブリン長弓兵団団長が跪く。
ゴブリンライダーが戻ってきた。エンリが最初に呼び出した19人のうちの一人で、キュウメイである。最初の19人以外の者たちに名前をつけるのは、エンリは放棄した。代わりに好きな名前を名乗っていいことにしたのだが、自分たちで名乗らないため、エンリは把握していない。
腹部から何本もの矢を生やして屍となっていたのは、遠目に見た通り真紅のフクロウだった。
「珍しい種類だね」
「この辺りの種類ではありませんね。召喚されたのだと見た方がいいでしょう」
ゴブリン軍師が、真剣な顔でフクロウの死体を検分する。
「召喚……何のために?」
「すぐに、解るかと」
ゴブリン軍師の視線を追う。遠くから、白銀のオオカミにまたがるゴブリン聖騎士団がやってくる。素晴らしい速度でエンリの前まで来ると、騎乗していた白銀のオオカミから降りて報告する。
オオカミをどうやって躾けるのかわからないが、ゴブリンの隣できちんとお座りをして待っている。
「陛下、東の森でギガントバジリスクの群れが発見されました」
「東の森?」
エンリの妹、ネムがンフィーレアと一緒に薬草の採取に行くと言っていた。その場所が確か、東の森だ。
「ギガントバジリスクは群れを作りませんぞ。どの程度の群れなのか、わかりませんか?」
「発見したレッドキャップスの話によりますと、10体前後かと思われます」
「……10体ですか。リ・エスティーゼ王国を半壊、バハルス帝国でもかなりの被害を出せる数ですな。誰かがやっているとして……法国の手の者でしょう。国家レベルで対応すべき状況ですな。陛下、いかがいたしますか?」
「ち、ちょっと待って……ひ、東の森には、ネムとンフィーが……」
「二人だけ、ではないでしょう」
「レッドキャップさんが二人一緒だけど……でも、ぎ、ギガントバジリスクなんて……一体でも、村ごと非難するようなモンスターに……」
ネムとンフィーレアが死ぬ。エンリが感じたのは、身内が死ぬことの恐怖だった。いかに人間が簡単に死ぬか、エンリはよくわかっていたはずだった。それでも、生き延びてきたのだ。こんなに簡単に死ぬはずがない。そう、信じ切れなかった。
「陛下、ご安心ください。レッドキャップが着いていれば、ギガントバジリスクごときでは脅威にはならないでしょう。退治するのは簡単です。問題は、この状況をいかに利用するかです」
「……誰かがやったのなら……許せない」
エンリがはっきりと言った。エンリは、レッドキャップの強さとギガントバジリスクの強さを正確には知らない。だが、ゴブリン軍師が大丈夫だというのなら、そうなのだろうと少し落ち着いた。ゴブリン軍師は賢く、決してエンリを甘やかそうとはしない。現実が厳しいのなら、厳しいと言ってくれる。だからこそ、信じられる。
「解りました。首謀者の捕獲を優先します。討伐軍の編成ですが」
「ゴブリン軍師さんに任せます」
エンリ自身が驚くほど、その声は冷静だった。冷静で、落ち着いた声が出た。
「はっ」
羽扇を持ったゴブリン軍師が深々と腰を折った。
※
ネムは必死に隠れていた。ンフィーレアも一緒である。
木の洞に潜り込み、体の震えを止めることができなかった。
レッドキャップスに、ここに隠れるように言われたのだ。
そう言って、レッドキャップスは姿を消した。
洞の外で、どさりという重い音があがる。
同時に暗くなる。
木の洞が、生々しいひび割れた鱗で塞がれていた。
ギガントバジリスクの皮膚に違いない。
ネムは体の震えを止められなかった。
がたがたと震え、それでも、何とかしなければと思った。
薬草には根が重要な場合もある。薬草を根ごと採取するために持ってきた木製のシャベルを振り上げた。
ひび割れた灰色の肌に振り下ろそうとした時、ネムは抱きとめられた。ンフィーレアだ。
「だ、駄目だよ。まだ、僕らに気づいていないんだ。僕らの居場所を教えることになる」
「……うん。ご免」
洞の入口をこするかのように、ずりずりと灰色の鱗が移動する。ンフィーレアは冷静だ。諦めていない。そのことが、ネムを勇気づけた。
ンフィーレアが一緒なら、きっと生きて戻れるのだと感じた。
「こんな時だけど、聞いていい?」
「何だい? ネム」
「お姉ちゃんと、まだ結婚しないの?」
「こ、こんな時に、聞くことじゃないね。こ、答えないといけないかい?」
温かい。ンフィーレアは温かい。さっきより温かかった。顔が熱くほてっている。
「ううん。でも、誰かがお兄ちゃんになるなら、ンフィーがいい」
「ありがとう」
ンフィーレアがネムを抱き寄せた。ネムも怖かったので抱きついた。同時に、灰色の壁に赤い筋が走った。上から下に、まっすぐな赤いラインが入ったかと思うと、大量の液体がほとばしった。
ネムの顔に、温かい、赤い液体が振りかかる。
「お待たせしました」
輪切りにされたギガントバジリスクの肉を割り、レッドキャップスが現れた。
「う、うん。ありがとう」
ネムの声が震えた。間一髪を助けられた。二人がかりでもただ逃げ回ることしかできないモンスターを、簡単に輪切りにしてのけるゴブリンが味方だ。だが、それだけではない。がくがくと体が震えた。
「エンリ陛下のところに一人報告に行かせましたので、私が一人で相手をしなければならず、ご心配をお掛けしました。ギガントバジリスクの数は10、現在9です」
「ギガントバシリスクが9匹? 国家を滅ぼせる戦力じゃないか」
ンフィーレアが甲高い声を上げる。その声は、いつもはネムが好きな声だった。この時だけは、脳の中に襲撃を与えて響き渡った。
「誰かが放ったと見るべきでしょうが、それを突き止めるのは私の役割ではありません。私は、お二人を無事陛下の元にお連れするだけです」
「う、うん……解っているよ……」
ンフィーレアは、時々自信がなさそうに肩を降ろす。ンフィーレアは十分に凄いのだ。早くエンリと結婚してほしい。だが、ネムは言葉にできなかった。
全身が痛い。
理由が解らない。
「ン、ンフィー……」
「ネ、ネム? 大変だ。ギガントバジリスクの血は猛毒なんだ」
「どうします?」
ネムが聞いた中で、レッドキャップスがここまで焦った声を出すのは初めてだった。
「毒消しを持っているけど……利くかどうか。僕は、信仰系魔法は詳しくない。ポーションで中和しながら、街に戻ろう」
街とは、首都エモットだ。自分たちのファミリーネームがついた都市の名は、はじめは恥ずかしかった。最近では、ちょっとだけ誇らしい。
「ンフィー……」
「ネム、静かに。大丈夫だから。絶対、助けるから」
「お姉ちゃんと……幸せにね」
「縁起でもないこと言わないでよ」
「……うん」
泣きそうな顔をしたンフィーレアから渡されたポーションは、紫色をしていた。
それを飲み干し、ネムは意識を失った。
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