第6話

 唐織からおりは夜明け前には捕らえられてにしき屋に戻っていた。切手を失くしたけど誓って女郎の足抜けではないと、泣き喚く素人女を横目に悠々と、もう少しで大門を出るところだったそうだ。清兵衛には、掏摸すり紛いの芸当ができる質の悪い友人もいたのだとか。でも、地味な着物に身を窶しても、吉原を出ようとする女の顔を、ひとりひとり覗き込まれては逃げようもない。土台、無理な話だったのだ。


「姉さん……」


 見世の最奥の小部屋で、柱に荒縄で括りつけられた唐織を前に、さらさは呼び掛けたきり、言葉を途切れさせた。

 楼主と亀綾かめあやは、言っていた通りに唐織に罰を与えた。打擲ちょうちゃくこそされずとも、縛ったままでろくに食べ物を与えず、冷水を浴びせ、髪を掴んで顔を盥に沈めて。髪は乱れ頬は削げ、唐織の美貌にも見る影がない、はずだった。


「あの、わちきの、せいで──」


 そして、さらさは姉分にどのように罵られても当然と覚悟していた。さらさはあの朝のやり取りを漏らしたのだから。無事に駆け落ちしおおせるなど、糸一筋ほどの望みでしかなかったのだろうけれど。だから結果は同じだったかもしれないけれど。その微かな光明さえも断ち切ったのが、さらさの告げ口だったのだ。楼主たちは、さらさの裏切りを唐織の耳にも入れただろう。そうすれば、肉体だけでなく心も痛めつけることができるから。けれど──


「かようなことはありいせんよ、さらさ」


 色のない唇を笑ませた唐織の横顔に、さらさは息を呑んだ。無惨で哀れな姿のはずなのに、これまでに見た姉のどの笑顔よりも美しく清らかな、無邪気とさえ見える笑みだった。


「でも」

「わちきは清様と月見をしただけでありんすもの」

「月……?」

「ほんに綺麗でありんしたよ……」


 鸚鵡返しに呟くだけのさらさを余所に、唐織はくすくすと笑った。水もろくに与えられていないというから、嗄れた喉が漏らすのはごく小さな掠れた声だけだ。でも、唐織は確かに微笑んでいる。強がりなどではなく、心の底から楽しそうに、嬉しそうに。


「女郎が真を通せばみそかの夜にも月が出んしょう。清様とふたりで……ああ、綺麗だった」


 夢見るような眼差しで目を細める唐織には、輝かしい月が見えているのだろうか。ここは窓もない薄暗く埃っぽい小部屋の中で、例え外の空を見たところで、みそかに向けて月は細る一方なのに。

 さらさが抱える味噌汁の椀が、揺れた。せめてもの気付けに、と忍び込んだはずなのに、これはどういうことだろう。駆け落ちに失敗して折檻されて、打ちひしがれているはずの唐織が、どうして満ち足りた顔をしているのだろう。──さらさが、妬ましくなるほどに。


 こんなはずではなかった。これは、おかしい。その一念が、さらさの舌を動かした。


「姉さん……なぜ! なぜわちきに言いなんした!? 黙っていろと命じたんなら、わちきは――っ」


 さらさはもっと上手く立ち回れるはずだったし、もっと責められてしかるべきなのだ。唐織も清兵衛も、さらさをもっと信じて頼ってくれて良かった。何なら手引きをしただろうし、口外するなと言われていたなら、楼主や亀綾に責められても知らぬ存ぜぬを通しただろう。大切なふたりのためなのだから。あの企みを、あらかじめ知ってさえいたなら。


 もしも、は幾らでも思い浮かぶのに、そうはならなかった。さらさは何ひとつできなかった。させてもらえなかった。


「姉さん……!」


 さらさは縛られた唐織の足元に泣き崩れた。味噌汁の碗が手から逃げて、床に暗い色の染みを作る。出汁の香りが漂うのが、今の場にはどうにも不釣り合いだった。

 おかしなことだ。彼女は姉を慰めるつもりだったのだ。今ならそれができるだろう、姉は、もっとやつれてしおれているだろうと思っていた。なのに、どうしてさらさの方が惨めな思いを味わわせられているのだろう。


ぬしのせいではありいせん。本当に。あの時は、ただの戯れだったのだもの」


 きっと、唐織の声があまりにさらりとしているからだ。さらさなど、どうでも良いのだと言われたように思ってしまうから。そしてきっと、いつでも、清兵衛の方でもそうだったのだ。


きよ様の目を見て──清様も、同じことを考えているのが見えんした。言葉にせずとも伝わるのが楽しくて、夢物語を紡いだまで」

「では──では、いったいいつ……!?」


 唐織が語るのは、紛れもない惚気だった。それも、女郎たちが客の羽振りや貢がせた品を比べ合うのとはまったく違う。形あるもの、金で価値が量れるものならば、いずれ手に入れることもできるだろうに。思った相手に同じくらい思われているということ。言葉に拠らず通じ合えるということ。そんなことを聞かされたら、嫌でも悟ってしまう。唐織が身請けされようとも、さらさはその代わりになどなれないのだ。


末日みそかが近づくと、夜が暗うてなあ」


 知ってか知らずか、唐織が呟くひと言ひと言が、さらさの胸を抉り、貫く。夜空を見上げた清兵衛の呟きが蘇るから。そして、彼女自身が漏らした声も。


『月がまだ出ていねえな。空が、暗いこと』

『真があれば、みそかの月も出るのでありんしょうが』


 清兵衛は、あの場にはいなかった唐織を思っていたのだ。さらさの声など最初から聞こえていなかった。唐織も、他の客と寄り添いながら、清兵衛と同じ空を見ていた。そしてきっと、ふたりは同時にあの朝の戯れを思い出した。さらさを揶揄うための作りごとは、思いのほかに手が届く企みだと、思い至ってしまったのだ。


「こうなることは承知の上。わちきに悔いはありいせん。清様もみそかの月を確かに見たと仰せえしたもの」


 か細く、けれどきっぱりと言い切った唐織の声を、さらさはこれ以上聞きたくなかった。姉が見た闇夜の月など、彼女には見えないのだから。まして、共にそれを見る相手もいない。清兵衛が見るのは唐織だけで、さらさなど眼中になかったのだ。そんなことを、突き付けられたくなかった。


「さらさ」


 でも、耳を塞ぐことはできなかった。姉の美しく優しい声で、名を呼ばれてしまっては。突き放されても心を抉られても、惚れた相手の声なのだから。唐織はさらさの姉なのだから。


「主に分かる時が来るか否か。分からぬ方が良いのか否か。分かりいせんが。嘘も真も主が見分けなんせ。わちきは教えてやれえせん」


 判じ物めいた口調に顔を上げれば、唐織の顔が暗がりに白く浮かんでいた。血の気の失せた頬を、それでもほんのりと染めて、口の端を持ち上げている。姉は、妹分まで手玉に取ってどういうつもりなのだろう。この期に及んでさらさを見惚れさせて、何になるというのだろう。嘘と真の境目など、さらさには見分けがつきそうにない。もっとはっきりと、分かるように教えて欲しいのに。


「姉さ――」

「さらさだね! 何してるんだい!」


 答えを求めてさらさが伸ばした手が、唐織に届くことはなかった。話し声を聞きつけたのだろう、亀綾が怒髪天を衝く勢いで駆けつけたのだ。唐織に手を差し伸べた姿は、姉を逃がそうとしていると見られても仕方ない。


「情けをかけるんじゃないよ、当然の報いなんだから!」


 頬を張られてよろめいたところを、襟首を掴まれ引きずられる。唐織の妙なる笑みは、すぐに戸の向こう側に消えた。


 さらさが唐織と言葉を交わしたのは、それが最後になった。

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