第5話

 唐織からおりの身請けと、自身の水揚げと。それぞれの支度に立ち働くさらさは忙しかった。だからあの朝の悪ふざけもみそかの月などという絵空事も、頭から綺麗に抜け落ちていた。葉月も残りわずかになった夜のこと、久しぶりに清兵衛せいべえを姉の座敷に迎えるとなった時、ひたすら喜びだけを感じるほどに。


 でも、それも芸者や禿らが目を離した隙に、もぬけの殻になった唐織の座敷を見るまでのことだった。


「唐織花魁が、見世のどこにもおりいせん!」

「何だと!? 今日の客人は!?」

「あの、きよ様で――呉服屋桐生きりゅう屋の若旦那の、清兵衛様」

「どうして誰も気付かなかった! 下へ降りるところを、誰かは見ているはずだろう!」

「仕掛も簪の類も、花魁は全て外していった様子。どのような変装をしたものか、わちきらもまったく……」


 楼主と、芸者や他の遊女が怒鳴り合うのを、さらさは呆然と聞いていた。座敷に無造作に脱ぎ捨てられた色鮮やかな仕掛は、先ほどさらさが姉に着せかけたものだ。清様に見せるのにどの衣装にしようかと、和やかに語らったはずなのに。唐織は、普段と違う様子など何も見せなかったというのに。


「女連れでは大門は越えられねえ! 壁を乗り越えるつもりか――不審な者がいないか、回って来い。お歯黒どぶもだ。溝に板をかけて渡るつもりかもしれねえ!」


 楼主の命令に若い衆が駆けだす頃になってやっと、吉原の夜の喧騒がさらさの耳に届くようになった。彼女の魂が現に戻って来た。

 絶えることがない三味線の音、どこかからか聞こえる笑い声や幇間のおどける声。潮騒を思わせる、通りの喧騒。今は葉月だから――にわか見物で、ことに賑やかな。外の様子を思い浮かべた瞬間、さらさの耳に蘇る声があった。唐織と清兵衛が笑い合う声だ。もう遠い昔のように思えるあの朝に、ふたりは何と言っていただろう。確か──


「花魁が俄に紛れても気付かれえせん……」

「何だ、さらさ、何か聞いているのか!? 隠し事をするとただじゃおかねえ!」


 か細い声で漏らしただけなのに、血相を変えた楼主に詰め寄られて、さらさの喉からひっと悲鳴が漏れる。でも、一度口にしたことを呑み込むことはもうできない。

 それに、腑に落ちてしまったのだ。張見世はりみせを覗きに来た時の、清兵衛の含みのある表情。空が暗いと言ったこと。唐織は、間もなく他の男のものになる。末日が近づくにつれて、月の出は遅くなる。俄見物の人波は、焦がれる男の姿さえ瞬く間に呑み込んでいった。それなら、きっと名高い花魁だって。


 あの朝のことが冗談だったのか本気だったのか、さらさにはもう分からない。でも、駆け落ちするなら今しかないと、清兵衛は心を決めてしまったのではないだろうか。その覚悟と計画を、どうにかして唐織に伝えてしまったのではないだろうか。


「……座敷での戯れと……わちきを揶揄からかったものと思うておりいした。でも……唐織姉さんが清様と……物見遊山の女から切手を奪って、そ知らぬ振りで、と――」


 さらさが言い終わる前に、楼主は彼女を突き放すと再び大声を上げて人を呼び集めた。


「塀回りじゃねえ、大門だ! 会所にも届けろ。通ろうとしている女の顔を、ひとりも見逃すな! あの野郎、唐織は身請け間近だってのにかどわかしやがって……!」


 床に倒れたさらさの身体に、若い衆が右往左往する足音が響く。その物音も男たちの大声も、彼女を追い詰めているようで、怖い。


「楼主様、姉さんは、清様は――」


 楼主が客を悪し様に罵るのを、さらさは初めて聞いた。世間からは徳を残らず忘れた忘八ぼうはちと呼ばれても、決して冷酷なだけではなかったのに。読み書きや幾らかの嗜みは楼主からも手ほどきを受けた。女たちの親代わりの人でもあるのに。

 でも、頼れるはずの楼主は、さらさを蹴飛ばすようにして人の采配に夢中になっている。買い入れた時の金は言うまでもなく、女郎を育て上げるまでにかかった金は、その女の借金になる。それを踏み倒すからこそ女郎の足抜けは許されないのだ。特に唐織は身請けを控えた身だ。何百両と積んだ高田屋の手前、足抜けを許したとあっては、見世の体面にも傷がつく。それは、分かるのだけど。でも、騒ぎの中心にいるのが唐織と清兵衛だと思うと怖くて不安でならなかった。しかも、さらさが漏らした小さな呟きが、事態を動かしてしまったのだ。


「よく言ったね、さらさ。楼主様へ借りを返さず駆け落ちなんざ、不孝者も良いとこだよ」


 くずおれて泣き出したさらさを支えたのは、り手の亀綾かめあやだった。老女の割に力強く、そしてやはり、声には唐織への憤りが滲んでいる。


「亀綾さん、わちきは――」


 どうして叱られないのか、不思議でならなかった。姉を裏切って告げ口したさらさは、それこそ不孝で不忠のはずだ。なのに、亀綾は常になく優しく微笑みかけてくる。


「安心おし。高田屋様にお渡しする身体に傷をつけられねえ。せいぜい食事を抜くか、水責めか、ってくらいだよ」


 当然のように断言されて、さらさは震え上がった。冬にはまだ早いというのに、彼女自身が冷水に浸けられたかのように寒い。さらさは、まだ楼主が激昂するほどの不始末をしでかした遊女を見たことがない。でも、過ぎた折檻で責め殺された遊女の霊、というのも吉原にはつきものの怪談なのだ。


「さあ、めそめそしてるんじゃない。あんたにできることをおし。お客は他にもいるんだからね。笑顔のひとつも振りまいておいで」


 綾亀に追い立てられて座敷に向かわせられるさらさの足は、雲を踏むようだった。唐織と清兵衛の一大事に、どうして笑って媚びを売ることができるだろう。


 でも、そう思っていたのも客の前に出るまでだった。


「騒々しいな。何かあったのか」

「いいえ、なんにも」


 訝しがる客に、さらさはどういう訳か素知らぬ顔で答えることができたのだ。考える前に口が勝手に動いていた。その座敷の花魁も、禿も芸者も幇間も、大方のことを知っているはずなのに。あるいは舞い、あるいは客に酌をして。浮かれたひと時を醸していた。誰も唐織を案じないのは冷たいと思うのに、さらさもその中のひとりだった。


 笑うたび、はしゃぐたび、媚びるたびに、さらさの胸に黒い雲が広がっていった。今宵も月はまだ出ていまい。暗い夜は、唐織たちに利するのだろうか。ふたりが逃げおおせることを願っているのか、それとも、その逆を望んでいるのか。自身の心の真さえ、さらさにはやはり分からなかった。

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