5話 煤原信夫

 篠田の運転で例の海辺に向かう。規制線が張られた現場では、新しく参加してきた警視庁の捜査員たちが再び現場検証を行っていた。中には多田の姿もある。

「あの筋肉ダルマ、絶対一回殴るっす」

「そんなことしたら下手すりゃ降格、謹慎……とにかくやめておけ」

「先輩は悔しくないんすか!?」

 クルマを降り、大きく深呼吸をする。あの朝は血の匂いがするような気がして息を吸うのも吐くのも嫌だったが、今日はそうでもない。

 潮の香りがする。

「悔しくない。自分がやったことの責任を取らされているだけ」

「先輩……」

「それよりあの巡査だ。探そう。交番に行けばいるかな?」

 くちびるを尖らせたままの篠田の背中を押し、浜辺ではなく街中に向かって歩き始める。時間があったらまたあの肉屋に寄ってコロッケを買おう。久野不動産にも挨拶をしよう。

 そう決めてしばらく歩いたところに、海にいちばん近い交番、と呼ばれている建物があった。

「こんにちは」

 顔を覗かせると、白髪の巡査が小学生と思しきふたりの少女と言葉を交わしているところだった。

「人魚をね! 見たの!」

「ほんとだよ! ママは信じてくれないけど……」

「きみちゃんのママも? あたしも『うそでしょ』って言われた」

「見たのに……」

「おまわりさんは見たことありますよね!? 人魚!!」

 口々に捲し立てる少女たちの前にちょこんと腰を下ろす巡査は、困るでもなく、迷惑がるでもなく、かといって子どもの戯言を聞き流すでもなく、穏やかな笑顔を浮かべてふたりの言葉を浴びていた。

「失礼します、県警の篠田と申します!」

「うわっ!」

「おまわりさんだ!」

 声を張り上げる篠田を見上げ、少女たちがぴょんぴょんと飛び跳ねる。

「おっきい!」

「本物のおまわりさん!」

「県警の篠田で〜す! ねえ、きみたち人魚見たの? お兄さんにも聞かせてよ!」

 しゃがみ込み、少女たちと視線を合わせる篠田の後頭部越しに、白髪の巡査と視線がぶつかった。

「これは、これは」

「押しかけてしまって申し訳ありません。先日はどうも」

「県警の……?」

「煤原信夫と申します」

 身分証を差し出すと、はあ、ご丁寧に、と巡査はペコリと会釈した。

八房はちふさと申します。八房はちふさ平八へいはち

 子どもたち相手の聞き込みは篠田に任せ、単刀直入に本題に切り込んだ。

「実は、人魚の話を詳しくお聞きしたくて」

「県警の刑事さんが?」

 と、八房は薄っすら笑う。

 嘲笑でも失笑でもない、それはただ薄い、何の意味もない微笑だった。

「ご冗談を」

「でも、八房さん──先日お会いした際、仰ってましたよね。人魚が犯人だと思ってるって」

「寝惚けていたんですよ。あまりにも朝が早かったから」

 嘘だ。あんな凄惨な遺体を見て、寝惚けていられる人間などいるはずがない。

「これは捜査でも聞き込みでもありません」

 煤原の言葉に、篠田がぴくりと反応するのが分かった。

です」

「道楽」

 黒縁眼鏡の奥の目が、さも意外そうにぎらりと光る。

「職権濫用では」

「その通り。自分は、こう、なんていうんです? 所謂怖い話やなんかを収集するのが好きでして」

 嘘ではない。

 八房と煤原のあいだに流れるなんともいえない空気に気付いたのか、篠田を相手に人魚の話をして盛り上がっていたはずの子どもたちが、じっとこちらを見詰めていた。

 外に、と少女たちを連れ出そうとした篠田を制し、八房が先に交番を出た。


 日が高い。夏の終わりとはいえ、まだまだ昼間の気温は高いし、日焼け止めなしで外を出歩くのもあまり得策とはいえない。そんな中、煤原を先導するように八房は歩きはじめた。

 海岸線に人の気配はない。遺棄現場からはどんどん遠ざかっているので、捜査を進めているはずの警視庁からやって来た面々の声なども聞こえない。

 自分たちが、例の幽霊屋敷の方に向かって歩いているということに、煤原は不意に気付いた。

「怖い話を収集するのがお好きなら」

 歩きながら、八房が口を開く。さざなみのような声だった。

「あのお屋敷にはもう足を運ばれましたか」

「はい」

 正直に頷けば、なにもなかったでしょう、と八房はまた笑う。

「庭が」

 とても綺麗でした、花が咲いていた、あの庭は──

「久野の二代目の女房ですか。しゃんとした良い女性だ」

「ご存知で」

「この街で生まれて育ちました。大抵のことは知っています」

 八房が不意に足を止めた。幽霊屋敷まで行くにはもう少し歩かなければならない。街と、海と、屋敷を繋ぐ、ちょうど真ん中の高台にふたりは立っていた。

 海を見下ろすことができた。目を凝らせば、浜辺で事件の手がかりを探す警視庁の捜査員の姿を見ることもできた。

「煤原刑事、どう思いました、あのお屋敷」

「は」

「打ち捨てられて何年ぐらいだと?」

「……十年から、二十年、ぐらいですかね。外壁と庭しか確認していないので、断言はできませんが」

 ほう。小さく呟いた八房が制服のポケットから煙草を取り出した。HOPEだ。小さなライターで紙巻きに火を点けた八房は、そんなもんじゃあありませんよ、と低く言った。

「五十年──半世紀前にあの家は途絶えた」

「は……」

 ぽかんと口を開いて煤原は目の前の男をじっと見た。背の高い男だった。目線の高さは煤原と同じぐらい。そう、あの朝もそんな風に思った。

 黒縁眼鏡を外した八房が、真っ直ぐに視線を返してくる。

「あのお屋敷の主人あるじは、人魚を飼っていたんです」

 彫りの深い顔立ちの、美しい男だと思った。今の年頃でこの美しさなのだからもっと若ければ──いや、そんなことはない。若い頃より今の方がきっと美しい。八房の持つ美貌は、そういった類のものだった。

 制帽を交番に置いてきたらしい八房の銀髪が、海から吹く風によってふわふわと揺れた。

「人魚を飼うなんて、罰当たりな。だから滅びてしまったんですよ」

 吸い終えた煙草の火を指先で消し、吸い殻をふところにしまいながら八房が言った。煤原に語りかけているというよりは、まるで自分自身に──いや、自分自身ですらない、この場にはいない、煤原の知らない誰かを叱り付けているような、そんな強い口調だった。

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