歌姫
大塚
序
見る男
今日が初めての臨場だというまだ名前も知らない一年生が、岩場の影で吐いている。無理もない。刑事になって初めて訪れる現場がここであったというのは、彼にとって不運以外の何物でもない。もしかしたら今日を最後に辞職してしまうかもしれない、と
浜辺に遺体のようなものが打ち上げられている、という通報を受けて真っ先に現場に駆けつけた、地元の交番に勤務する巡査の方がまだ落ち着いていた。見たところ五〇歳以上、もしかしたら定年直前の年齢かもしれない長身に白髪の巡査は、黒縁眼鏡の奥の目を細めて、現場検証を行う県警の刑事たちの姿を眺めていた。
この現場に野次馬はいない。不思議な話だ。スマートフォンやSNSが普及してからこっち、凄惨な殺人事件が起きた場所や、尋常ではない状態の遺体が上がった現場には、センセーショナルな
鑑識の
「どうです」
「どうもこうも」
犬飼は大仰に肩を落とし、同じですよ、と呻いた。
「前二件とまったく同じ、何もかもがおーんなじ」
「つまり?」
「凶器を使用した形跡なし。顔は完全に潰されている。幸いにも歯は無事なので、ホトケさんがどこの誰かは今日中に判明するでしょうけど──それに何より、腹ですよ、腹」
煤原よりも少しばかり背の高い犬飼が、紺色の制服を着用した自身の腹をぐるりと撫でながら言う。
「内臓がないぞう、なんつって、ね……」
「あまり面白くないですね」
「僕だってそう思ってますよ! でもね、そんなこと言わずにはいられんほどに空っぽなんですよ、腹ん中が」
顔を潰され、腹の中の内臓がすべて失われ、凶器を使った形跡がない。確かにその三つの特徴を備えた殺人事件が、既に二件発生している。これで三件目だ。三件目。
「三件目……」
先ほど犬飼が述べた遺体の特徴は、まだ報道には乗せていない。つまりこれらの連続殺人は模倣犯、愉快犯によるものではなく、同一人物によって行われた犯行である、というのが煤原の所属する捜査本部全体の総意だった。
舌打ちを噛み殺す煤原の肩を軽く叩き、詳しくは捜査会議で、と言い置いて犬飼は遺体の元へと戻って行った。
夏の終わりの浜辺での犯行だ。被害者は今回の三人目も含めて皆男性。二十代から三十代半ばの成人男性。朝の陽光できらきらと輝く青い海は美しく、ひと月ほど前までは海遊びを楽しむ客で大変な賑わいだったと地元の飲食店や、民宿を営む人々から聞いていた。今現在のひと気のなさは殺人事件の余波ではなく、単に夏が間もなく終わる、それだけの理由だ。
「クラゲも出ますしね」
「え?」
唐突に、傍らに立つ巡査が口を開いた。年齢の割には背が高く、目線の位置は煤原と同じぐらい。黒髪と白髪が2:8ぐらいの髪を丁寧に撫で付け、その上に制帽をちょこんと乗せた巡査が、額の汗を拭いながら煤原に向かって微笑んでいた。
「クラゲも出ますし。もう、海水浴には向いていませんよ」
「はあ」
それはまあ、そうかもしれない。煤原自身はあまり海で遊んだことがない。そういう家庭に生まれなかった。警察学校の水泳の授業が自ら水中に潜った最初で最後の経験だが、それ以降は仕事でもプライベートでも水辺に足を運んだことはない。
今回の捜査でも、海の中に入るのは煤原の仕事ではない。
「クラゲが出るんですか」
「ええ。刺されると痛いですよ」
「刺されるんですか……」
煤原にとってのクラゲは水族館で見るものか、或いは食卓に並ぶものかのどちらかだ。刺されると痛い。海辺で遊ぶ人々にとっては常識なのだろう。だからこの時期にはもう観光客がいない。いないはずなのに浜辺で人が死ぬ。尋常でない死に方をする。
「刑事さん」
巡査が言う。
「この海には、人魚が出るんですよ」
そうか、クラゲだけでなく人魚も出るのか。それは怖いな。
と思ったところで煤原は我に返る。
人魚?
「に……人魚って?」
「信じられませんか? そうですよね。私だって、この年まで生きてきて一度しか見たことがない」
でもね、刑事さん。
老巡査が言う。
至って正気の声で、言う。
「私は、この事件の犯人はあの人魚なんじゃあないかって思っとるんですよ」
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