十五 トーマス・バトン

 二〇五六年、九月一日、金曜。

 ユーロ連邦、ドイツ、バイエルン地方、フユルー郊外森林地帯、モーリン・アネルセン宅。


 思考すると思考した未来が消える。祈りなら実現する場合もあるが、誰も祈りと思考を区別していない。これは僕が知りたいと思っているDNAの分子記憶と関係があるように思う。つまりローラが放ったエネルギー波とだ・・・。

 トーマス・バトンがそう気づいたのは、大隅教授から、

『私と宏治とラビシャンの三人が、ローラの発したエネルギー波を浴びた。

 三日後の検査で、宏治と私にテロメラーゼの大量分泌が認められた。エクソンが変異し、未分化細胞が現れている。

 こちらの分析器ではテロメアを調べられない。ローラの分析結果に近づいているのではないかと考えられる』

 と連絡を受けた後である。


 以前からトーマスは思考と祈りの違いに独自の考えを持っていた。それは大宇宙の彼方を浮遊する記憶の断片に過ぎず、吹けば飛ぶようなちっぽな考えかも知れなかった。自分の考えが多くの自然科学者から支持されないのも充分承知していた。

 彼の頼みは心理学者でなく、彼らからオカルト的と見られている宗教科学者と精神科学者だった。



 午後の穏やかな陽射しに、古く煤けた太い梁の下でアーチ状の回廊が浮き上がって見えた。宗教科学者で精神科学者のモーリン・アネルセンは、ヒールで床を叩くように陽射しの中を進んだ。

 また、あの小うるさいマスコミの連中や、自分の名声のために私の学説を利用しようとする者が予約なしに現れたってとこね。ちょっと話すだけで、さようならだわ・・・。

 そう思いながら、モーリンは唇を僅かに歪めて笑い、長い金髪をなびかせて回廊から広間を抜けて、客が待つ応接間の古びた大テーブルの前に立った。


 大テーブルの脚は、トウヒをピューマの後脚に似せて優美に彫り上げてあった。それだけ見れば芸術的価値はあるが、脚の上に乗った天板は非ユークリッド的平面を成して、テーブルにこぼれたスープを全て吸いこむブラックホール的隙間が粗雑な合せ目の随所にあった。質素と呼ぶより製作者の根気の無さが浮き彫りになった造作に、モーリンは祖父を思い出してなぜかいつも苦笑した。


 モーリンを見て、テーブルの向こうに座った客が気まずそうな顔になった。苦虫を噛み潰したように口を動かして、儀礼的に立ち上がった。

「すみません。あなたを笑ったのではないんです。このテーブルの製作者が、製作を途中で投げ出しました。おかげで脚と天板のバランスがこの有様。見るたびに思い出します。私の祖父を。私がモーリン・アネルセンてす」

 テーブルへ歩いたモーリンは苦笑の原因を説明して改めて挨拶した。

 客は突然の訪問を詫びて、トーマス・バトンと名乗った。


「ところで、バトンさん。今回の訪問はインタビューの打合せですか?それとも?」

「TV局ではありません。それに、あなたの学説を利用して世に出ようなどと考えていませんからご安心を・・・」

 トーマスは立ったまま恥じるようにそう言った。テーブルのブリーフケースを開いて書類をを取り出して眼鏡をかけた。

 近年、見なくなった光景がモーリンの前に繰り広げられている。モーリンは、半世紀過去へ戻ったような感覚に襲われた。


「タブレットパソコンを使わないのを妙に思うでしょう。監視システムの盗聴やハッキングを避けるためです・・・。

 このコピーに記憶があると思います。全く同じだとは言いませんが、僕の考えも似ています。もっと詳しく説明してもらえたらと思いまして・・・。

 それとDNAの分子記憶について、アネルセンさんの考えを聞きたいのです」

 コピーは、モーリンがネイチャー誌で発表した、宗教と精神の論文だった。


「お座りください。そのコピーでは詳しい事が解らないでしょう。論文の重要な部分をお持ちします。その前にどのような仕事を?」

 古びたブリーフケース。流行遅れのジャケットと眼鏡。どれも一獲千金を夢見る者が身に着けそうにない代物だ。何かを極めようとする少年のような熱い視線から判断して、トーマスは世渡りが下手な学者にしか見えない。

「ストックホルム大学で分子生物学を研究しています・・・。

 実は・・・・」

 トーマスは、自身の身上とこれまでの考えに至った経緯を、ローラに関する件も含めて隠さずに話した。


「わかりました。でも、なぜ精神科学と宗教科学を?この分野は科学者たちから認められていませんよ」

 モーリンは椅子の背もたれを握って立ったままトーマスを見た。トーマスの薄茶の髪が耳から垂れて眼鏡の金属の縁にかかっている。眼鏡の中の澄んだ目が大きく見えた。


「わかってます」

 トーマスはメガネにかかる髪を指でよけて、

「でも、僕は何としても祈りと思考の相異や、DNAの分子記憶について、真実を知りたい・・・」

 コピーを二枚めくり、紙面の行間に指を走らせた。三分の一ほど目で追って指先を止めて紙面を叩き、少年のような笑顔を見せている。

「夢と想像と心象の相異はまさにこの通りです。けれども、これらは自己の内面的変化に過ぎず、他への影響が述べられていません」

 話し始めたトーマスは別人に見えた。モーリンを気にする控えめな口調は一変し、言葉一つ一つに重みが感じられる。


 モーリンの脳裏に彩られたネットワークが浮かんだ。それは単なる網目ではなく、無数の球体を色彩に富んだ思念波のネットワークが結んでいる。

 このネットワークは色彩で識別できないはずなのになぜなの?

『彼の候補が現れたからです・・・』

 誰かがモーリンの疑問にそう答えた。


「バトンさん。説明しましょう。今のところ他への影響は不明ですが、我々は大きなネットワークの一部に似ています。コンピューター・ネットワークではありません・・・。

 そうね・・・、神経細胞のネットワークであり、個々の神経細胞が平行宇宙の星々であるような巨大なネットワークと言えばよいでしょう・・・」

 モーリンは笑顔を見せた。

「理解しにくい・・・」

 トーマスは顔を曇らせて再びコピーを見ている。少年のような笑みは消えて、疲れ切った意識がどっとコピーの紙面に注がれた。

「難しく考えなくても理解できますよ。しばらくお待ちを・・・」

 モーリンはトーマスに微笑んで、テーブルから離れた。


 しばらくしてモーリンが戻った。厚い本をテーブルに置いて付箋のページを開き、

「ここを専門家が見たら笑うでしょうね・・・」

 ページを一枚めくった。

 実際、論文の発表会場でどよめきが起こって、宗教学者でさえ最初はまともに考えなかった部分である。

「人体組織に存在する意識領域と無意識領域についての考察です。

 最初に説明しているのは、刺激に反応する意識と無意識です。夢や想像、場合によっては心象が引き起される過程そのものの事です」


「全てが外部刺激からですか?」

「全てではありません。刺激はきっかけに過ぎないと言えます・・・」

「では、想像や夢や心象は直接引き起こされるのではないと?」

「ネイチャーの論文は趣旨をぼかしてあります。本論はここに・・・」

 再びページをめくり、モーリンはイラストが並んだページを指さした。

「これは意識領域。人間本体に危険な情報が侵入すればその情報を破棄し、精神も含めて人間本体を保護します。無意識領域も同様です」

「それは・・・・」

「実際はメインもサブも無いんです。全てが自己であり、無意識領域も自己意識です。

 外部情報と思い込んでも、自己内にある情報を外部からと思い込んだまま、自己が処理しているに過ぎないのです」

「夢、想像、心象は、自己の独自な反応ですか?」

「意識領域と無意識領域が行う内部情報の組み立てに過ぎません」


「では、予知とか祈りはどう説明するのです?」

「内部情報の組み立てには何らかの形があります。映像とか言葉とか・・・」

「それなら、衝動に近い思いや閃きは、場合が異なると?」

 トーマスはおちつかない目でモーリンを見た。

「自己の内部だけか、自己を除いた外部からの情報です」

 トーマスの顔がさらに困惑した。じっと論文を見ている。


「今日はゆっくりなさって論文を理解してください。バトンさんが知りたいと思っている内容まで、かなりのページ数がありますから・・・。

 お泊りいただけますわね?」

 トーマスが驚きの顔でモーリンを見ている。

 モーリンは笑顔を見せた。この男があの次世代の者だと言うのか?エネルギッシュな面はある。だけど、こんなに動揺する者が次世代の者とは思えない・・・。


「では・・・、ご迷惑でなければ、一晩・・・。その間、これを貸していだけますか?」

 トーマスは論文とモーリンを見くらべながらそう言った。

「ええ、よく読んで理解してください・・・」

「ありがとう・・・」

 トーマスは論文を最初から詠み始めた。

 トーマスの周りで、何かが揺らいで見えた。動揺していたトーマスの意識が論文を理解しようとする意欲に変って、安定した心の雰囲気が周囲に何かを呼び寄せている。

 モーリンはトーマスの周囲を感じとろうとした。


「何か?」

 トーマスが顔を上げた。

「いえ、何も・・・。一晩と言わずに、理解できるまでの方が良いでしょう」

「・・・」

「となれば、時間があります。今日はここまでにして、この館を案内します」

「でも、僕は・・・。いや、あなたは僕の事を知らない。なのにそんなに・・・」

「いいんです。部屋は空いてます。いずれわかりますから」

 モーリンは机の論文を閉じた。トーマスの腕を取って椅子から立ち上がらせた。

「こちらに・・・」

 モーリンは笑顔でトーマスを見上げて歩きだした。

「荷物は執事が運びますから」


 この大きな机がある応接間は、玄関の間のすぐ奥にある。

 二人は応接間から広間を抜けて回廊へ出た。

「ここの住所がよくお分かりになりましたね」


 ここはユーロ連邦のドイツ、バイエルン地方にあるフユルー郊外の森林地帯で、チェコ、ボヘミアの森林地帯に隣接している。


「アネルセンさんの著書からは不明だったので、友人から・・・」

 モーリンは何だか浮き浮きしていた。しかし、実際に感動しているのは自分ではないとわかっていた。先ほどから視界の右隅に、小さく金色に光るニオブが現れて、得も言われぬ意識を感情に変えてモーリンに伝えていた。

 トーマスはニオブに気づいていなかった。


 回廊を抜けて、吹抜けの大広間へ出た。

「案内と言ってもこれしかありません・・・」

 モーリンは、大広間を右手に見下ろす階段を上り始めた。

「先程の応接間の周囲に、客室が五つとキッチンとダイニングルームがあります。

 回廊の先がこの大広間で、この階段下の左に、応接間と居間を兼ねた広間と、ダイニングルームとキッチン、執事の部屋があります・・・。

 この大広間は、見てのとおり、天井が吹抜けです。二階は、一階の広間やダイニングルームや執事の部屋の真上にあります。

 二階にも広間と客室が五つあって、少し小さめなダイニングキッチンルームがありますから、不自由ないはずです・・・。

 図書室は、あちらの階段を下りたドアの先・・・」

 モーリンは、大広間の反対側にある、もう一つの階段を示しながら階段を上って、 大広間を取り巻くバルコニー風の回廊に立った。

「図書室は、二階からも下れます・・・」


 トーマスは、モーリンの説明より周囲が気になった。応接間を出てからずっと雑踏の中にいる様に感じている。今も、モーリンの周りに人が居て、モーリンの説明を観光客のように聞いている。モーリンの周りだけではない。トーマスの背後にも誰かいるみたいだった。


「・・・どうかしまして?」

 何も話さなくなったトーマスに、モーリンは立ち止った。

「えっ?・・・ええ」

「何か?」

「アネルセンさんは、ここに、お独りでお住まいですか?」

 無粋な質問に思えた。モーリンは彼女の出版物に記載された年齢、四十代より、遥かに若く美しく、三十代前後にしか見えなかった。

「いや、馬鹿げた質問でした・・・」

「私一人ではありません。家族や親戚といっしょ、と言ったら驚きますか?」

「いいえ、驚きません」

 事業を起こして資産家になった一人に一族が集まって、一族で事業を切り盛りする。よくある話だ。

「そうじゃありませんの・・・」

 モーリンはバルコニー風の回廊から居間への回廊を歩いて、トーマスの考えを否定した。


「ここです」

 モーリンは居間に面して隣り合うドアを指さした。

「ここが私の部屋。バトンさんはこちらをお使いください・・・」

 左のドアを開けて中へ入り、いつ持ってきたのか、論文をまとめた本を部屋の机に置いて、論文の本を見つめながら、トーマスの思いを気にして言った。

「家族と言っても・・・」

「いえ、もう、いいんです」

 開いたドアから、何かが次々にトーマスの前を通って部屋に入ってきた。それはモーリンには見えるが、トーマスは気づいていなかった。

「それでは、私は隣に・・・・。荷物が届いています」

 モーリンは部屋を出ながら、ドアの横を指さした。

「ありがとうございます」

 トーマスはブリーフケースを部屋に入れて机の横に置いた。

 部屋に居る何かは、まだ、トーマスの周りに居た。


 自室に入ると、モーリンは漂っているニオブを見つめた。

『オリバー、茶化さないで。彼なの?』

 ニオブが、朝霧のような薄いぼんやりした影になった。

『純粋ですね。違いますよ』

『さっき、彼だ、と言ったじゃない』

『候補と言っただけです。これから鍛えますか?』

『そのつもりだけど、そっちでするんでしょう?』

『さあ、どうしたものでしょう』

『まったく気まぐれなんだから』

『彼の気持ちしだいです』

『どんな?』

『その気になれば情報を与えます』

『素質は大いにあるわ』

『過去もそうでした。けれども、皆、見える世界だけを信じていました』

『彼にはもう後がないのよ。それが彼の本質だから』

『良く見ていますね・・・。では、情報を与えましょう』

『ありがとう。徐々にお願いね』

『わかりました』

 朝霧のような薄いぼんやりした影がモーリンの中に消えた。

 モーリンは額の汗を拭った。


 急いではいけない・・・。これまで資質ある者たちが現れて去っていった。彼らはここに来た事すら記憶に留めていない。その方が世の中を混乱させずに済む。だが、事実がないがしろにされるのは気にくわなかった・・・。

 隣室のバトンの心に触れるには、自らの心の覆いを解かねばならない・・・。

 ベッド横たわったモーリンは天井を見た。心身のガードの形状を魂に至るまで一つ一つ思い浮かべて外していった。困難な作業だが、これを終えない限り、直接、バトンの心や魂に触れられない。


 数分後。

 作業を終えたモーリンの心は部屋の分厚い石の壁を超えた。と同時にモーリンはトーマスの目に直面した。

 何て事!彼は心をコントロールしてる!それなら話は早い!

 

 論文に熱中していると思っていたトーマスは何もしていなかった。ベッドの上で胡坐を組んで座禅するように無我になり、周囲の状況を感じていた。だが、彼はそれを考えていると思っている。

 モーリンの心は再びトーマスと対面した。今度は少し距離を置いて・・・。


 気づいて以来、いろいろ経験してきた。見える世界だけがこの世じゃなかった。形あるものには全て意識がある。

 意識は単独でも存在し得る。つまり我々には見えていない世界も存在する。だが、今の僕は何もできない・・・。

 見えない世界の影響が我々の世界に現れるのに、その逆が少ないなんて、僕は納得できない・・・。僕の疑問の答えがこの論文にあるはずだ・・・。


 過去のさまざまな失態がトーマスの心に浮かんだ。

 今さら後悔しても、気まずい過去の記憶は消えない。記憶に束縛され、現実の自分が潰されるのはわかっている。やはり見えない世界が、見えている世界に影響している・・・。

 いや、論文はそうは述べていない・・・。心や魂だけの存在なら、思いは善悪に関わらず純粋そのものだ・・・。身体があるから様々な意識を持つのか?


 また、トーマスに数々の失態が心に浮かんだ。

 どんな時も僕の身近に僕に影響を及ぼす、その分野の大物と呼ばれる人物がい。そしていずれの場合も、人道性に欠ける者たちが地位と名声を得ていた。僕は彼らに良い印象を持たなかった・・・。

 何て事だ!振り回されっぱなしじゃないか!彼らと一線を隔てたのに、彼らから影響されていたとは・・・。待てよ・・・。


 トーマスはベッドから立ち上がって、机にある論文のページをめくった。

 肉体があるから様々な意識が存在して、思いや欲求を持つ。つまり受信する・・・。

 ならば、それらを発するのは誰だ?僕がそれらの発信源でもいいはずだ!そうなれば、他の意識だけでなく、心や魂を操るのも可能なはず・・・。

 なんだ!祈りじゃないか!


 事実はそうなの・・・。でも、やり方が違う・・・。

 まずい!バトンは過去の記憶に捕らわれる・・・。

 モーリンは不安になった。


 だけど、他の心や魂を操るなんて許されない・・・。

 僕は他の意識に操られてきた。それらは、あってはならない現象だった。僕の本質じゃなかったから、僕は数々の失態を演じた・・・。

 失態を演じなかったのは自然が相手の時だ。他人の意識が身近にない時・・・。

 トーマスはページをめくった。

「聖人、大師、ミコト、これは・・・?」


 彼は気づいた・・・。

 モーリンは安堵の溜息をついた。

『そうです。気にしなくても良いのです。進むべき方向へ進みます』

 モーリンの耳元でニオブはそう言った。

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