二 楼蘭の乙女ローラ㈡

 二〇五六年五月十五日、月曜。

 宏治と大隅教授は、上海中央地区、北区域にあるアジア古生物研究所の管理室にいた。宏治は、映像ではない所長のアレクセイ・ラビシャン教授に会うのは初めだった。

 

「何も持ちだせないのはわかっているが、ローラに会いに来たよ。

 あの郷愁めいた感情の成せる技だね」

「よく来てくれた。何度も見る価値はあるさ。

 トーマスから結果を教えられて驚いてるんだ。

 ローラが三十代後半なんて信じられん。どう見ても十代だ・・・」

 二人に親しく挨拶して、ラビシャン所長は顔を強ばらせて後半の言葉を濁した。ラビシャンも大隅教授とともに中国新疆文化庁ローラン発掘チームの一員だった。ローラを発掘した当時、ローラが十代だと主張した古生物学者の一人である。


 数日前。

 ラビシャンは、トーマスから連絡を受けて困惑した。遺伝子の再分析も考えたが、上海には厳密に遺伝子末端分析できる機器も無ければ人材も居ない。

 ローラは重要なサンプルだ。たとえ僅かな部分であろうと、ラビシャンの一存で分析には使えない。若い頃なら処罰覚悟で、機器があって人材が居るストックホルムへサンプルを持って行く気力はあった。古生物研究所の所長になった今のラビシャンに、若い頃の気力も探究心もなかった。


「気にしなくていいい。君だけじゃない。私もあの時は、十代と主張したんだ」

 教授はラビシャンの思いを感じた。ラビシャンの緊張が解れた。

「そうだったな・・・。

 保存庫は窒素充填の無菌室だ。防疫気密服を着てじっくり観察してくれ。

 ローラの管理がアジア考古学会に移って以来、全ての持ち出しが禁止になった」

「わかってるよ。触るのは許されるだろう?」

 教授がそう答えている間に、三人は更衣室へ移動した。


「本来は許可されないが、大隅には特別に配慮するようアジア考古学会から指示されたよ。

 気密服は考古学会と別に、我々古生物学会員専用が用意してある。

 そこの棚に右手を触れてくれ」

 ラビシャンは、壁の一部が棚に変化している部位に手を触れた。

 棚の壁が上へスライドし、胸と背に大きくラビシャンの名が書かれた防疫気密防護スーツが現れた。宏治と教授も壁から、自分の名が書かれた防疫気密防護スーツを取り出した。


「考古学会に報告したのかね?」

 教授が防疫気密防護スーツを着た。気密スーツは身体にフィットしている。

 宏治は防疫気密防護スーツ着てヘルメットを取った。酸素ボンベは腰に付いている。

 教授もヘルメットを取った。

「もちろん、大隅がここにが来ると連絡した。

 しばらくすれば、考古学会長がここに来るよ」

 ラビシャンもヘルメットを取った。

「会長が来れば話が長くなる。早くローラに会おう。

 会長はローラより生きた人間が好きだからね」

 大隅教授は、笑いながらヘルメットを被っている。


「ヘルメットを被ると、自動的に酸素を供給する。確認してくれ」

 ラビシャンはヘルメットを装着して、腰のインジケーターを示した。すでに緑色に点灯している。

「オーケーだ。では地下の電磁バリアを切るよ。

 この部屋の隣に滅菌室がある。エアロック構造になってる」

 電磁バリアは球状の捩状磁界エネルギーフィールドだ。

「電磁バリアと防護隔壁のロックは、暗証番号と私の虹彩と顔でしか解除できないんだ」

 ラビシャンは、突き当りの壁のタッチパネルに数字を入力してセンサーに顔を向けて、

地下保存庫全体の防御シールドと、地下保存庫を包む隔壁のロックを解除した。


 壁がスライドして気密室が現れた。

「残留磁場が消えないと、頭痛や幻聴や幻覚が現れるから、そのつもりでいてくれたまえ。

 磁場が許容範囲まで減少すれば入口が開くんだ」

 気密室に入ると背後で壁が閉じて、天井から殺菌ガスが噴出して壁の下部へ流れた。

 しばらくすると、反対側の壁が迫り上がって、風が吹き込んだ。

 三人は気密室を出て隣室へ移動した。背後で壁が下りた。

 隣室正面の厚いコンクリート隔壁が上下に動き、その向こうの厚いコンクリート隔壁が左右に動きはじめた。隔壁の先に大きな空間が拡がり、コンクリートの隔壁に囲まれた下り階段が明るく照らされているのが見える。


 数秒後。階段の下から音が響いた。洞窟に反響する女の囁きに似ている。

 あの声は何だと宏治は思った。

 耳鳴りがする。この階段に足音が反響したのか?

 あの声は前にも聞いた事がある。ユリの声か?


 左右に動いているコンクリート隔壁の動きが止った。

「さあ、いいだろう。行こう」

 ラビシャンが現れた下り階段を示した。


 宏治は一歩、階段に足を下ろした。

 目眩がする・・・。

 教授が宏治の変化に気づいた。

「大丈夫か?私も頭が痛い・・・」

 教授もこめかみに痛みを感じている。

「残留磁場の影響だ。磁場が完全に消えるまで多少時間がかかる。今は許容範囲だ。

 この保護ドームは、隔壁の間に強力なレーダー網を完備した要塞のようなっている。隔壁の間は、まるで電子レンジだ」

 ラビシャンは階段を下りながらコンクリート隔壁を示した。

「なぜ、保存庫がこの構造になったか問い合せたが、解答は無しだ。

 ローラが外部刺激を受けないよう、考古学会が決めたんだろうね」


 地下保存庫は大きな球体の内部にある。球体は内側からコンクリート、シリコン化合物、電磁バリア、シリコン化合物、鉛、チタン合金、鋼鉄、ステンレス合金、コンクリート、シリコン化合物、電磁バリア、シリコン化合物、鉛、チタン合金、鋼鉄、ステンレス合金、コンクリートから成る、多重の球状隔壁で構成され、ローラ本体は電磁バリアでシールドされたカメラとセンサーで監視されて、常に状況が管理室のコンピューターに記録されている。


 考古学会内部に、ローラの重要性に気づいた者が居る、と宏治は思った。

 ローラのDNAを破損してはならないと考えたのか・・・。

 だが、電磁バリアは何だ?外部からの侵入防止より、内部から逃亡できないようにしている気がする・・・。いったい、何の逃亡を防止しているんだろう・・・。


「非常時に備えて、エレベーターは無いんだ」

 ラビシャンは、停電時にエレベーターが停まった場合を説明した。

「不便だが、このような大きな階段があるだけだ」

 話している間に、大きなドーム状の地下保存庫に着いた。



 白い床の中央から、床が滑らかに腕の太さほどの三本の柱になって上へ延びて、一メートルほどの高さで、横にした半円筒状の台座と一体化している。台座も三本の柱や床と同じ白色で同じ材質のようだ。台座上部は半円筒の透明ケースに覆われて、透明ケースと台座に境目は無い。


 透明ケース内に、ベージュの上着とチェック柄の長いスカートのようなウールの民族衣装をまとった、後頭部で金髪を三編みにした色白のローラが居る。

 ローラに、大小のウールのポショットが添えられている。中は穀物の種とパン、乳製品、そして、乾燥した肉である。今となってはそれらも炭化している。


「ケースを開ける」

 ラビシャンはローラの足元側へ移動して、台座の裏に手を当てた。

 教授と宏治は、ローラの胸の横に立った。

 ローラは、羊革のモカシンのような靴を履いている。


 透明ケースが僅かに持ち上がって、台座の下へ巻きこまれた。

 その瞬間、ローラの身体が青色に発光した。眩さで宏治は視界を失った。

 宏治は、ローラから発した光が軟体物に変化して、自分の顔面と身体に貼りついたように感じた。

 何て事だ!残留磁場で幻覚が見える。目眩もする。

 ローラに会えたのに、何も見えない・・・。

『見なくていい・・。これが私。私はあなた・・・。認めればいい・・・』

 ユリだ。ユリの幻聴まで聞える・・・。

 いや、母だ。幼い時に行方不明になった母だ・・・。

 ここまで来て、ローラに感じたあの感覚を確かめられない・・・。


 宏治の視界が、青色の眩さから白色に変化して消えた。

 なんて事だ・・・。

 宏治は、自分の意識が薄れてゆくのと同時に、自分が倒れるのを感じた。



 頭が熱い・・・。

 宏治は意識が戻るのを感じた。

「ゆっくり飲みたまえ。残留磁場で脳が加熱された。のぼせたんだ。血行不良を起してる・・・。考古学会長は来れなくなったそうだ」

 医務室の医療用ソファーに座る宏治の前のテーブルに、教授は熱い紅茶のカップを置いた。宏治の下肢は加温器で温められている。

「学会長から、重要な来客があって来れなくなったと連絡があった。

 観察結果はここでも見れる・・・」

 ラビシャンは医務室のコンソールのシートに座って端末を操作した。


 医務室のディスプレイと壁のディスプレイに3D映像が現れた。三人が保存庫へ下りてゆく映像だ。

「主要な所を見よう・・・」

 ラビシャンはコンソールを操作して映像を早送りした。

 保存庫内の監視カメラとセンサーの情報とともに、ヘメルットに装着されたカメラを通じて、三人が見た全てが、管理室のコンピューターに記録され画像化されている。


 ローラの透明ケースが開いた一瞬、映像が乱れて青くなり、その後、再生映像が正常速度になった。

「こうやって見ても、先ほど実物に感じたように、不思議な感覚を受けるね」

 教授が感慨深そうに映像を見ている。

「僕は?倒れたんじゃ・・・」

 宏治は宏治自身が見た映像が記録されているのを不思議に思った。

 宏治の疑問に教授が答える。

「いや、良くやってくれた。倒れてなんかいないよ。私とラビシャンも、のぼせたようにボーッとしてるんだ」


「残留磁場は許容範囲内に減っていたが、磁場に敏感な体質には強すぎたかも知れない。

 しばらくすれば頭痛が消える。記憶もはっきりするよ」

 ラビシャンはそう説明した。

「ラビシャン。ローラから電磁波のような物は出ていないか?」

 教授もローラのケースが開いた瞬間、何かが現れたのを感じていたが、それが事実だったか、そう感じただけなのか、判断しにくかった。


「何も出てないな。出ていればここに数値化されて表示される」

 ラビシャンはディスプレイの右隅を示した。あらゆるエネルギー波をキャッチして表示する部分である。表示は何も無い、とを示していた。


「映像の乱れと青い光は何だね?」

 大隅教授は、映像の乱れと青い光が関連していると思った。

「早送りが正常速度に戻るので映像が乱れた。例の製造基本法と環境保護法で予算が削られてコンピューターを増設できないんだ」

「そうか・・・」

 教授は、ラビシャンの説明を妙だと思った。

 学術進歩と発展に統合政府は理解がある。古生物研究所の独立型コンピューターの増設など、アジア連邦政府を通じて統合政府に申請すれば、かんたんに通るはずだ。


「大隅はローラの年令をどう考える?」

 ラビシャンはそう訊いて、映像を見ている。

「私は十代と思っていた。今もそう思っている。

 考古学会は、今後の解析をどうするのかね?」

 私に解析を任せれば、それなりに行う。そうなれば解析結果を公表さぜるを得なくなるがそれは困る・・・。大隅教授はそう思った。


「原形復帰させるらしい」

 ラビシャンは教授を見た。

「ほんとか?」

 教授もラビシャンを見ている。驚きを隠せない。

「細胞を破壊したら現状に戻らない。なぜ、そんな事をするんだ?」

 宏治も考古学会の方針が信じられなかった。

「DNAが三十代後半と聞いて、実体を見たくなったんだろうね。

 今までのデーターで何度もシミュレーションしたのに、全く稚拙な考えだよ」

 ラビシャンはそう言った。


「誰の意見だ?」と教授。

「オイラー・ホイヘンスだ」とラビシャン。

「何者かね?」

「古生物学者だ。考古学学会には顔を出すが、古生物学学会には、めったに顔を出さない異質な存在だ。

 若い頃から自分の幹細胞を大量に冷凍保存してる。臓器培養と遺伝子操作とクローンニング、臓器移植の肯定派だ。四十九歳だが、とても若く見える」

「どんな人物か知りたいね」

 大隅教授は映像に視線を移した。

「人前に顔を出さないらしい」

 ラビシャンも映像に視線を移した。

「何を研究してる?」と教授。

「それも謎だ。調べてみようか?」

 ラビシャンが答えた。

「頼むよ」

「承知した」


 教授は宏治を見た。

「宏治、体調はどうだ?」

「もう大丈夫だ」

 宏治は教授に頷いた。

「映像に変化は無いから、ここまでにするよ。

 いろいろありがとう。僕らはこれで帰る。ローラに何か変化があったら連絡してくれ。

 観察データーは回線を通じて使わせてもらうよ」

 教授はソファーから立ち上がって、ラビシャンに手を差し伸べた。宏治も立ち上がった。

「使ってくれ。ローラから受ける感情変化の疑問が解けたか?」

 ラビシャンもコンソールのシートから立ち上がって教授と握手した。

「いや、解けないよ」

「解けたら教えてくれ」

 ラビシャンは宏治と握手した。

「わかった。会長によろしく。では、これで失礼するよ」

 教授と宏治は医務室を出た。


 二人が出てゆくと、ラビシャンは保存庫の監視カメラの記録をスローで再生した。

 どんな再生速度でも、アジア古生物研究所のコンピュータで処理された映像は乱れない。

 映像が再生された。宏治に向ってローラから青色の光が放たれて、大隅教授は散乱光を浴びている。ラビシャンは背後からドームの反射光を浴びている。

 なんてことだ!

 ラビシャンは驚いたまま、光の分析をコンピューターに指示した。

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