二十一 小田亮
二〇二八年八月二十六日土曜、午後、晴れ。
小田亮の自宅応接間で小田亮に手土産を渡し、理恵と考えた会話機器について説明した。
ここはS市に隣接するB市郊外にある小田亮の自宅だ。事前に、今日の午後、亮と二人だけで会えるよう連絡していたため、亮の妻由美子と母親は留守である。
「実は、携帯より小さい機器に翻訳ソフトを搭載する計画を進めてる。方式の大筋は田村の考案と同じだ。特許は取ってある。その前段階の製品が商品化しつつある。こちらも特許は取ってある・・・」
CDのデータを、上部電気がリンク管理するアプリケーションソフトでパソコンのライブラリーに保存する。アプリケーションソフトが、登録された小型音響再生機だけに保存データをコピーする。使用可能な再生機は登録された物だけだ。再生機からデータはコピーできない。無理にコピーすれば再生機が破壊する。
「そんな事ができるのか?」
「ああ可能だ。ここが最大の特許なんだ。田村は会話のマスターメディアを作ってくれ。理恵さんの英語と和訳がこちらの翻訳ソフトの結果と合致するか確認したい」
「わかった・・・。
第一段階は速い言い回しを聞きとって話せるようにする事だ。
様々な場面を想定して英語を聞きとって話せるようにする。ワンシーンは十分程度、
『レッスン1 旅行、シーン1 空港にて』
という調子だ。レッスンのワンセクションは各シーンの合計にする。各シーンの追加と削減が自由だ。
第二段階は二人の会話だ・・・」
説明を終えて、省吾は納期と契約について話した。
「最初だから、第一段階の準備期間は二ヶ月くらいにしてほしい。十月末日までに、レッスン1のマスターメディアを完成させるよ。変更があれば連絡する。
マスターができしだい著作権登録するよ。英語だけでなく他の外国語会話教材も登録する。その上で専属の使用契約を結びたい」
「了解した。契約書を準備しておく。
システムは音響に関する物全てに使えるんだ。英語だけでなく全ての外国語会話教材について契約しようと考えてる。音楽や小説など各メディアの著作権交渉は終って商品化が進んでる。
あとは会話関係だ。俺に決定権があるんだ。
先日、田村と会った時、製品について話そうと思ったが、部外者が多すぎた。
名の売れた会話の専門家に依頼する手もあるが、使い古された言葉では他社と同じだ。新商品には新たな独自性が必要だ。それには新しい人材だよ。理恵さんは適任さ。よろしく頼むよ」
亮は壁の時計を見た。十五時をすぎている。
「今日、これからの予定は?」
「帰るだけだ。何かあるか?」
「あの時、田村が、今度は失敗は許されないといったのはなぜだ?」
亮は八重歯を見せてほほえみながらじっと省吾を見ている。
理恵が精神空間思考で伝えてきた。
『ベッドから落ちた事と、以前から他人の考えがわかるけど、ベッドから落ちてからさらにわかるようになったとだけ話してね・・・・』
『わかった・・・』
「以前から、人の考えてる事をなんとなく感じてた。
昨年十一月、大学の研究室のソファーベッドから落ちて頭を打った。それ以来、以前より人の考えてる事がわかるようになったんだ」
亮がうつむいて苦笑している。
「勘違いするな。考えが断片的にわかるだけだ」
「あの時、俺がこの時空間で失敗は許されないと思っていたのがわかったのか?」
『省ちゃん、高田に話したように平行時空間を説明してね・・・』
『わかった・・・』
「そうだ・・・。
入院中、高田浩介から平行宇宙論について訊かれた。俺は理論は知らないが、平行宇宙、平行時空間は存在すると思うと答えた」
苦笑していた亮のまなざしが鋭くなった。緊張している。
「それで、高田は納得したか?」
「高田は、彼の意識が平行時空間を移動した結果、他の時空間転移意識に影響を与えたと考えて悩んでた。
俺は、平行時空間を転移しても、同バージョンの時空間転移意識同士がシンクロ現象を生じると説明した。つまり、平行時空間Aのバージョンaが平行時空間Bへ、Bの時空間の、aと同バージョンのbがCへ、同様に、CのcがDへ、さらにDのdがEへ、意識の時空間転移が進むにつれて、それぞれの平行時空間の現象は0へ収束するはずだと。
それで高田は納得した」
「実は、お袋からも由美子からも、硬式テニスができるなんて聞いた事がない・・・。
お袋の記憶が現実と一致しない・・・」
亮のまなざしから緊張が消えた。亮は自身の意識が時空間転移した思っている。
省吾の記憶にある亮の両親は晩婚で、現在、母親は還暦をすぎている。父親は彼が大学三年の時に亡くなっている。ここまでは現実と一致しているが、記憶にある亮の母親はテニスをしない。亮の妻は由美子ではなく幼なじみの女だ。そして、亮の姓は小田でなく近藤で、姉は医学部事務官の近藤恵美子だ。
省吾は亮に、近藤という姓から何か思いださないか、と訊きたかったが、省吾自身の記憶なので理恵の忠告に従って訊かずにいた。
「意識の時空間転移について、高田も似たような事をいってた。それと、憶えのない医学的知識が現れるともいってた・・・」
亮は高田が省吾に話した事をかいつまんで説明し、
「俺も、新しい製品をすぐ思いつくんだ」
テーブルのコーヒーカップを取った。カップの中でゆらぐコーヒーを見て、自分のアイデアで作った製品を、他人のアイデアで作ったように考えている。
「アイデアが豊富なのは良い事だ・・・。
去年十一月。理恵に、携帯に翻訳機能が付く事や、携帯程度の大きさの翻訳機について話した。いずれ、会話教材と再生機器は必要なくなるだろうと・・・。
俺も亮と同じさ。アイデアが湧いてくる。
だけど今は、会話教材と再生機器は必要だと思ってる。理由は・・・」
複数の言語を理解できる脳の機能を使わないのはもったいない。脳は会話を通じ、微妙なニュアンスを伝達できる。
翻訳ソフトの場合、対応する言葉の定義で翻訳に限界があり、二つの言語間で生ずる誤解の解消には至らない。翻訳した場合、言葉の違いから二つの言語間で誤解も生まれる。
結論は、翻訳ソフトも必要であり、直接会話するための教材と機器も必要である。
「異なる記憶をどう判断する?」
亮が顔を上げて省吾を見た。省吾は理惠と暮す日々を思いながら亮にほほえんだ。
「現実に大きく影響するなら考えものだが、今のところ影響はない。それどころか、記憶を頼りに新しい事を始めてる」
「利用しろというのか?」
亮が怪訝な顔になった。
「そうはいわない。理由はどうあれ、湧いてくるアイデアを無駄にする事はない。時間に余裕があれば、記憶をじっくり検討すればいい。記憶と現実が一致しない原因がわかっても、今のままでは何かが変ると思えない・・・」
そういった省吾は亮の母と妻の由美子がいつ帰ってくるか気になった。
「お袋さんたちはいつ帰る?」
「二人は夜まで帰ってこない・・・。俺の記憶は・・・」
亮は記憶を話しはじめた。一人で抱えているのが辛いらしい。
亮は叔父に勧められて見合いして婚約した。婚約前から、亮は婚約者と顔見知りだった。
ところが、婚約者が亮の顔見知り全てと関係していた。叔父が勧めた見合いだったため、律儀な亮は婚約者が傷つくと思って、理由を説明しないまま叔父に婚約解消を頼んだ。
理由を話さない亮を、叔父は俺の顔を潰したと何度も殴った。
その後、亮は幼なじみと結婚し、叔父は人伝えに亮の最初の約者の素行を知ったが、自分の落ち度を亮に詫びず、亮と叔父の関係は険悪なままだった。
その影響で幼なじみの妻とも険悪な関係になり、亮は、大学時代から好意を抱いていた白木由美子と暮らしたいとを願った。
「だから、現状のようになるのを望んだ・・・」
亮はうつむいた。まだ何か隠している。
「で、幼馴染の奥さんはどうした?」
省吾は亮の頭を見たまま返答を待った。亮が顔を上げた。
「家がそんなだから離婚寸前だった」
「で、どうした?」
「開発部で特殊な製品を開発してた。人の思考や感情を読みとる装置だ。携帯に内蔵して思考と記憶を読みとり、新しい通信方法、電磁波による通信より早い確実な通信方法で送信する・・・。盗聴器だよ。政府が国民を監視するのが目的だ。理論は単純、実際は複雑だ。簡単にアイデアは浮かばない・・・。
そんな事より、倫理に反する開発に腹が立った・・・。
三十二の夏、土曜の深夜、実験装置のメンテナンス中に、装置に設置された階段から足を滑らせて、頭からコンクリートの床に落下した・・・。
白木由美子に起こされて目が覚めた。二階の俺の部屋で布団の上にいた。日曜で由美子が家に来ていた。白木由美子と婚約していた。二十三歳だった・・・。
前の妻は、名前も実家も記憶してない・・・」
「この時空間の記憶は連続してるのか?転移の記憶はあるのか?」
「ここでの記憶は連続してる。転移の記憶はないが別な記憶が現れる。記憶の母と姉は、今の母や姉とは違う。転移したとしか考えられない・・・。それに監視されてる気がしてならない」
「誰に?」
「由美子だ。彼女の仕事は開発管理だ。俺の秘書的立場だ。上武デパートで会った時に感じなかったか?
田村が、以前が以前だから今度は失敗は許されないな、といった時、由美子が俺の腕を取って俺を田村から遠ざけた。田村は理恵さんに腕を取られてた・・・」
亮は、省吾が理恵に監視されている。といいたいらしかった。
「そうだったな。俺も転移現象を調べてみるよ。今日これで帰るよ」
省吾を監視する者がいるとすれば、幸恵と母だ。理恵ではない。
「わかった。俺も調べて連絡するよ。
高田をどう思う?」
亮が目を輝かせている。省吾はソファーから立ちあがり、
「高田も床に落ちて目覚めてる。高田が時空間転移意識とすれば、俺たちも時空間転移意識だ」
といって廊下へでた。以前の応接間は玄関横の和室だった。ここは玄関から居間の横の廊下を進んだ奥まった部屋で、記憶にある亮の家では裏庭に位置する。
「家がちがうだろう?」
省吾の違和感を感じたらしく、玄関へ歩きながら亮は応接間を目で示した。
「ああ、そうだな」
亮の意識も転移したのはまちがいない・・・。
省吾は、研究室のソファーベッドから落ちた時に夢を見たと思ったが、あれは夢ではなく記憶だと確信して尋ねた。
「近くに車が通れる吊り橋はないか?」
「S渓谷鉄道のM駅からの旧国道に吊り橋がある。転移現象に関係するのか?」
「わからない。気になるんだ。帰る道中だから行ってみるよ」
玄関をでて、省吾は車に乗った。
「奧さんによろしくな」
「ああ、田村も気をつけてな」
「じゃあ、また連絡するよ」
省吾は車を発進させた。
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