十二 編入学許可認定

 二〇二七年、十二月十七日、金曜。

 省吾が立原と馬谷に話したように、週末、理恵の母と省吾の母が、省吾と理惠の家に日帰りで来るようになった。

 母たちがいても理恵の態度は変らない。マーマレードやイチゴジャムといって抱きつく。新婚だから親の前でも抱きしめてほしいという。母たちも理恵と省吾の行動を気にしない。


 借家は四人が寝起きするには狭い。車で二時間も走れば帰宅できるが、母たちは、省吾と理恵の家に泊りたいという。年に一度や二度は気にしないが、一週間おきに交代で泊まりに来たいらしい母たちの気持ちを思うと家の狭さだけでなく、煩わしくもある。

 さすがに母たちも、新婚の省吾たちにそこまでずうずうしくなれず、大家の木崎さんに頼んで、借家が空いたらすぐさま借りたいとお願いした。空きがなければ、省吾たちの家の隣の家庭菜園用の空き地に、経費自前で一部屋を建て増ししたいとである。


 タイミング良く、タミさんの店の南東の借家が、来年三月二十日付けで空く予定になった。母たちはそこを借りる契約をした。母たちの借家は、省吾と理惠の家の東の家から南へ二軒目だった。

 母たちは三月二十日が待ち遠しいらしく、省吾と理惠の家に来るたびに、別荘に何をそろえるか話しあい、タミさんの店で、買い物はどこがいいか話しこみ、焼きそばや大判焼きなどを買いこんでくる。タミさんもこの地の風習や行事を話して、母たちが引っ越してくるのを楽しみにしている。

 タミさんや大家の木崎さんたちは、この時空間の者たちだと思う・・・。他時空間から来たのではない・・・。省吾はそう思った。



 十一月二十一日からの『横山・会話教材機器販売』の営業は、予備校と外語専門学校から六十件の契約が取れて順調に進んでいる。

 バイリンガル社の給与は、営業ノルマ五契約のヒット・アンド・ペイ方式で経費は会社負担だから、『横山・会話教材機器販売』の契約数は破格になった。

「一人で営業してたら、外語学校や予備校に、会話機器と教材を使ってくれ、なんて説得できないよ」と理恵はいう。


 バイリンガル社は英語の他に外国語会話教材を販売している。

 理恵が電話で、外国語の必要性と、大学院修士課程の夫が非常勤の所長代理だ、と説明し、週末のアポイントを取る。

 指定日時に先方へ行き、省吾が説明して、理恵が身体も態度も大きい省吾の不足箇所を厳しく補足し、上司と部下の関係を強調する。

 その結果、顧客も理恵の指示を受けいれる。

 省吾の存在はダミーにすぎないが、営業効果は絶大だ。



 二〇二七年。十二月二十二日、水曜。

 八時半。

 雲一つない冬晴れだ。日本海側は雪だろう・・・。

 そんな事を考えながら、家をでた省吾は自転車で大学へむかう。見られているような気配を感じて自転車を停め、頭上を見あげた。

 偵察艦が低速で低空飛行している。省吾の周囲に誰もいない。車も走っていない。

 偵察艦は俺を監視してるのか・・・。


 九時すぎ。

 帝都大学大学院工学研究科化学工学系列、高分子物性棟四階の事務室前の廊下で、省吾は掲示板を見ていた。

 事務室からグレーのスーツの高畑事務官がでてきて、

「学生部から本田先生と田村さん当ての封書を研究室へ届けたわ」

 といって頬にかかる薄茶の長い巻き毛を払いのけた。

「わかりました。研究室へ行ってみます」

 省吾は高畑におじぎして去ろうとした。


「新婚生活はどう?」

 あわててそういう高畑の目が眼鏡の内で泳いでいる。聞いてはいけない事をあえて聞いているのを自覚している。

「楽しいよ。大学院の勉強と、編入学の受験勉強と、嫁さんと母親と家庭教師で」

「二人じゃないんだ・・・」

 期待外れの答えだったらしく、高畑は驚いている。自分に経験ないベタベタした新婚生活を想像していたらしい。

 省吾はさりげなくいう。

「母親たちが来るのは週末だけどね」

「大変でしょう?」

 高畑は省吾が新婚生活を邪魔されていると思ってるらしい。

「母親たちは嫁さんにまかせるから、どうってことないよ」


「二人で遊びにいらっしゃい。あなた一人でもいいのよ・・・」

 高畑が省吾に近づいた。手を省吾の首筋へ伸ばして、ブレザーの襟についてる髪の毛を払いのけ、指先で襟を直すように撫でている。

 高畑の指先から鈍痛のような重苦しさが省吾に伝わった。事務室の壁で内部の事務官は見えない。十時の講義まで時間があり、廊下に学生はいない。

 高畑の指の動きが止まり、襟から左胸へ手が移動した。重苦しさも胸へ移動する。


「ありがとう、時間が取れたら、二人で遊びに行きます」

 省吾は高畑の手を見つめた。

 過去の俺は、はにかみ屋の高畑にあいさつして、ちょっと世間話をする程度だったと思っていたが、ちがうらしい・・・。高畑に関する記憶がはっきりしない。どう接していいかわからない・・・。

「ごめんね。しつこく誘うと、嫌われちゃうね・・・」

 高畑が上目づかいに省吾を見ている。胸の手をゆっくり動かし、言葉とは逆の事をいわれるのを期待している。省吾は高畑の目を見つめた。

「そうですね」


「もう、ばかっ」

 高畑の頬が、グレーのスーツの下のブラウスと同じ、薄ピンクになった。胸に置かれた手が熱を帯びて、伝わる重苦しさが省吾の中でぼんやりした記憶へ変化する。

「今さら遅いけど、また、してほしいの・・・。思いきっていったのよ」

 高畑の頬がさらに赤くなった。省吾を見あげて、手が省吾の胸を撫でている。

「康子と呼んで、二人の時は」

 省吾の記憶に高畑の記憶が割りこみ、省吾と高畑が関係していた事が形になってくる。

 こんな時、過去の俺は高畑の腰に手をまわしたのかもしれない・・・。

 省吾は手を垂らしたまま小さな声でいう。

「わかってる・・・。だけど、もう、特別な関係にはなれないよ」

「いいの。あなたは年の離れた弟みたいな、私の息子みたいな感じ。そうしなくっちゃね」

 省吾を見あげる高畑のまなざしが、胸を撫でる高畑の手にむけられた。

「ありがとう。これからもよろしく。姉さん」

「うん・・・」

 もう、しかたないのよね・・・。

 高畑は省吾の胸を撫でる自分の手を見たまま、自分を納得させるようにうなずいた。


「研究室へ行きます」

 省吾は胸に置かれた高畑の手を握った。

 この女を何とかしなければいけない。俺が何かするのでなく、この女に合う人を見つけなければならない・・・。

「今度、また遊びに来て。待ってる」

 高畑は省吾の目を見つめている。

「気持ちだけ、頂いておきます」

 見送る高畑を廊下に残して、エレベーターホールへ歩いた。

 高畑さんはこの時空間の人間だろう・・・。



 十階の高分子物性系第一研究室の教授室に入ると、本田武雄教授と大谷利夫技官と小野久恵事務官が笑顔で省吾を迎えた。

「田村くん、座りたまえ」

 本田教授は机の椅子に座ったまま笑顔でソファーに座るよう促し、テーブルに封書と二枚の書類を置いた。

「君と僕宛の封書だったから開けたよ。

 同じものが二部あったよ。一部は君のだ。封筒にいれて持ち帰るといいよ」

 話しながら、教授は机の研究論文を整理している。

「これは・・・」

 省吾は書類を見て驚いた。



『編入学許可認定書(仮認定書)


条項一、認定事項

 推薦者、帝都大学大学院工学研究科教授会、並びに、指導教授、本田武雄の推薦に基づき、申請者、田村省吾の、帝都大学工学部、土木建設工学系列土木建築工学科への編入学を許可する。

 審査認定と編入学期日を、別条項に付記す。


 申請者

 田村省吾

帝都大学大学院、工学研究科修士課程、化学工学系列高分子物性工学系、第一年次、

帝都大学大学院、工学研究科、化学工学系列高分子物性工学系、第一研究室所属。


 推薦者

 帝都大学大学院、工学研究科教授会

 帝都大学工学部教授会

 指導教授、本田武雄、

帝都大学大学院、工学研究科、化学工学系列高分子物性工学系、第一研究室教授。



条項二、審査認定

 申請者、田村省吾より提出された、

「帝都大学工学部、土木建設工学系列土木建築工学科、編入学特別申請書」

 並びに、

 推薦者、帝都大学大学院、工学研究科教授会、

 並びに、

 指導教授、本田武雄より申請された、申請者、田村省吾の、帝都大学大学院工学研究科修士課程終了を条件とする、

「帝都大学工学部、土木建設工学系列土木建築工学科、編入学特別推薦、並びに、編入学特別許可申請」

 に基づき、


 帝都大学工学部入試対策委員会、帝都大学工学部教授会、帝都大学大学院工学研究科教授会が、

 申請者の帝都大学工学部、化学工学系列高分子物性工学科と、帝都大学大学院工学研究科修士課程、化学工学系列高分子物性工学系の、各々の入試成績、

 並びに、

 帝都大学工学部、化学工学系列高分子物性工学科と、帝都大学大学院工学研究科修士課程、化学工学系列高分子物性工学系の、各々の取得単位と成績を審査した結果、


 申請者が、帝都大学工学部、土木建設工学系列土木建築工学科、第二・五学年次にて履修するに足る能力を充分に有すると認め、

 特別認定として、申請者が帝都大学工学部、土木建設工学系列土木建築工学科、第三年次にて、第二・五年次と第三年次の規定履修科目の規定単位を取得する条件で、

 ここに、申請者の帝都大学工学部、土木建設工学系列土木建築工学科、第三学年次への編入学を認める。



条項三、編入学期日

 申請者が、帝都大学大学院、工学研究科修士課程、化学工学系列高分子物性工学系の課程に定められた履修科目における規定単位を取得し、同課程に定められた最短履修期間で、同課程を修了後の、二〇二九年四月十日を、編入学期日とする。



 追記

 編入学許可認定書(正規認定書)を、二〇二八年九月十日に発行する。

 編入学許可書を、二〇二九年四月十日に発行する。


 二〇二七年十二月二十二日


              

 田村省吾殿、

帝都大学大学院、工学研究科修士課程、化学工学系列高分子物性工学系、第一年次、

帝都大学大学院、工学研究科、化学工学系列高分子物性工学系、第一研究室所属。


 帝都大学大学院、工学研究科教授会殿

 帝都大学工学部教授会殿

 指導教授、本田武雄殿、

帝都大学大学院、工学研究科、化学工学系列高分子物性工学系、第一研究室教授。



 帝都大学工学部教授会、入試対策委員会

 帝都大学大学院工学研究科教授会、入試対策委員会

 帝都大学教授会、代表会長、帝都大学工学部学部長、門田宗太郎 』




「仮認定書とあるが、正式な編入学許可認定書だよ。

 推薦入学が認められて、編入学試験が免除になったよ。あっはッはっ!」

 本田教授は机で他の書類を見ながら豪快に笑った。

 教授は、先月、土木建築工学科への編入学について教務部へ電話した後、帝都大学大学院工学研究科教授会と工学部教授会を通じて、教授会推薦で、省吾が修士課程終了後に帝都大学工学部、土木建設工学系列土木建築工学科に編入学できるよう、帝都大学工学部入試対策委員会に申請していた。


「先生、ありがとうございました。本当にありがとうございました」

 省吾は教授にお礼を述べておじぎした。

「気にしなくていいよ。立場上、当然だからね。

 君もこれで安心して学業に専念できるよ。

 将来、国家試験に合格したら、僕の家の建築をお願いするよ。あっはッはっ!」

 教授は笑いながら机の書類を片づけソファーに移った。


「もちろんです!まっ先に先生の家を設計しますよ!」

「だが、経験を積んでからの方が安全かな?あっはっはっ」

 豪快に笑って、教授は真顔になった。

「ああ、お礼の贈り物とか、接待は断るよ。本心でいってるんだ!

 我々は公務員に準ずる立場だからね。この二人は完全な公務員だ。

 接待や贈り物はご法度だよ。あっはっはっはっ!」

 また豪快に笑い、教授は省吾に目配せし、

「家の件は、将来、顧客として必ずお願いするよ。

 君たちも頼んでおくといい。田村くんが、耐久性がある安全な住宅を格安で建設するよ。

 田村くん、もう三件の注文が取れたよ。あっはっはっはっはっ」

 技官と事務官を見て、豪快に笑っている。


 省吾はふたたび本田教授に礼を述べた。編入学許可認定書(仮認定書)が入った封書をショルダーバッグに入れ、

「授業にでますので、これで失礼します」

 といっておじぎし、教授室をでた。

 本田教授と大谷技官と小野事務官も、この時空間の人間だろう・・・。



 二〇二七年、十二月二十二日、水曜、正午すぎ。

「ただいま!」

 午前の講義が終って急いで家へ帰った。

 炬燵から理恵がいう。

「お帰りなさい。御飯、こっちに用意したよ」

「編入学の推薦入学が認められた!無試験合格が内定した!」

 いつものように上着を脱いで、ショルダーバッグとともに洗面所の入口の小テーブルに置いて洗面所に入った。

「ほんと?」

 理恵があわてて洗面所に来た。手洗いして嗽する省吾の背後から、セーターを引っぱっている。

「ほんとなの?」

「ああ、本当だ」

 顔を洗ってタオルで拭き、省吾は理惠を抱きしめた。

「本田先生が、大学院工学研究科教授会の推薦を取りつけてくれた。

 話してくれなかったが、先生は工学部教授会にも話をつけてた。根回した上で、土木建築工学科に編入学できるよう、工学部教授会と入試対策委員会に申請したんだ」

 省吾は本田教授に感謝の気持ちでいっぱいだ。

「ほんとに、ほんと?」

 理恵が顔を離して省吾の目を見つめている。

「ああ、本当だ!」

 これで、おちついて大学院の授業と実験と家庭教師と営業に専念できる。

 もしかしたら、将来、横山建設でも、設計と施工管理の他に、営業もするのだろうか・・・。先を考えすぎだ。思考で経験したら、体験できなくなる・・・。

 なぜだ?意識は精神に、精神はヒッグス空間構成粒子にシンクロしてるからだ・・・。

 これってどういうことだ?


「でも編入学試験は来年の秋だよ。いくら推薦入学でも、一年近く前なんて信じられないよ?」

 理恵の目が左右に省吾の目を追っている。

「うん、確かに話だけでは信じられないね」

 省吾と理惠は洗面所をでた。キッチンテーブルのショルダーバッグから封書をだして理恵にわたして、理恵が用意したテーブル横のバスケットにある部屋着に着換えて、ズボンをキッチンテーブルの椅子に置いた。

 理恵は封書から編入学許可認定書(仮認定書)を取りだした。

「うわっ、ほんとうだ!留年しちゃいけないんだ!

 必ず、あと一年で修士課程を終えないと、土木建築工学科に入れないんだ!」

 省吾の首に腕を絡めて顔を引きよせている。

「うれしいな!おめでとう!留年しないよう、がんばるんだぞ、省ちゃん!」

 理恵が省吾を力いっぱい抱きしめている。

「うん、わかってる。腹が空いた。御飯にしよう」

 省吾は理恵を見つめた。頬に力が入らない・・・。顔が心からの笑顔になってる・・・。

「ああ、ごめんね!うれしいな!」

 炬燵へ移動した。



「本田先生にお礼をしなければと思ったら、釘を刺された・・・」

 炬燵で鯵の干物を食べながら、省吾は本田教授の話した事を説明をした。

 理恵が野菜サラダを口へ運びながらいう。

「私にまかせて!親たちに編入学の推薦入学内定を連絡するから、先生の対応は親たちにしてもらう。私たちが知らないなら問題にならないよ。

 先生が将来の住宅建設を話したのは、無意識領域からの要求だよ。何事も早く対応するほうがいいよ」

 理恵がセロリを噛み砕く音が聞こえる。経験を積んだ者の言い方だ。理恵は本田教授がジョークで将来の住宅建設を安くしてくれと話したとは思っていなかった。


「わかった。理恵に頼むよ」

「うん、みんな、喜ぶよ!今日は家庭教師が無いから、大槻さんと新垣さんにも電話しとくね。大家さんにも」

 理恵は両手で包むようにご飯の茶碗を持って、省吾を見つめてほほえんでいる。

「『俺が連絡すべきだけど授業があるから、代りに理恵が連絡した。家庭教師の時に改めてあいさつする』と伝えといて。大家さんには、『夕方、俺があいさつに行く』とね」

 省吾は、大学からもどったら、手土産の一つも持って大家に編入学合格のあいさつに行くつもりでいる。そのほうが心情が伝わる。大槻さんと新垣さんへのあいさつは家庭教師の時にしよう・・・。


「うまく話しとくね。実はお願いがあるの・・・」

 理恵は箸を止めた。省吾を見る目がうっとりしている。

「マーマレード?」

「うん、それもあるよ・・・。実験しないで早く帰ってほしいの。あのケーキ屋さんで、大家さんと私たちの分のショートケーキを買って・・・。イチゴのクリスマスケーキがあれば、私たちのはそれがいいな!」

「わかった!」

 クリスマスも近い。理恵は、省吾が大家にケーキを持参するのを理解している。

「ケーキだけじゃないの・・・。今夜も、お酒、飲まないでね」

「理由は?」

 平日の夜は編入学試験勉強のため酒類を飲んでいない。試験勉強する傍らで理恵は英文小説を読んでいる。今夜は編入学内定の祝杯をあげようと思っていた。

「な、い、しょ」

 理恵は笑っている。



 十五時すぎ。

 高分子物性棟八階の教室で大学院の授業が終った。十階の研究室にもどって、教授室に顔をだして帰宅する旨を伝えた。教授と事務官に、愛妻とお祝いするんだね、と冷やかされた。照れ臭かったが、そうです、と答えて教授室をでた。


 エレベーターホールで下りボタンを押すと四階からエレベーターが上がってきた。ドアが開いて、書類を抱えた高畑事務官がでてきた。

「おめでとう、聞いたわ。お祝いしてあげたい」

 高畑は首を左右に振るようにして近づいた。省吾のブレザーの襟に指を触れ、襟から左胸へ撫で、上目づかいに省吾を見あげている。周囲に誰もいない。

「気持ちだけ頂きます。姉さん」

 エレベーターのドアが閉まりかけた。急いでエレベーターホールの壁の下りボタンを押さえた。閉まりかけたドアが開いたままになった。

「真面目ね、あなた」

「真面目です」

「・・・」

 高畑は返す言葉が無い。

 下りボタンから指を離してエレベーターに乗り、

「姉さん、さよなら」

 高畑におじぎした。ドアが閉まった。



 自転車で帝都大学工学部の正門を抜けて、本通りを南へ走り、ケーキとパンの店Cedartreeへ行った。編入学内定を知らせてあいさつし、

「クリスマスケーキにイチゴをたくさんのせられますか?」

 と聞いた。

「ええ、のせられるわよ。理恵さんへ?」

 奥さんの弘子さんは笑顔だ。

「わかります?」

「わかるわよ。ねえ、あなた」

 弘子さんは調理場の健二さんにほほえんでいる。

「新婚の時、弘子に作ってやったもんさ。いいよ、すぐ作る。何号にする?」

 健二さんも笑顔だ。

「では、七号で」

 ケーキの大きさは直径の寸寸法だ七号は直径七寸。二十一センチメートルだ。


「九号にしとけ。押し売りしてるんじゃないぞ。女ってえのは気持ちがほしいんだ」

 健二さんは弘子さんに目で示し、自分の胸をぽんと叩いた。

「食べ切れなかったら、冷凍保存さ」

 と省吾に目配せしている。

「じゃあ、九号」

「よっしゃっ!」

 健二さんは冷蔵庫からイチゴを取りだした。


 大家の家族に渡すショートケーキと、理恵のイチゴがたくさん乗ったクリスマスケーキが箱に詰められた。

「田村くん、改めて合格おめでとう。いつもたくさん買ってくれてありがとね」

 箱詰めしたケーキがかさばるので、健二さんは配達する、といった。

「店、忙しいでしょう。弘子さん、袋に入れてもらえませんか?」

「袋に入るけど、自転車でだいじょうぶ?」

「はい、ゆっくり行きます」

 弘子さんに頼んで、自転車で運べるよう、ケーキの箱を大きな紙袋に入れてもらった。


「理恵さんに、よろしく言ってね」

 杉木夫妻は店の外へでて見送ってくれた。

「ひまをみて、土曜の午後にも、二人で遊びに来ないか?

 なあに、イブがすぎれば、ひと段落さ。

 俺がこっちがだめだから、弘子の相手してやれないんだ。理恵さんに伝えとくれ」

 健二さんは酒を飲む仕草をした。健二さんは酒を飲めない。妻の弘子さんを気づかい、省吾たちに結婚のお祝いをしてあげる、といっている。二人は省吾より十歳ほど年上。まだ子供はいない。

「そうよ、田村君。二人でいらっしゃい。連絡なしでいいから、必ず来なさいね」

「はい、うかがいます。連絡します。紙袋、ありがとうございました」

 ショルダーバッグを背にまわして、片手に紙袋を下げてゆっくり自転車を走らせた。

 帝都大学工学部へむかって本通りを北へゆっくり走り、最初の交差点で、東西に伸びる市道を右へ折れ、帝都大工学部の東側へつづく旧国道へ出て、大学へ向って走り、途中から東へ折れて市道に入った。橋を渡ればまもなく自宅だ。



「ただいま。イチゴのクリスマスケーキを作ってもらったよ」

 自宅に着いて台所のテーブルに紙袋を置き、洗面所へ行く。

「お帰り」

 理恵が台所に来た。

「うわっ、おっきい!うっれしいなっ!」

 紙袋からケーキをだして箱を開け、子供のように喜んでいる。

 手洗いと嗽して台所にもどり、

「弘子さんが、理恵によろしくといってた。土曜の夜にも・・・・」

 杉木夫妻の伝言を伝え、

「大家さんにあいさつしてくる」

 といった。


「大家さんと大槻さんと新垣さんが、合格おめでとう、よろしく伝えてください、といってた。母たちも合格おめでとうって。

 近いうちに本田先生にあいさつに行くから、私たちは何も知らない事にしておけっていってたよ」

 なぜか理恵の目がキラキラしている。

「いろいろありがとう」

「早めに夕御飯にするから、すぐにもどってね!」

「今夜の禁酒は何?合格の祝杯と思ってたんだ」

 帰ったら必ず手洗いと嗽して着換えることにしている。手洗いと嗽をすませたがまだ着換えていない。理恵を抱きしめずに、マーマーレードの要求に応えると、

「あなたが帰ってきたら話す」

 理恵はほほえんでいる。

「行ってくる」

 省吾はショートケーキの箱を持って家をでた。



 大家に編入学内定のあいさつをしてもどり、ふたたび手洗いと嗽と洗面をすませて着換え、

「禁酒は何?」

 台所で夕食の準備する理恵を背後から抱きしめた。

 理恵は手を止めて身体の向きを変えた。抱きついて顔を上げている。

「酒は子どもに影響する。手洗いと嗽と着換えも子供のため・・・。

 あなたと私が風邪を引いたら、子どもに影響するでしょう」

「えっ?妊娠したのか?」

「まだだけど、健康にしてないと、子どもがかわいそう」

 理恵の目が何かを訴えている。

 現状をつづければ修士課程の留年はあり得ない。確実に土木建築工学科に編入学する。土木建築工学科の単位を取得して卒業研究を発表し、卒業後は、横山建設に入社して二年後に国家試験を受験する・・・。もしかしたら・・・。


「早く、子供に会おうか?」

 省吾は理恵の耳に唇を触れた。

「えっ?」

 理恵が顔を離して省吾を見あげた。

「いいの?」

「ああ、いいよ。可愛い娘が待ってる」

 省吾は理恵の頭越しに窓を見て思いを馳せた。

「あははっ、まだ、わかんないよ。娘かどうか」

 耳がくすぐったそうに理恵が身体をよじる。


「でも、どうして、私の思ってる事とがわかるの?」

「人の感情がわかると話しただろう。特に理恵の事は何でもわかる。

 身体の隅々まで知ってるから、隠し事はできないぞ」

 理恵が寝こんだ時に着換えさせた事をジョークのように話して、省吾は理恵の鼻先に指先を触れた。省吾の編入学内定を実家に連絡した時、理惠が母たちからいわれた事を、省吾は理恵の記憶から読みとっていた。

「もおっ、冗談ばっかりいって・・・。

 でも、うれしい!」

 理恵は笑っている。


 理恵が手を伸ばしてクッキングヒーターのスイッチを切った。

「あなたの編入学の推薦入学合格を知らせたら、あなたが土木建築工学科をでたとき、私は二十七。その時、すぐ妊娠するとは限らない。母たちが育児を手助けするから、早く子供を作りなさいって。でも仕事をどうしよう?」

 理恵は省吾の胸に頬を押しつけている。

「営業は心配するな。子供ができるまで酒はやめる。健康にも注意する。

 妊娠したら営業活動は電話だけして週末の顧客との交渉は俺がする。

 それでも大変なら、妊娠から出産まで産休を取ればいい・・・」

省吾は説明した。

 理恵が産休を取れないなら、バイリンガル社を退社して独立し、この『横山・会話教材機器販売』の所長になればいい。

『横山・会話教材機器販売』はバイリンガル本社と専属営業契約を交している。事務所収入はヒット・アンド・ペイ方式、経費は自前。営業ノルマはない。営業経費が心配なら、横山建設傘下にする手もある。


 省吾は考えていた。

 今も記憶が定かではない。おそらく過去の俺は、理恵の妊娠中の営業をどうするとか、出産後の育児をどうするとか気にしただろうが、現在の俺は気にしない・・。

 理恵には裕福な実家がある。そして、理恵は実家が経営する企業の後継者だ・・・。

 そんな事より、理恵の思い通りにしてやりたい。家事、仕事、悩み事、どれをとっても理恵一人に皺寄せがゆけば、ふたりの関係がギスギスする。それは避けねばならない・・・。これは、ずいぶんもののわかった考え方だ・・・。


「あなたがそういってくれると安心だわ!」

 理恵は省吾の背にまわした腕に力をこめて抱きついた。

「理恵が安心しないと俺も安心できない。親たちもいるんだ。心配ないよ」

 省吾は理恵を力任せに抱きしめた。なんと表現したらよいかわからないが、理恵を自分の中に同化したいと思った。

「ぁぁぁっ、だめっ~、つぶれちゃうよ、あぁぁっ、肋骨が折れるよ~」

 省吾の腕の中で理恵がマシュマロみたいだ。

「ごめん・・・」

 省吾は腕を解いて理恵の胸を撫でた。押しつぶされて胸は平だ。

「おっぱいが、マシュマロ潰したみたいに、ペッタンコだ」

「もおっ、あとで、おっきくするんだぞ!」

 理恵は笑いながら胸を寄せている。

「今、おっきくします」

 理恵の向きを変えて背後から、もう一度抱きしめて胸に触り、頬擦りした。

「あ~ん」

 理恵は向きを変えて省吾の胸に顔を押しつけた。

 子供のようにいう。

「くちゅぐったいよ~」

 省吾は娘を抱きしめているような気がした。

 もう、道は決まってるよ・・・。

 理恵の頭上に娘の顔が浮かんだ・・・。まだ生まれてないのに、顔がはっきりわかる・・・。耀子だ・・・。



 夕食後。

 航空路線を調べた。ここR市上空に航空路はない。自衛隊や米軍の訓練空域でもない。

「どうしたの?」

 理恵がノートパソコンをのぞきこんだ。

「最近、よく偵察艦を見るんだ。先月の夜、二人で大学をでたとき、星空を飛行するのを見ただろう。あの飛行体だ。

 先月二十五日は新垣さんの家から帰る途中で。

 二十七日は営業の帰りにバイパス上空に。

 今月は六日の昼、大学の真上に急降下して、携帯で撮ろうとしたら急上昇した。

 今日は大学へ行く時、ここの真上を飛んでた。

 一応、航空路を調べた。ここの上空に航空路はない。自衛隊の訓練空域もない」

 省吾はディスプレイの航空路線図を示した。


「どんな形?飛行機だったの?」

 理恵は省吾の目を見た。何か気にしている。

「ブルーグレーの巨大な円盤型だ。過去に、アステロイド型のも見たよ」

 理恵の気配が変った。

「気にしない方がいいよ。知らないふりするの。何も考えない方がいいみたい」

「どういうこと?」

「スパイ衛星のように、偵察艦が人間の意識や感情を探ってる・・・・。

 私も含め、ここの人たちは、なぜ監視されてるか理由を知らない。生まれた時から監視されてるから、何も気にしてないの」

「俺の記憶がないだけか?」

「うん。偵察艦は円盤型の宇宙艦だよ。低空飛行するけど、急降下するなんて聞いた事ないな。アステロイド型のも聞いた事ないよ」

 知らないのは俺だけだったのか・・・。



 二〇二七年、十二月二十六日、日曜、晴れ。

 理恵と二人でケーキとパンの店Cedartreeのクリスマスケーキ配達を手伝い、夜、クリスマスを兼ねて、杉木夫妻に、結婚のお祝いをしてもらった。杉木夫妻も、この時空間の住人と判断していいだろう・・・。

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