九 遠可視能力

 二〇二七年、十一月二十七日、土曜、十時、曇り。

 理惠と省吾はS市の予備校事務室で松島理事長に会って、英会話教材と会話機器の説明後、四十人分の教材と機器の販売契約を取りつけた。

「問題点があれば、ただちに対応します。連絡ください」

 理恵は契約書を渡した。

「わかりました・・・」

 理事長は理恵と省吾の名刺を見た。

「所長は英語が、代理は理数系が堪能ですね?」

「ええ、それなりに・・・。何でしょう?」

 理恵は理事長に、所長代理は非常勤で帝都大学大学院工学研究科修士課程に在籍中の夫と話してある。


「実は、優秀な講師を探していまして・・・」

 理事長が顔を上げた。

「ああ、契約したから無理強いするんじゃないんです。

 無礼を承知でお話します。

 代理が非常勤のお立場のようなので、将来の仕事を考えていればと思いまして」

 理事長は気まずそうに名刺に視線をもどした。

 就職できずにいる省吾が、営業成績の上がらない妻のサポートをしていると思っている。


「私たちは講師を引き受けできません」

 理恵は毅然としている。

「私は大学院修士課程の一年で、就職浪人じゃありません・・・」

 省吾は理事長を見た。おそらく俺の目つきは鋭くなっているだろう・・・。

「所長は有能な営業員で有能な英語教育者です。営業の他に英語教育もしています。

 そして、北関東では知られた横山建設の後継者です。

 収入に不自由していない・・・」


 松島理事長の顔色が変った。青ざめている。

「気を悪くなさらないでください。

 ほんとうにすみません。それは電話で聞いております・・・」

 理事長は説明が悪かったことを詫びて、

「何とか時間を作って、ここで英語と数学の受験指導をしてほしいのです。

 実は・・・」

 優秀な講師数名が私立高校の教員採用試験の二次募集に合格して退職し、その後、講師を募集しているが、前任者のような講師に事欠いている状況を説明した。


「帝都大の学生部に依頼したらどうです?」

 省吾は提案した。

「帝都大学生部へアルバイトの求人をしたのですが・・・」

 理事長は目を伏せた。希望にかなう学部生がいなかったらしい。

「今度は大学院生を指定したらどうですか?」

 受験指導に適した理学系や文学系の、大学院修士課程や博士課程の大学院生を紹介してもらうよう、学生部への依頼を教えた。

「ありがとうございます。月曜に連絡します。

 少し早いですが、昼食をいかがです?鰻は嫌いですか?それとも、この辺りの名物のカツ丼などどうです?ご存じないでしょう?」


「ありがとうございます。午後の予定があります。気持ちだけ頂いて、これで失礼します。

 教材と機器の発送は遅くなっても火曜ですから、木曜にはとどくはずです。とどかなければ連絡ください。

 本日はありがとうございました。これからもよろしくお願いします」

 理恵と省吾はていねいにおじぎして、ソファーを立った。今夕、省吾たちの結婚を祝って大槻さんが夕食会を開く。

「わかりました。本当にありがとうございます。

 私どもの方が、これからいろんな面でご厄介になると思います。

 今後とも、よろしくお願いします」

 理事長は立ちあがって深々とおじぎしている。



 予備校をでて帰路についた。

「理事長は何を考えてたんだろう」

 助手席の理恵は怪訝な顔だ。

「俺が就職浪人だと思ったんだろう」

「お昼ご飯のことだよ。ふつう、私たちが顧客を接待するのに・・・」

 理恵はドアの肘掛けに肘を乗せた。頬杖ついたまま前方を見て考えている。


 市内をでて国道のバイパスに入った。

 省吾は理恵に理事長への不信感を感じた。契約に関してではない。もっと複雑な、信念といえる精神の深淵への不信感だ。

 理恵が何を気にしているのか読みとれない・・・。

 とにかく理恵の思考対象を変えないと、理恵の意識が偏向する・・・。

 この考え方は何だ?とにかく話題を変えさせよう・・・。


 フロントガラス越しに円盤型飛行体が現れた。理恵が偵察艦と呼んだあの飛行体だ。曇り空と見まがうブルーグレーで低空飛行する大型旅客機ほどの大きさだ。前方上空をR市方向へ移動している。

「ずいぶん低空を飛行してるな」

「いつもより低空だけど、気にするほどの高度じゃないよ」


 理恵がそういったとたん、飛行体が瞬間移動して高度を増した。

「瞬間移動したぞ!」

「さっきから同じ高度だよ。もしかして、省ちゃん、望遠鏡で物を見るような能力があるのかもしれないよ。遠可視能力」

 思い当たることがあった。

「そういえば・・・」

 といいかけて、今は遠可視能力を話すべきでない気がした。飛行体を目で追うのをやめて視線を車の前方へもどした。話題を変えようと思った。


「うん、何?」

 理恵はそういいながら前方の道路を見る省吾の横顔を見つめている。

「理事長の件は、大学院生を講師に雇う件と、今後、受験指導を助言してほしいからだろう・・・」

 省吾は説明する。

 効率的な受験指導がなされない予備校の経営方針に、講師たちが見切りをつけた。

 予備校の知名度は難関大学に何人合格したかだ。施設があり講師がいても、名物講師による効率的受験指導と優秀な受験生がいなければ、難関大学の合格率はアップしない。理事長は予備校の知名度が何に起因するか気づいていない。


 省吾はまた話題を変えた。

「どこかで昼飯を食べるか?」

 事実、腹が空いている。

「家で食べたい」

 理恵は省吾を見て省吾の腿に手を触れた。抱きしめてほしいのだ。

「こっちによって」

 省吾は道路を見たまま理恵を引きよせて頬に唇を触れた。省吾も理恵を抱きしめて、理恵にもっと触れてほしかった。

「寄り道しないで、近道で帰るよ」

「うん・・・。

 あっ、旧国道は、S渓谷鉄道のM駅近くの吊り橋が危険だよ。

 以前、落下して新しい橋になったけど、最近、吊りワイヤー固定部に亀裂が見つかって修理したの。だから、バイパスを通って帰ってね」

 理恵は省吾の腿を撫でている。

「わかった」

 理惠はなぜ、旧国道の吊り橋を知ってるのだ・・・。あんな所まで営業に行ってたのか・・・。

 省吾は理恵の言葉に疑問を抱いた。


 帰宅後、夕刻。

 大槻さんが理恵とショゥゴの結婚を祝して夕食会を開いてくれた。ケーキと酒と実家の手土産を持参した。和やかに食事会だった。

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