五 婚姻届

 二〇二七年、十一月二十日、土曜。

 M市の理恵の実家へ行くため、JRに乗った。理恵を電車の左窓側に座らせ、省吾は通路側に座った。車内は暖かいが床が冷えている。

「足が冷える・・・」

 省吾はブレザーコートを脱いで、理恵の脹ら脛を巻きこむように膝にかけた。


「ありがとう、暖かい・・・」

 理恵も上着を脱いで膝におき、省吾を見ている。

「目の下に隈ができてる」

 理恵の指輪の手が頬に触れた。

「疲れたんだね」

 親指が目頭から下まぶたの縁を目尻へ、そして耳へ動いた。理恵の指の動きで、滞っている体液が疲れとともに首筋へ流れてゆく。やはり理恵はヒーリングを知っている・・・。


 朝から五時間で、九人に会ってあいさつした。省吾は会った人たちの見えない部分から、多大な影響を受けていた。過去の省吾はその事実を知らなかったが、現在はそれがはっきりわかる。その感覚は理恵に会って以来、さらに鋭くなっている。


 思いだした・・・。過去の俺は、俺に対する他人の思いこみを感じとって、無意識に相手が望む人物を演じ、同時に相手が抱える様々な思いも感じた。

 相手から離れて時がたつと、本来の自分、女好きで酒や食べ物に意地汚く、けちな小心者で、お世辞にも、優れた人物なんていえない自分にもどった。

 他人が思う全てなど演じきれなかった。思わぬ時に本来の自分が露呈して人前で大恥をかき、本来の俺を知った人たちに二度と会わないようにした。

 今度こそ無理せず、あるがままの俺でいよう。他人の感情や意識に流されてはならない・・・。

 妙だ。過去の俺は、現在の俺とはちがうようだ。会う人たち皆が、俺の知らない過去を知っているように思えるのはそのためだ。注意して観察しよう・・・。


「他人の近くへ行くと、その人の感情を受けて具合が悪くなるんだ・・・。

 しばらく眠っていいか?」

 右こめかみから右耳にかけて違和感が現れている。他人の感情だ。偏頭痛になりそうだ。


「うん、いいよ・・・。私がいて、具合、悪くならないの?」

 不安なまなざしで理恵が省吾の顔をのぞきこんでいる。

「理恵がいると元気になる。その分、理恵が疲れる気がする。だから、理恵が疲れないようにしたい」

 省吾は今の状態で理恵と話したくなかった。『言葉に言霊が宿る』と古人がいったように、言葉を媒介にして、省吾が受けた他人の感情を理恵に伝えたくなかった。


「わかった。眠ってね。着いたら起こす」

 理恵は省吾の頭を引いて肩に載せた。

「あなたが受けとった他人の悩みを、私もいっしょに解消する」

 理恵は省吾の手を握った。


 省吾の頭を載せた理恵の肩と、省吾の手を握った理恵の手が暖かくなった。理恵の匂いと暖かさに包まれて、こめかみの違和感は消えてゆく・・・。

 過去にもこうして傷を治療してもらった記憶がある。あれは三十代の理恵だ・・・。

 理恵と省吾はもたれ合って眠った。



 M駅からタクシーに乗って、大きな家の前で降りて玄関の引き戸を開けた。

「ただいまっ!」


 広い玄関に多くの靴が並んでいる。上り框で靴を脱ぐ間に、廊下の先から丸顔で小柄な小太りの中年女と、省吾の顔を女にしたような首の長い中肉中背の中年女が小走りにでてきた。理恵の母横山幸恵と、省吾の母田村沙織だろう。母たちの記憶がない。話を合せるしかない・・・。


「お帰り!良かったね、理恵!省吾さん、ありがとうね!理恵を頼むわね!皆、来てるのよ。さあ、上がってっ!」

 理恵の母は省吾たちを廊下へ導いている。

「はい、今後とも、よろしくお願いします」

 答える省吾の横で、省吾の母が涙ぐんでうなずいている。


「手を洗う。嗽もしたい。すませたら行くから。客間だね?」

 母たちにそういい、理恵は廊下の途中にある広い洗面所へ省吾を連れていった。


「何か企んでるよ」

 理恵は手を洗い、嗽してトイレに入った。

「どう思う?」

「お袋はいつもと変らないみたいだ」

 省吾は手を洗って嗽した。母に関して何も思い浮かばない。客間に人込みの気配がする。


「何する気だろう?」

 理恵がトイレからでた。入れ違いに省吾はトイレに入った。

「俺の親戚もいるらしい」

 トイレをすませて手を洗った。


「ねえ・・・、耳をもっと近くによせて」

 理恵が省吾を抱きしめて、勢いよくドアに押しつけた。内側へ開くドアだ。廊下側から開けられない。

 省吾は理恵を抱きしめて理恵の口元へ耳を近づけた。

「私たちの気が変らないうちに、結婚させる気だよ。いっしょになるのを親戚一同に披露して」

 理恵も客間の気配を感じている。


「親同士が決めてるんだから、かまわないさ。遅いか早いかの違いだけだ」

 理恵と暮らした記憶と、そうしたい思いに従ってみよう・・・。

 俺は運命論者だったのか・・・。

「それでいいの?あなたが、結婚は仕事が決まってから、と大家さんに話したから、気になったんだ・・・」

 理恵が省吾の胸に手を触れて撫でている。

「いやか?」

 理恵の両頬に手を触れて顔を上げた。

「いやじゃないけど・・・」

 目がキラキラしている。理恵が何をいいたいかわかる。

「いやでも覚悟してもらう。ここでいってもかまわないな?」

「いいよ!」


 洗面所の反対側は、壁の大きな鏡の前に、大きな化粧台とスツールが二脚、テーブルとソファーのセットがあり、化粧台とテーブルに花が活けられている。洗面所とは名ばかりの化粧専用の広い個室だ。


「何度もいうと気力が言霊になって消えるから一度だけいう。理恵が他言しても言霊になって消える。他言するな」

 省吾は理恵の目を見つめた。

「わかりました!」

 理恵も省吾を見つめている。


「理恵に一目惚れした。いつまでも理恵を愛する。いっしょになろう。結婚しよう」

 省吾は理恵を抱きしめた。

「よし、いっしょになってやる!いってほしかったんだぞ!」

 理恵が省吾の唇に唇を触れた。

「わかってた。これからも理恵を大切にする。子どもができたら、子どももいっしょに大切にする」

「ばか、子どもができることは・・・、まだしてないぞ・・・。

 覚悟はできた。何でも来いっ!」

 理恵は省吾に下腹部を擦りつけて省吾の唇の口紅を拭き、省吾を連れて洗面所をでた。


 決断すると女は強い。特にこの女は、いくつの時も同じだ・・・。

 なぜ、理恵の三十代を記憶してるのかわからない・・・。

 とにかく、探していたのは理恵だ・・・。



 廊下を奥へ進む。手前の客間を通りすぎて隣の座敷へ通された。二人そろって、翁と姥が描かれた掛け軸と神鏡がある床の間にむかって上座に座らされた。背後に客間からでてきた家族と親戚が座った。

 掛け軸と神鏡の前に神主と巫女装束の者たちが現れた。祝詞が奏上され、三三九度の杯が交わされた。それがすむと、座卓が運ばれ、婚姻届に署名させられた。


「一方的に進めたけど、これでいいの。仕事してたら、自分たちで式の準備をする余裕なんてないからね。神主さんが出張できるっていうから式をお願いしたの」

 そういう省吾の母の横で、婚姻届を手にした理恵の母はにこやかだ。


「これから内輪の披露宴よ。対外的な披露宴は、省吾さんの仕事が決まってからすればいいわ。その時は私たちが準備するから、あなたたちは二人の生活の準備をしなさい。結婚指輪も費用を持つから、あなたたちで準備なさいね」

 理恵の母は、上座にいる理恵と省吾の向きを、室内を見渡すように変え、襖を外して奥座敷と客間をひと続きにし、家族と親戚たちで宴を準備した。


 青畳の藺草の匂い。奥座敷も客間も畳が新しい。この二部屋で三十畳以上ある。昨日や今日で準備できる広さではない。両親たちは、ここで理恵と俺の式を挙げて宴を開くのを予定していた・・・。

 変だ。俺と理恵が婚約を決めたのは今朝だ。親たちが、こうなるのを予期していたのはなぜだ?  


「ここまですると思った?」

 省吾は理恵に訊いた。

「思わないよ・・・。兄も知らなかったと思う・・・」

 理恵は箸を止めて下座に座る兄の讓を見ている。理恵の表情と気配から、知らなかったのは事実だ。


 省吾は、左右の下座に座る理恵の両親と省吾の両親に気持ちを合せた。どちらからも、暖かい感情が伝わるだけで違和感はない。わずかに作為的な思いがゆらめいている。理恵の兄は、理恵と省吾の婚姻で一安心している。

「お父さんの仕事は市会議員だよな?誰が会社を経営してる?」

 はっきりしない記憶を頼りに訊いた。理恵の父横山讓一郎は建設会社を経営している。

 理惠の兄は帝都大大学院工学研究科修士課程に在学中だ。誰が建設会社を切り盛りしているか、省吾は気になった。


「以前はね・・・。今は県会議員。本業の建設屋は叔父さんが中心・・・」

「あの人か?」

 理恵の父の横に、似た顔の男がいる。省吾はその男へ気持ちをむけた。

「そうだよ」

 叔父たちを見ずに、理恵は吸い物の椀を口へ運んだ。

「隣が奥さん。二人は子供がいないの。私たちを子どものように思ってる」

 過保護な扱いを受けて、少し迷惑そうな気配が理恵から伝わってきた。

「経営に関係してる親戚は叔父さんたちだけ・・・。

 噂するから、叔母さん、小百合母さんが来た」

 理恵は椀を置いて叔母に愛想笑いしている。


 叔母は顔立ちも体型も理恵に似ている。

「理恵の叔母の小百合です。主人が理恵の父親の弟なの。あなたのお母様の再従弟よ。これで理恵も安心ね。省吾さん、理恵をお願いね。うふふ、あとでね」

 私は理恵の実母の妹。現在の母幸恵は後妻よ。理恵と遺伝的繋がりはないの・・・。

 小百合は省吾に思いを伝えて、理恵に目配せしながら省吾のグラスにビールを注いで席へもどった。

 入れ代りに父親横山譲一郎と叔父譲二が笑顔で来て、叔母と同じことを話して、思いを伝えて帰った。


 三人の思いにどう反応していいか省吾は判断に困った。

「あとで何かあるのか?」

 理恵が鯛の塩焼きの身をほぐせずにいる。省吾は鯛の皿をとって身をほぐした。

「ありがとう。初夜のレクチャーだよ」

 理惠は何事もないように鯛の身を口へ運んでいる。


 省吾は手のグラスを落としそうになった。

「ほんとうか?」

「えっ?あははっ、冗談、冗談・・・」

 理恵は、

「おそらく、あなたが話した会社の後継者のことだと思う」

 とささやき、膳の料理を食べてビールを飲み、省吾の膝や腿に手をのせて、あいさつに来る祖父母や親戚に愛想をふりまいた。


 親戚の前で、

「大きくなったら、お尻、見せてねって、いわれたんですよ、三歳の時に。だから、お嫁さんにしてくれたらねっていったら、するって・・・。それから・・・」

 理恵は、省吾と何年も交際してきたように話している。


 理恵の話を聞きながら、省吾は、三歳の省吾を思いかえした。

 なぜそうなったか記憶にないが、理恵が話したように約束した記憶がある。あの時、理恵は、俺のも見せてくれといった・・・。

 いつか見せてやるから、見たら嫁さんになるんだぞといったら、理恵は、うん、といって約束した憶えがある・・・。

 だけどその後、顔を合せる機会はなかったように思う・・・。


「あっ」

 省吾は思いだした。

「えっ?どうしたの?」

 理恵が驚いて省吾を見た。

「大学職員の高畑さんに、あいさつの電話するのを忘れてた」

「だいじょうぶ、記録してある。明日すればいい」

 理恵はバッグのスケジュール帳を示し、

「あなた、ほんとは、お尻のこと、思いだしたんでしょう?」

 目を細めて笑っている。

「ああ~、憶えてたんだ~。うれしいなあ~」

「ああ、憶えてる」

 思いだしたのはそれだけではない。


 帝都大学に入った年の夏休み、自転車で日本縦断の旅行へでた。太平洋側から北上して北海道を一周し、日本海ぞいに南下する途中、夜遅く自宅に寄った。

 荷物が多かったので広い客間で眠り、翌朝早く、ほとんど裸同然で目ざめた。疲れていた省吾は気にならなかったが、蒸し暑い夜だった。寝ている間にパジャマも脱いで、下着の横からはみでた部分を、自転車のハンドルのグリップのつもりで、しっかり握りしめて眠っていた。


 朝早く目ざめた省吾に、母は、

「昨晩はおそかったから話さなかったけど、昨日から遠縁の親子が泊りに来てるの。朝早く、散歩へでたわ」

 といった。そして、

「暑いから仕方ないけど、せめて、下着くらいはきちんと着て寝なさい」と。


 親戚が使っていた座敷は、客間を見渡せる廊下を通るか、客間を通らなければ、玄関へ行けない。母があられもない省吾の寝姿に気づいたのは、親戚が散歩へでかけた後だった。

 親戚に顔を合せるのはあまりに恥ずかしかった。省吾はあわてて身支度し、朝飯をかきこんで家をでた。M県から日本海へ抜けるルートへ自転車を走らせた。

 この記憶の実家はM市だ。N市ではない。なぜだ?あの時、母が話した親戚は理恵だ。

 たしかに理恵の説明どおり、俺が理恵と直接顔を合せたのは幼い時だけだ・・・。だが、理恵はあの夏休みの早朝、眠っていた俺を見ている。そして、俺のを見た理恵は、幼い時の約束どおり、俺と結婚を決めた・・・。横山理恵の記憶か・・・。

 隣で親戚たちと話す理恵の気配を探ると、理恵の記憶は思ったとおりだった。理惠と話す省吾はその事に触れなかった。



 宴が終った。酔った父たちと親戚を客間に残して、新たに用意された理恵の部屋へ行った。途中で、母たちは理恵に話があるといって、理恵とともに居間に入った。


 省吾は理恵の部屋へ入り、持ってきた飲み物をテーブルに置いた。

 床暖房が効いた広い部屋は家の離れにあり、母屋と別に玄関がある。別室に広い台所があって間取りは省吾の借家に似ていた。

 部屋の二つの可動式べッドは寄りそってダブル化し、ベッド横の棚に、何枚かのバスタオルとフェイスタオルが置いてあり、ティッシュと避妊具の箱が乗っている。

 クローゼットと引出しに、理恵の衣類と省吾の衣類が収まり、作り付けの本棚と家具に、理恵の本や小物と、実家にあった省吾の物がすべてある。これでは婿養子同然だ。


 今日、ここに来た省吾の家族は両親と祖父母だけだった。両親は、省吾と四歳ちがいの兄に、実家の田村運輸の後継者に成れとは一言も話していない。それどころか、この地方都市の外れにある実家にいてはならないとの暗黙の要求に従うように、兄姉妹は実家を離れている。現在、実家にいるのは両親と祖父母だけだ。


 やはり妙だ・・・。俺と理恵がつきあいはじめたのは最近のはずだ。それ以前から客間と座敷の畳換えや部屋を改築しなれば、今日のようにはならない。やはり、全てが早くから準備されていたと考えるのが妥当だ・・・。何のためだ?両親の望みか・・・。これまでの理恵の説明からは考えられない結果だ・・・。


 省吾は家族に関する断片的記憶からそんなことを考えながら、浴室へ行ってバスタブの湯のコックを開いて部屋にもどり、床のクッションに座ってTVのスイッチを入れた。時間は二十一時をすぎている。



「疲れたでしょう?コーヒー飲む?」

 理恵が部屋に現れた。

「ビールね!ああ、持ってきてたんだ」

 持ってきた飲み物をテーブルに置いて、缶ビールを開けた。

「物置を改築して、私たちの部屋にしたんだって。私たちがいつでも来れるように。

 以前からの私の部屋は、書斎に使いなさいって。そのドアの向こうだから」

 入口横のドアを示している。

「あなたの実家も改築したみたい。いつでも行けるように・・・。

 それと、私が使ってる都内のマンションは父の名義だから、いつでも使えるように、そのままにしておきなさいって。近いうちに母たちが行って、必要な私の物をあなたの家に送るから、私たちは大学や営業事務所や生活の準備をなさいだって」

 理恵はクローゼットの部屋着を省吾に手渡し、

「結婚指輪は新垣さんに頼みなさいって。この指輪と鑑定書を見て三人が言ってた」

 ベッド横のタオル類を見て、

「酒を飲んだ時は子供を作るな、子供に酒の影響がでるからって。知ってた?」

 室内着に着換えながら、理恵は初夜についていいだせずにいる。


「知ってたよ」

 省吾も室内着に着換えた。

「湯が溜るから、風呂に入るといい・・・。どうした?」

 着換えた理恵はうつむいたまま、省吾のブレザーと理恵のスーツにハンガーを通して、ハンガー掛けにかけている。


 理恵の兄と父親と叔母と叔父たちの思いから推察し、理恵が母たちから何をいわれたかわかった。

「気にするな。なるようになるさ」

 省吾は背後から理恵を抱きしめた。省吾が探していたのは理恵だ。省吾は運命に逆らわずに理恵を選んだ。まちがいないはずだが、環境が事前に整えられているのが気になる。


「ほんとうに、そうなるかなあ」

 理恵が後頭部を省吾の胸に押しつける。

「気休めじゃない・・・。土木建築工学科か建築工学科、建設工学科に編入学すればいい。経営も学べばいい。修士課程終了まで一年以上ある。何とかなるさ」

 省吾が籍を置く帝都大学は総合大学だ。工学部には建設工学系列がある。理恵の兄が、修士課程終了後、建設工学系列へ編入学するとは考えられない。そして、省吾の姉の夫の提案と、理恵の母たちの要望が似ているのは偶然ではないはずだ。


「えっ?ああ、そうなんだね・・・」

 理恵は驚いて身体の向きを変えようとしたが、省吾が、理恵の感情だけでなく思いも読みとったのに気づいた。

「でも、あなたはどうなるの?」

「能力と欲があれば、工業試験場の技師でもドクターや教授や学術会議の理事になるチャンスはある。そうでなければ単なる創造性に欠けた技師になるだけだ。自分探しし直すか、技師のまま定年を迎えるかだ」


 他人の想定する俺を演ずることと、俺をとり巻く環境が俺に要望することは根本的にちがう。

 俺に対する個人の思いこみは、俺の承諾を得ぬまま、その個人が想定する未来環境に俺をひきこむことだ。

 一方、家族や一族が要望する俺を含めた環境には、俺を育てた環境に付随する何らかの共通意識が存在し、彼らは俺を環境の構成員と認めたうえでその環境を維持したいと願う。

 姉の夫義兄も一族としての考えで、母たちと同じような提案をしたと思うが、環境が違った。義兄の提案は、義兄一人が想定した、義兄の従妹と俺であり、家族や一族が要望する、俺と理恵を含めたような環境の俺ではなかった。

 そして、夢と能力はちがう・・・。俺は企業組織の中で誰よりもうまく働いた・・・。だが、組織のために他人の下で他人の意思に従って働くのは嫌だった。俺は創造的なことを模索し、想像し、創造した・・・。それは何だったろう・・・。

 記憶が複雑に混在している。現状につづく二つの過去と、現状からつづく一つの未来だ。



「理恵と家族が望むなら、横山建設が俺の進むべき道かもしれない。だから、気にするな」

「うん・・・、わかってたんだ」

 理恵が後頭部を省吾の胸に押しつけて身体の向きを変えた。抱きついている。

「風呂、いっしょに入るか?あれを持って」

 ベッドの横にある避妊具の箱を示した。

「ばか・・・。でも、うんだよ・・・」

 理恵は省吾の胸に頬をつけて、胸を指でなぞった。



 風呂からでた。理恵の身体をバスタオルで拭いて下着とパジャマを着せ、ベッドに座らせ、濡れた髪をドライヤーで乾かした。

 布団に入ると、

「ありがとう・・・」

 理恵は笑顔で抱きついて眠りはじめた。あのタミさんが気にしたように、かなり気疲れしている。


 うまく行きすぎてる・・・。

 省吾は布団の中で理恵を抱きしめた。省吾のなかで三十代の理恵がいう。

 不満なの・・・?

 不満じゃない。うまく行きすぎてる気がする・・・。

 最善の行いをしたからだよ。

 人事をつくして天命を待つか?

 そうだよ・・・。

 三十代の理恵がほほえんでいる。


「どうしたの?寝ないの?」

 理恵が目を覚ました。省吾を見てほほえんでいる。

「理恵を見てた・・・。寝るよ。お休み・・・」

 省吾は理恵の背を撫でた。

「うん・・・マーマレードして・・・」

 理恵はまた眠った。

 俺は記憶を無くす前から理恵を探してた。何のために?俺は何だった?

 省吾は気づきはじめていた。

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