四 あいさつ

 二〇二七年、十一月二十日、土曜。


 県道に面した西向きの門を入った左に南向きの平屋の省吾の借家がある。門の右、県道に面して西向きに、文字焼きの店がある。大家の母親タミさんが経営する店だ。

 タミさんは面倒見のよい優しい人だ。省吾がこの一戸建てで暮らすようになって以来、窓を開けて専門書を読んでいると、何かにつけて窓から顔をのぞかせ、何気なく話しながら焼きそばやコーラを差しいれる。押しつけがましいことはいわず、つかず離れず省吾を見ている。タミさんなりの気づかいだ。


 文字焼きの店で、省吾はタミさんに理恵と婚約したことを話してあいさつした。

「あらまあ~、かわいい彼女だねえ~」

 タミさんは自己紹介する理恵に、笑顔であいさつした。

「田村さんのとこには女の友だちが多いけど、彼女らしいのがいないねとお母さんと話してたんだ。こんなかわいい人がいればね~。お土産、ありがとうね~」

 小柄なタミさんは、理恵が持参した「雷おこし」と「ひよ子」を胸に抱えて、丸い大きな目を細め、小さな丸い顔を笑顔に変えている。


「これはお婆さんの。大家さんには、ほら、大きいのがあるの」

 理恵は手提げ袋の中の大きな包みを見せている。事前に、この下宿の状況を省吾の母から聞いていたらしい。母の記憶がはっきりしないので省吾はその事に触れなかった。

「そうかい、ありがとね。焼きそば持ってくかい。今、焼いたばかりなんだ。お昼に食べるといいよ。こんな物しかないけど、婚約のお祝いにしとくれ」

 タミさんは二つのパックを山盛りにした。


「これから、ここに同居するんだから、はい、お金。今から気を使ってたら、売り上げがなくなっちゃうよ」

 省吾は焼きそばの代金を渡した。

「そうかい・・・。それなら、一人分だけいただこうかね・・・。

 ね、田村さんは優しいだろう」

 タミさんは理恵に笑顔を見せて、代金を一人分だけ受けとった。


「はい、私、この人のそういうとこが好きなんです」

 笑顔で答え、

「約束を必ず守る、律儀な人なんですよ」

 理恵は省吾の腕を抱きしめている。

「大家さんにもあいさつしてくるから、お婆さん、またね」

 本当に俺は、二人がいうような、優しい律儀な人なのだろうか・・・。

「はいよ、理恵さん、またおいで。今日はいろんなとこにあいさつに行くんだろう。無理するんじゃないよ」

 笑顔で見送るタミさんは、理恵が初対面の人にあいさつして気疲れするのを気にしていた。

「はい、また来ます」



 大家の木崎さんに婚約のあいさつをした。

「綺麗な人だね~。そうかい。就職が決まってから結婚かい。下の口は食わせられても、上の口を食わせられなけれりゃ、女は苦労するよね~」

 手土産を受けとりながら、大家の妻見栄子さんは、大家の木崎稔さんに皮肉をいった。

 理恵はこの北関東特有の女房の口調に驚いたが、下ネタは気づかなかったらしい。


「わかりましたよ。妻帯者用の住宅だから、同居はいっこうにさしつかえありません。車二台分の駐車場もあるし、花壇も作れる庭もあります。各家に電話回線も来てるから、月曜の午前に電話機を取りつけるよう手配しましょう・・・」


 そこまで紋切型に話した木崎さんの口調が、この土地の口調に変った。

「そうかい、婚約したかい。うちの娘も田村くんと同じ歳なんで田村くんにどうかな、なんてお母さんと話してたんだよ。女友だちが多いけど、どうも本命がいなそうだとさ。

 だけど、こんなかわいい人がいれば、うなずけるってもんさね。

 わかりましたよ。同居してください。ここに名前を書いてください。一応、居住者の確認ってことで」

 木崎さんは貸家の居住者名簿を見せた。


 理恵は省吾の名がある用紙に、婚約者、横山理恵、と書き、実家の住所と勤務先の住所、携帯と実家と勤務先の電話番号を書いた。

「お願いがあります。お借りしてる家を、私がしている営業の事務所にしたいんです。将来、独立して営業をする手前、会社に連絡先を登録したいんです。

 ご迷惑はおかけしません。営業はすべて先方に出向いて交渉します。社員は私と名目上の臨時社員の省吾さんの二人だけです。増えることはありません。同僚もお客も来ません。営業品が届くこともありません・・・。

 ああ、専用のパソコンが送られてきます。私が受けとります・・・。

 そのほかは、書類が郵送されてくることと、定期的に営業に関する連絡だけです。書類と契約書は宅配便、商品発送はすべて本社直送なんです」

 理恵は名簿を書きながら、これまでの営業を説明する。


「そうかい。外国語会話のバイリンガル社でも営業は地味なんだね。私らも知ってるわさ。最大手なんだってね。他の外国語会話もしてるっていうじゃないか。給料も破格なんだってね。就職志望の人気企業で、入社倍率が高いんだってね・・・。

 余計なこと話しちゃってごめんよ。これまでだって、田村さんが留守の時は、送られてきた荷物を預かってたんだ。今度は理恵さんがいるからかまわないよ。ね、お父さん」

 奥方はいとも簡単に納得している。木崎さんも理恵の会社名だけで納得したらしく

「うん、うん」

 うなずくだけだ。


「それではよろしくお願いします」

 省吾は、省吾の腕を抱きしめるようにつかんでいる理恵とともにおじぎした。


「ところで、田村さん、就職は?希望する会社があるのかい?」

 奥方が心配そうにいった。

「工業試験場を受験しようと思ってます」

「また試験だね。熱中しすぎないように、身体に気をつけるんだよ。

 だけど、今度は理恵さんがいるから安心だね」

 奥方は安心している。

「何かあったんですか?」

 理恵が不安な顔で奥方に尋ねた。

「大学院の入試勉強のしすぎで、試験が終ったら寝こんじゃってさ。私らは知らなくて、電気の点検に来た電力会社の人が気づいて教えてくれたんだよ。誰も気づかなかったら、あの世行きだわさっ」

 奥方は細い目をさらに細めてケラケラ笑っている。

 奥方の話に、理恵は不安を隠せない。


「田村くん、大槻の所にもあいさつに行くの?」

 木崎さんが目を細めて優しい口調になっている。

「はい、行こうと思ってます」

「大槻は、田村くんを娘の婿にしたいようなことをいってたから、気をつけて話すんだよ。

 奴は何もいわないくせに、自分の思ってることが通らなくなると、臍を曲げるからなあ」

 木崎さんは腕組みした手で顎を撫で、大槻守は母親と女房と娘二人の女ばかりの家族だからお山の大将なんだ、とつぶやいている。


「大槻さんて、どなた?」

 理恵はまた不安になった。

「木崎さんに紹介してもらった家庭教師先。木崎さんと大槻さんは大学の同期なんだ」

 理恵がほっと安堵していう。

「それなら、真っ先にあいさつに行かなくっちゃね」

「あら、さすがよね!大変なとこからすませた方が気楽よね~」

 奥方が感心している。

「はい」と理恵。

「それでは連絡して行ってみます」

「お婆さんのとこから電話するといいよ。

 何かあれば、電話をお婆さんに代ってもらうんだ。

 大槻はうちのお婆さんに、頭が上がらないんだよ」

 木崎さんは目を細めて笑っている。

「わかりました。お婆さんの店から電話します」

 省吾と理恵はあいさつして、タミさんの店にもどり、何かの時、すぐお婆さんが代れるように、お婆さんが使い慣れた、店の公衆電話から大槻さんに連絡した。



 大槻守さんに連絡して婚約のあいさつにうかがいたい旨を伝え、理恵から聞いた実家の経緯を説明した。

「理恵さんに電話を代ってくれ」

 大槻さんは理恵が電話にでると、省吾を持ちあげた話をした。

「お祝いをしてあげるから、夕方七時すぎに来てくれ」

「今日は実家に行かなければなりません。今日は婚約のあいさつだけですので、また、あらためておうかがいたします」

 理恵は丁寧に話して電話を省吾に代った。

「あいさつだけですから、会える時間を教えてください」

「今日は、夕方四時から六時まで、うちの事務所で組合の会合があるんだ。三時なら一時間くらい時間を取れる。その時間に事務所に来てくれ。待ってる」

 大槻さんは電話を切った。機嫌が良いとはいえない。大槻さんは木崎さんが話した婿養子の件を省吾に話したことはない。大槻さんが思っていただけだから、省吾に怒りをぶつけようがないはずだ。


「心配だな・・・」

 理恵がつぶやいた。

「なに、心配ないさね。大槻だって娘の親だ。理恵さんのことはわかるよ。大槻に会ったら、木崎のお婆が、たまには文字焼きの店に寄れといってたと伝えとくれ。

 大槻が奥方と結婚する時、私が一肌脱いだんだよ。だから心配ないさね」

 タミさんはにこにこしてる。タミさんの心は広い。

「はい、お婆さん」

 理恵は笑顔を見せた。理恵から緊張が消えてゆくのがわかる。



 家にもどって、携帯でM市のそれぞれの実家と理恵の兄に、事情説明と夕方二人で帰宅する連絡をし、もう一つの家庭教師先新垣さんと、理恵の勤務先に連絡した。

 事態は想像以上に急進行してる。もう変更はできない。

「知りあいの酒屋とパン屋によって、家庭教師先二軒にあいさつして、実家へ行くよ」

「わかった」

 昼食に、タミさんからいただいた焼きそばを食べて、着換えて家をでた。



 帝都大学工学部前の本通りに面した土屋酒店で理恵を紹介して酒類を買い、本通りを歩いて数分ほど南下したケーキとパンの店Cedartreeに寄って理恵を紹介してケーキを買った。杉木夫妻に見送られタクシーで本通りを南下した。


 商店街のジュエリー店TOPAZでタクシーを降りた。

「いらっしゃあ~い」

 丸顔のにこやかな女主人、新垣和子さんが店の前で迎えてくれた。店に入りながら、理恵を紹介し、ケーキと洋酒を手渡した。新垣さんたちも大切な人たちだ。

「あらまあ、私の好きなお酒と、主人の好きなケーキ。

 おかしいわよねえ。夫婦の好みが」

 新垣さんは理恵を見てほほえんでいる。


 新垣さんが理恵と話す間、省吾は女店員と指輪について話した。新垣さんと理恵の話が途切れた頃合いを見て、新垣さんに婚約指輪を購入したい旨を伝えた。

「理恵さんに指輪を説明してあげてください」

 新垣さんは指輪の説明を二人の店員に任せ、省吾を店の奥に呼んだ。

「田村さんの指輪は私が担当します・・・。価格はこれで」

 筆談で、原価販売する旨を伝えられ、

「原価は三割程度なの。頻繁に売れる物じゃないから、利幅を大きくしてるの」

 省吾だけに聞こえる小声で話して、省吾が提示した予算に見合う定価をメモしてほほえんでいる。


「ありがとうございます。助かります」

「気にしなくていいのよ。主人と私からの結婚のお祝いと思ってね。ああ、婚約だったわね。でも、結婚したのと同じよね」

 新垣さんは目配せしてほほえみ、小声になった。

「ここに連れてきたお友だち、皆が悲しんだでしょう?」

 小さな声で、

「もう、彼女たちとは、友だち以上のおつきあいは、だめよ」

 新垣さんが注意する。

「はい・・・」

 省吾は何も答えられない。女友達とどんなつきあいだったか記憶がないのだ。


「特別なことはだめよ。ふつうの人は、私みたいにさばさばしてないから」

「はい」

 俺はこの人とも関係があったのだろうか・・・。

「もどりましょう」

 新垣さんは店にもどり

「お気に入りのがありましたか?」

 と理恵に近よった。


「ええ・・・、でも・・・」

 理恵は自分の給料の四倍以上の指輪を見て言い淀んでいる。理恵の月収は大卒の平均の二倍以上。指輪の価格は大卒の初任給の十倍ほどなのだ。

「大丈夫、田村さんの支払いよ。この二人と同じ、従業員割引にするから・・・。それでも気になるのね。それなら・・・」

 新垣さんが耳打ちすると、理恵の顔色が変った。


「これにします!」

 理恵は、新垣さんがケースから指輪をだして渡すと指にはめ、

「あぁっ、ぴったり!」

 と驚き、

「うれしいな!ありがとう!」

 省吾に抱きついている。

「ネームを入れる?」

 指輪がはまった手を見ている理恵に、新垣さんがいった。


「時間がかかるのなら、このままでいいです」

 理恵は指輪を見たまま、外す気がないらしい。とても気にいっている。

「機械で自動的にネームを入るからすぐできるわよ。石は厳重に保護されるから傷つかないわ」

 理恵を安心させるように、新垣さんは笑顔で説明する。


「それなら」

 理恵は指輪を外した。

「For Tamura Rie from Tamura Shogo with love.としていいよね?」

 省吾に聞いている。

「ああ、いいよ。

 では、それでお願いします」


「わかったわ。日本名のネイティブな表記ね。さすがだわね。ではお願いしますね」

 新垣さんは店員にネーム刻印を指示し、

「もし、不都合があれは、いつでもいらっしゃいね。調整します。うふふっ」

 理恵にほほえんでいる。

「そしたら、支払いします」

 ネームが自動的に刻印されるのを見る理恵を残し、新垣さんは店の奥で、先ほど提示した額よりさらに低い金額を提示した。

「ええッ?そんなでいいんですか?」

 驚いている省吾に新垣さんは

「心配ないわ。気にしないで。諸経費を上乗せしてあるの。

 私と主人からのお祝いといって従業員販売してたら、お祝いにならないわよね」

 ほほえんでいる。

「ありがとうございます」

 指定された額、これまでアルバイトで貯めた、修士課程終了者が手にする給料の二倍強を支払い、鑑定書とケースと領収書を受けとった。


「このあと、他にもごあいさつ?」

 店にもどりながら、新垣さんが尋ねた。

「ええ、塗装会社の大槻さんのお宅へ。今日は実家へ行かなければならないので、高畑さんは明日にもうかがいます。まだ連絡してないけど、夕方、連絡します」


 高畑康子さんは帝都大学工学部の事務官、つまり事務職員で、所属は化学工学系列高分子物性工学科だ。大学院工学研究科、化学工学系列、高分子物性工学系の事務官も兼ねている。新垣さんを紹介してくれた女性だ。


「そうだわね。彼女、喜ぶわ、あなたのファンだから・・・。

 あら、寂しがるか?こんなかわいい人が奥さんになればねえ~」

 新垣さんは意味ありげにほほえんでいる。俺は高畑さんとも関係していたらしい・・・。

「理恵さん、ネーム、入った?」

「ええ、入りました!とってもステキに!ありがとうこざいます」

 理恵は指輪を新垣さんに見せている。

「こちらこそ、今後もよろしくお願いしますね!

 田村さん、まだ一年以上あるけど、就職先を決めないといけないわよ!」

 新垣さんが真顔でそういった。

「今のところ、工業試験場を受験しようと考えてます」

「そうね。あなたの性格なら、その方がいいわ」

 新垣さんは何か考えるようにそういった。

 この人は俺のどんな性格を知っているのだろう・・・。


「じゃあ、大槻さんにごあいさつして、気をつけて帰宅してください。

 理恵さん、今度、私の家に来てね。主人と子供たちを紹介するわ。

 お店なら女性が二人がいるけど、自宅は男ばかりで華がないのよ~」

 新垣さんはケラケラ笑った。

「ぜひ、うかがいます。今日はありがとうございました」

「本当にありがとうございました。亨さんによろしくお伝えください。あらためてあいさつにうかがいます」

 理恵と省吾は新垣さんと店員たちにお礼をいった。


「堅苦しいことは抜きにして、家で顔見せの食事会でもしましょうよ。

 主人もその方がいいというはずよ。日取りを連絡するわ」

 いつものように新垣さんはにこやかだ。

「わかりました。ありがとうございます」

 省吾は理恵とともにあいさつして店をでた。


「ありがとう!うれしい!」

 タクシーに乗りこむと、理恵は省吾に抱きついた。見送る新垣さんにあわてておじぎして、タクシーの中から何度も

「ありがとうございました」

 とくりかえしおじぎした。



 表通りに面した大槻守さんの事務所前でタクシーを降りた。

 事務所から、髪をバックに撫でつけた小柄なでっぷりした大槻さんがでてきた。理恵の指環を見ると、表情をなごませて会釈して、

「大槻です。どうぞ」

 理恵と省吾を事務所に通した。


 電話で話したため、特に話すことはなかった。

 大槻さんは家庭教師や省吾の性格、省吾をどのように思っているか話した。理恵は全身を耳にして話を聞いていた。

 大槻さんは理恵に質問し、理恵は勤務している会社を話した。

 大槻さんは理恵に、省吾とともに開塾することを勧め、省吾が一般的な生産会社にむかない学究肌の人間だと話した。

「私も、そう感じてるんです。この人の勧めもあって、独立目的でこちらに営業事務所を開こうと考えてます。来週からその準備をする予定です」

 理恵はほほえみながら説明した。省吾が考えていることと、理恵がそれとなく考えていたことを大槻さんに指摘され、理恵は感激している。


 大槻さんの態度から、大槻さんが理恵を気に入っているのがわかった。大槻さんの奥方は居酒屋を経営している。大槻さんも奥方の店に顔をだす。酔客の扱いに慣れており、人の性格を見抜くのに長けている。理恵が適当に話をあわせているように見えるが、理恵は事実を語っていた。


「今日、実家へ行くのか?ちょっと待っててくれよ」

 大槻さんは受話器を取って裏手にある自宅へ連絡した。

「ともちゃん、母さんに代ってくれ・・・。

 田村くんから婚約のあいさつに、酒とケーキをもらった。ちょっとこっちへ来れないか?

 二人とも、今日中にM市へ帰るというんだ。初江も二人に会ってくれ・・・。

 我々全員が二人と顔を合せるのは後日として、初江だけでも、今ここに来れないか? はい、わかった」

 電話の途中で大槻さんはいう。

「十分くらいで女房か来るから、それまで時間はあるね?」

「はい、あります」

 即座に理恵が答えた。

 大槻さんは奥方、初江さんとの電話を再開した。

「だいじょうぶだ。待ってるよ」

 大槻さんは受話器を置いた。

「実は女房も娘たちも、ああ中二と小五だ。祖母さんも田村くんを気に入ってて、大変なんだよ。私もなんだがね・・・。

 今まで話さなかったが、年は離れてるが、娘の相手にどうかなんて考えてた・・・。

 だから婚約と聞いて、正直、憤慨したが、事情を聞いて納得した。理恵さんに会ってさらに納得した」


 しばらくすると、髪を仏塔のように結いあげた小柄で小太りの奥方、初江さんが現れた。

「いらっしゃい。これから仕事なの。ごめんなさいね」

 とあいさつし、自己紹介する理恵を、嫌味がなく華やかで人を陽気にさせる人だといった。

「綺麗な方ね。田村さんが奥さんにしたいのもわかるわね。

 今度、家庭教師の日に二人していらっしゃいな。お店でお祝いしましょう。

 ねっ、あんた、いいわよね。お祖母ちゃんと智子と泰江には私から話しておくわ。

 そうそう、理恵さんは英語がわかるんだから、英語は理恵さんが教えてくださいな。

 お姉さんができれば、智子も泰江も喜ぶわ。お願いよ。

 あら大変、急がなくっちゃ。

 今度必ず二人で来てね。あとはお願いしますよ、あんた」

 奥方はちゃきちゃきいって事務所をでていった。


「まあ、そういうことだ。連絡なしでいいから、近いうち、家庭教師の日に、二人で来て、皆で夕食をしよう。私からも頼むよ。

 ところで、木崎と新垣さんにあいさつしたのか?」

「ええ、ここに来る前に」

「そうか・・・。縁のある人たちは、大事にせんといかんからね」

 省吾は大槻さんが省吾の行動を気にしているのがわかった。

 もしかしたら、大槻さんが記憶している俺は、俺が記憶している俺自身と一致してないのではないのか・・・。


「木崎さんのお婆さんが、たまには文字焼きの店にも顔を見せてください、と話してました」

 理恵が大槻さんにそういった。

「ご無沙汰してるからな・・・。近いうちに行くと伝えておいてくれ」

「わかりました。それでは俺たちはこれで失礼します」

 省吾は奧さんの提案にお礼をいって、理恵とともにあいさつし、大槻さんに見送られて事務所の前からタクシーに乗った。

 省吾は自分の過去と未来を知っているような、新垣さんと大槻さんの口ぶりが気になった。

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