八 スザンナとマイケル
二〇二五年、十月三十一日金曜、午後。
声がでない。話せるのに歌えない。なぜなの?私はこれからどうなるのだろう・・・。
スザンナ・ヨークは窓辺にたたずみ、石積みの柵と潅木を編んだ柵が区画を隔てる牧草地を見た。居間の窓越しに家の周囲と、遠方にダブリンが見える。ここはダブリン郊外の田舎だ。
スザンナはふりむき、ソファーの人物へ視線を移した。
「本当に、私を若返らせることができるの?私、歌えないのよ。若返れば歌えるようになるの?」
スザンナは初めてマイケル・エンゲル・モームが目の前に現れた日を思いだした。
スザンナが三十八歳の七月の十五時すぎ。
いつも、スザンナがお茶を飲んで、くつろぐ時間だった。
突然、居間のソファーに、高価なスーツを身に着けた金髪碧眼で長身の、端整な容姿の若者が現れた。眼をぱちくりさせるスザンナに、若者は、
「私はマイケル・エンゲル・モームです。突然、現れたことをおわびします。すみませんが、午後のお茶をご馳走していただけませんか」
といった。
さらに、若者は話しつづけた。
「お礼に、あなたの望む歌唱力を授けます。BBCのコンテストに出てください。
グランプリを得たら、EU首脳会議の祝賀会で歌ってください。各国首脳に聞かせるだけでいいのです。地位と名声と財力が手に入りますよ。
このことと、私のことは他言してはなりません」
スザンナが、特別なことをしなければならないのか問うと、
「ダブリン郊外のこの地を、EUに知らせたいのです。
私について、いずれ説明する機会があるでしょう。今は質問しないでください」
といった。
マイケルの素性を訊こうと思ったが、地位と名声と財力が手に入るなら、何も訊かなくていい。スザンナは質問せずに承諾し、マイケルのために午後のお茶を用意した。
事態はマイケルが話したように進み、スザンナの歌唱力は非常に高く評価され、名声は大爆発し、脚光を浴びた。そして、EU首脳会議の祝賀会で歌った。
その後、スザンナの名声と脚光は、五年で、淡雪のごとく消えた。
スザンナは、土地と住む家と、四十二歳の中年女が余生をすごすのに充分な資産を手にいれた。
だが、スザンナは満たされなかった。母親の介護で時間をとられ、外の世界を知らない女が、ある日突然、ステージでスポットライトを浴びて、マスコミの話題を独占した。観客から浴びせられる驚嘆と賛美と称賛と羨望は一度味わったら忘れられない。
看護していた母はすでに亡くなり、今は、年に二度、幼くして旅客機事故で両親を亡くした、母方の遠縁にあたる少年が、夏とクリスマスに、学校の休暇をスザンナの家で過すために滞在するだけで、ふだんはスザンナ独りだ。
ステージのあの感動をふたたび得たい。つづくものなら、永遠に味わいたい・・・。
スザンナはそう考えていた。
過ぎ去った日々を思い起こすスザンナを、マイケルが見つめた。
「あなたの思いは可能です。私の名はマイケル。別名はミカエルです。正式にはファミリーネームもセカンドネームもありません。その意味はおわかりでしょう・・・」
スザンナは唖然とした。
「あなたを、若く美しい魅惑的な歌手にします。すべての記憶と記録を、新しいあなたに変えます。
何も気にしなくていいですよ。生まれたのは一九九七年。誕生日は十月三十一日、今日で二十八歳です。あなたの誕生日はそのままです」
「そんなこと・・・」
「鏡を見てください。もう変っています・・・」
マイケルは透きとおるような白い華奢な指先でつまむようにティーカップをとり、一口飲んでカップを置いた。
スザンナはウォークインクローゼットの姿見を見た。そこには、腰のくびれた栗色の髪の、美人でセクシーなスザンナがいた。スザンナは我が身に見とれた。
「すべての者たちの記憶も、新しいあなたに変えておきました。安心してください」
マイケルは家の横手を示した。
三年前に新築したこの大きな母屋に、古い家が隣接している。古い家は耐震断熱構造に改修工事中で、作業員が何人もいる。これらの者たちの記憶を変えた、とマイケルはいっているのだ。
スザンナはマイケルをふりかえった。
「あの、遠縁のオイラーの記憶も?」
「もちろんです」
マイケルはほほえみながら、ふたたび、カップを口へ運び、一口飲んだ。
「そうなの・・・」
オイラーの記憶から、四十二の私は消えた・・・。
「悲観しないでください。容姿と年齢に関することを除けば、オイラーのあなたに関する記憶は、そのままです・・・。
プロダクションに手配しておきました。EUの要請にしたがって公演したあと、日本の帝都で、東海大震災復興のチャリティーコンサートを開きたい、と発表してください。
プロダクションは、あなたに話してませんが、そのように計画してます。
僕があなたの周囲に、放射線を防御するシールドを張りますから、浜岡原発事故の影響はありません。
それだけです。このことも他言はなりません・・・。
お茶をごちそうさまでした。
あの者たちが手抜き工事をしようとしていたから、正当な工事をするよう、考え方を変えておきました。
あなたも考え方を変えられぬようにしてください。
何かあれば、誰にも聞こえない小声で、私を呼んでください。
あなただけに聞こえる声で、対応しますから・・・」
カップを置くと、マイケルの姿が消えた。
同時に、セキュリティモニターの着信チャイムが鳴り、スザンナを驚かせた。
スザンナは何度か咳払いして肩の力をぬき、背筋を伸ばして自分をおちつかせ、映像表示で外部通信に出た。
「やあ、スーザン。もう充分休養しただろう。どうかな、公演活動をはじめては?」
薄茶の髪の、メガネをかけた小太りの顔が、ディスプレイで笑っている。
「ええ、そろそろね」
「そう思って手配しておいた。来月半ばはどうだろう?いや、無理強いはしないよ。日程はスーザンが決めてくれればいい」
蝶ネクタイのホンキー・ターナー・トンクの通信に、やっと聞きとれる低周波が感じられる。
「ホンキー、ヴィークルにいるんでしょう?近くまで来てるんでしょう?」
「わかっちゃったね」
「エンジンの低周波が聞こえる。それにヴィークルのカメラ映像でしょう?」
「もうすぐ、そっちのポートに降りるよ。直接会って公演の承諾を得ようと思ってたんだ」
「いいわよ。シルビーもいるんでしょう?」
「ああ、隣にいる・・・」
ホンキーに代って金髪のシルビア・キーンが現れた。
「ハ~イ、スーザン、押しかけてごめんね」
「お茶にするから、早くいらっしゃい。待ってるわ。パイロットも連れてきてね」
「了解・・・」
スザンナは通信を切った。
これで活動開始だ。三週間ほどの休養だった・・・。
えっ?何?私は四十二。三十八でデビューして五年で引退したんじゃなかったの?
マイケル、あれは何だったの?
『すべて夢です。五年前にデビューして、今年五月に過労で倒れ、六月から休養していました。全てが休養中に見た夢です。そのように記録と記憶を変えました。
現在、あなたは二十八歳、誕生日は今までと同じ十月三十一日、今日です』
声が聞こえるが、居間のどこにもマイケルの姿はない。気配を感じるだけだ。
過労でステージで倒れ、気づいたら病院のベッドの上だった。そして、自宅で静養中だ・・・。そのようにしておくのね・・・。
『そうです。私の指示に従ってください。いいですね?』
わかったわ。でも、これまでの記憶はどうなるの?
『夢と同じです。憶えていることもあるし、忘れることもあります。記憶はあなたしだいですよ』
わかったわ・・・。
家の正面のポート上空にヴィークルが現れた。
同時に、テレビの自動スイッチが入り、緊急ニュースを告げた。
《東南アジア・オセアニア経済圏協定諸国が開催している南国サミットの場で、世界最大最強の防衛軍を持つ「東南アジア・オセアニア国家連邦」が成立しました。
またサミットに参加している北米南米諸国により、「北コロンビア国家連邦」と「南コロンビア国家連邦」構想が提唱され、仮調印されました。
東南アジア・オセアニア国家連邦の成立により、国連総会とEU諸国は、東南アジア・オセアニアの自治区や自治領の独立と、パレスチナや中東諸国の自治領と自治区の独立をを承認しました。
国連総会は、安保理常任理事国を除く全加盟国一致で、安保理常任理事国の罷免排斥と安保理制度の廃止、国際連合の廃止を決定し、「国家統合会議」を発足させました。
今後、安全保障をはじめ、すべての決議を、国際連合に代る「国家統合会議総会」の、三分の二以上の議決によって決定する、と発表しています・・・。
速報です!
国家統合会議の決議を考慮し、洋田東南アジア・オセアニア国家連邦議会対策評議会評議委員長(日本国家議会対策評議会評議委員長・総理)が、東南アジア・オセアニア国家連邦諸国に、かつての国連安保理常任理事国や、それらに従う国からの攻撃、および、国境侵犯等の非常事態に対して厳戒態勢を布くよう命じました。
かつての国連安保理常任理事国が、国連の体制変化は東南アジア・オセアニア国家連邦成立に起因する、と判断して、軍事圧力を行使する可能性があるからです・・・。
速報です!
朝鮮が、十二月十二日金曜日午前十一時に人工衛星を打ちあげる、と発表しました・・・》
マイケル!何が起ったの?
『心配ありません。すべて、予定通りです。世界が一つになる第一歩です。EUがそれにむけて緊急協議をはじめます。クリスマスから年始にかけて理事会と議会が開かれます。その後、あなたが歌うことになるはずです。
東南アジア・オセアニア国家連邦にも招かれます。
EUの新規加盟国の歓迎と、日本の地震復興のチャリティーコンサートですよ』
あなたが話したとおりなのね?
『そうです。安心してください。あなたは歌うだけでいい。望むものを歌ってください』
あわててごめんなさい・・・。
『いいえ、かまいません。また連絡してください。それでまた・・・』
マイケルの気配が消えた。
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