二十 概念思考 記憶のすりこみ

 二〇二五年、八月三十一日、日曜、午後。

 帰宅後、理恵と省吾は夕食を作った。調理しながら理恵は時折、省吾の身体に触れた。

 家に居る時、省吾の仕事の妨げにならず、理恵の仕事の妨げにならぬ限り、理恵はいつも省吾に触れている。省吾は、省吾の肩に手を載せた理恵に、理由を訊いた。

「こうすると、先生から穏やかな気持ちが伝わってきて、おちつくの・・・」

 理惠は省吾の腕を撫でながらそう答えた。


 理恵は物事に拘らないおおざっぱな性格だが、常人より感受性が強い。他人の感情を受けとめやすく、他人に関わらないようにしているが、他人は理恵の美貌に無言の感情を浴びせる。理恵はそれらを自分の無意識領域で受けとめて苛立ちを募らせる。そして理惠自身、仕事上の判断や患者に対する自己を抑えた感情など、鬱積した精神負担は大きい。

 その結果、帰宅後の理恵は手を洗って部屋着に着換えても、目尻が僅かに上がり、省吾にしかわからない、怒りのような気配が顔に現われている。

 省吾は、理惠が省吾の肩や腕に触れている間、理恵が放つ熱さと芳しい香りとともに、理惠の苛立ちや鬱積した感情を受けとめて、それらを吸収して消滅している。


 そんな事をできるはずがない、と人は言うかも知れないが、省吾は物心ついた時から、それらの事ができた。いわゆるヒーリングである。

 元妻も理恵のように、省吾に触れるとおちつく、と言った事があった。

 省吾は人の五感では感じ取れない精神領域で起きている変化を説明し、それらの悪影響を省吾がヒーリングしている、と説明したが、概念思考が苦手な元妻は理解できなかった。


 理恵は元妻とは違う。概念思考が可能だ。生じる事実を意識領域で理解して、精神領域でも理解できる。思考と心で理解できる・・・。

 そう思って省吾は理惠に説明する。

「俺に触れておちつくのは、帯電した感情と言う静電気を、アースするようなものだね」

「静電気は流れたら終るけど、私の気持ちは終らない。ず~と続くよ!」

 そう言う理恵は子供のような表情だった。理恵は省吾に対する愛情を思って、勘違いしていた。


「表現が悪かった。つまり、今日一日に他人から受けた、自分でない感情を地へ流し、本来の自分を取り戻すんだ」

「それなら先生がアースなの?

 私が受けた他人の感情は、先生の所へ行ったの?

 先生はそれを、どう処理するの?」

 思っていた以上に理恵の思考は理系だ。文系思考の元妻とは違う。


「この感情は自分のじゃない、と認めれば、消える。消えない時は・・・」

「消えない時は?」

 理恵は眼を見開いて省吾を見ている。興味に溢れた子供の眼差しと顔だ。

「祈る。神様、助けてください、と」

 省吾はおどけるようにそう言った。

「も~お、冗談ばっかり言って~」

 理恵の眼差しが鋭くなった。

「で、本当はどうするの?」

「本当に神々に祈って、区別して、その感情に対応しない・・・」

 省吾は説明する。


 人は往々にして思い浮かべた対象に話しかけ、考えこんで思い悩んでしまう。そして、思い浮かべるのは楽しい記憶より、反省や後悔だ。自己でが踏ん切りをつけない限り、これらはずっと記憶に残っている。常人の記憶はそうしたものだ。

 だが、思い浮かべる対象が自己の思う対象でなく他から侵入したものなら、自己が思い浮かべたと思って対応した結果、対象が新たに変化して自己の記憶に残ってしまう。

 つまり、他人の記憶を作り変えて自己の記憶にすり換えてしまうが、自己は記憶のすり換えに気づかない。我々の知らぬ間に記憶のすりこみが起こる。


「知識って全て記憶のすりこみだよね。でも、私の中の先生はすりこみじゃないよ」

「そうだね。俺の中の理恵は俺だけの理恵だ」

 省吾は理惠から感じた熱さを説明した。


 最初省吾は、理恵という妙に自意識過剰なプライド高い歯科衛生士を警戒していた。

 三度目に理恵を見た時、理恵は見た目と違い、そそっかしくてちょっと抜けた所があ

あってユーモラスな性格なのに気づいた。美人で理知的で近寄りにくく見えるが、仕事がらそのような態度が身に付いただけだと。

 突然、この女は俺といっしょに居る女だ・・・、と感じた時、省吾はまだ、マスクで隠れた顔の理恵の眼しか見ていなかった。同時に、歯科検診結果を説明する理恵が傍に居るだけで、すごく熱いのを感じた。あれは体温じゃなくて理恵の感情だった・・・。

 その後、待合室の省吾を呼ぶ理恵を見て、理恵が美人なのに驚いた。


「憶えてたんだ。先生の傍にいたら、身体が芯から熱くなったんだ。

 それで熱くなった胸を先生の頭にくっつけたくなったの。

 あんな事したのは先生だけだよ!誓ってほんとだよ!」

「うん、わかってたよ」

「やっぱり、先生は、そうだったんだね」

「何が?」

「私の気持ちを感じてたんだ」

「うん、あの時から、ずっと理恵を思ってた。いつか妻にしたい、と」

「うれしいなあ・・・」

 理恵が、夕食を準備する省吾の背後から、胸に腕をまわして抱きついた。省吾の肩に顎を載せている。省吾は、理惠の放つ熱さと芳しい香りが増すのを感じた。

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