十七 婚姻届 マリオンの指示

 二〇二五年、八月二十八日、木曜。

 出版社の木村が話したように、婚姻届に関する民法改正が十時のテレビニュースで報道された。すぐさま省吾は理恵の携帯に、婚姻届を日曜に提出するとメールした。


 十八時過ぎ。

「ただいま!」

 理恵が帰宅した。オープンキッチンの隣の洗面所で手を洗ってうがいし、

「うれしいな~!日曜から先生の奥さんだよ~!」

 熱さと芳しい香りを放ちながら、夕食の準備をする省吾に抱きついた。


「今までも、理恵は俺の愛妻だ!」

 省吾はクッキングヒーターを消して理恵を抱きしめた。省吾が仕事関係者に、理恵を愛妻と話しているのを理恵は知っている。

「うん・・・」

 理恵は省吾の唇に唇を触れ、辛味の効いた匂いに気づいた。

「この匂いは・・・」

 省吾に抱きしめられたまま、フライパンを覗きこんでいる。

「麻婆茄子だっ!」


「理恵の好みに合わせて辛めにした。もうすぐ完成だ」

「うん!」

「風呂に入れるよ」

「いっしょに入りたい。夕飯にしていい?」

 顔を離して省吾を見つめている。

「ああ、いいよ・・・」

 省吾は泡にまみれた理恵の身体を思った。

「私を想像してるでしょう?」

「想像してる・・・」

『優しく洗ってね』

「優しく洗ってあげるよ」

『うれしいな』

 理恵はまた省吾の唇に唇を触れた。



「今日・・・、歯科衛生士が新人になってた・・・。

 前にいた二人は私と同じ年齢で独身。二人は地味だった・・・。

 続きは着換えてから話すね・・・」

 理恵は省吾の頬に頬を触れて着換えに寝室へ行き、戻ると、もう一度手を洗い、説明した。

「二人の名は、三木と神保。二人とも私と同じ身長で整った顔立ちだよ。

 目だたない化粧をしてた」

 二人はあえて目だたないようにしていたようだ。

「どこに住んでる人?」

 省吾はテーブルに夕食を並べた。

 いなくなった歯科衛生士について訊いても、何かわかると思えない・・・。

「二人ともD歯科クリニックの近くの人だよ」

 理恵は皿と箸を並べ、椅子に座った。

「住所は?」

 省吾も椅子に座った。

「わかるよ。行ってみる?」

 理恵は、いただきます、と箸で鯵の塩焼きをつついている。


「日曜に婚姻届を出してから、行ってみようか・・・。

 院長は新人にどうしてる?」

「何年もいた人みたいに接してる・・・。

 この鯵、おいしい!」

「うん、活きのいいのを見つけたんだ・・・。

 院長はどちら側だと思う?」

 院長は俳優じゃない。演技ならいずれわかる・・・。


「院長は私に何もしないから、モールで私たちを逃がして家に連れてきた側。

 いなくなった二人の歯科衛生士はどっちかな。拉致しようとしたクラリック側かな。

 先生は、どう思う?」

『マリオン。理恵は、クラリックの名を憶えてるぞ』

『印象が強かったからだ。気にするな』

「院長については理恵と同じだ。歯科衛生士の二人はまだわからない」

「気になるの?」

 理恵の箸がとまった。僅かに目尻が垂れた優しい眼が、ちょっと心配そうだ。

「ああ、気になるけど、理恵が話したように、その場に合わせるよ。

 ただし、何かあった時のために準備はしておく」


「日記は書くんでしょう?」

「ああ、書くよ」

「良かった・・・」

 理恵は安心して麻婆茄子を口へ運んだ。

「・・・なぜって、政府や政治が先生の思うとおりになるから。うっ辛い!けど、うまい!」

 麻婆茄子の辛みで理恵は涙目だ。


 省吾は箸をとめた。

「政治をやろうと思わない。考えられる民主的な政治を書くだけだ。今は経済優先で、国民がないがしろにされてる。理恵の意見も聞かせて欲しい」

「いいよ!」

 理恵は眼を細めて微笑んでいる。


 理恵が言うように、一般人の俺が政府人事と政治に介入するチャンスだ・・・。細部は異なるが、今日までの出来事は、日記のとおりに進んでる。これからも書いたとおりに進むだろう・・・。

『ただし、正義に基づく事だけだぞ』

 マリオンの声が省吾の意識に響いた。

『わかってる。理恵と俺の関係も正義か?』

『理恵がいないと、お前も私も困る』


 確かにそうだ・・・。

 銀行員の菅野と結婚していた過去の理恵も、経済優先の国策の被害者だ。民間企業にしろ官公庁にしろ、全てが経済優先の社会だ。財貨が全てを支配し、財貨無くして日常生活はありえない。地を耕して実りを得、それだけで生活するなど過去の幻に過ぎない。


 現代人は文化と文明の区別がつかないだけでなく、財力が教養そのものと思っている。これは日本だけでなく、有史以来の世界的傾向だ。

 原因は教育にある。現在の国民は政府によって、経済優先の政治思想に基づいて教育され、国民と国土と日本文化を日本国とは考えなくなっている。

 国土を売り、才能ある者を国外へ放出し、国内技術や国土を他国に売り渡して平気でいる者たち、つまり、政府と官僚と経済界人と研究者と技術者と国民は、もはや真の国民ではない。俺は大政同志会のような右翼じゃないが、そう思う・・・。


「先生?どうしたの?」

 理恵が箸をとめて、省吾を見つめている。

「えっ?ああ、考えてた」

「日記の事を話したからだね。

 せっかくの味がわからなくなるから、この話、やめよ」

「そうだね・・・。

 理恵、疲れてないか?」

「何?疲れてないよ。元気だよ。どうして?」

「昨日、色々あったのに、昨夜、愛しあったから」

「先生は?」

「平気だよ」


「じゃあ・・・、今夜も・・・」

 理恵の顔が赤くなった。身体から放つ熱さと香りが増している。

「ああ、もちろんだ。新婚だよ」

「うん・・・」

『優しく愛して、たくさん愛して』

 理恵の熱さと香りは、俺だけが感じているのかも知れない・・・。

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