これを優しさと呼ばないのなら過ちでもいい
秋色
第1話
その日の事は、朝から説明できる。
カラオケ屋の深夜バイト明けの朝。コンビニでサンドイッチとオレンジジュースを買い、いつもならアパートの部屋に戻って情報番組を見ながら朝食をとるところ。でもその日は、駅に直行し、そこで朝食のサンドイッチを食べた。滝を見に行く予定だった。これは自分の年中行事だから。
その頃、三つのバイトを掛け持ちしながら、いつか大学へ行くための金を貯めていた。時々は心が折れそうになり、もう諦めて適当な所で正社員として就職しようかとも考えるのだった。
「自分は一体何のために生まれてきたんだろう?」とある時は疑問に思い、またある時は、「果たしてこの広い世界の隅っこで自分の役割なんてあるのだろうか」と大袈裟に自問自答してみる。それは、ボッチで、弱っちい大人になりきれないやつにはありがちな日常の、ありがちなギモンだ。
独り暮らしのオレの事を心配してくれる人がいない事はなかった。近所に幼なじみの実家があって、当の幼なじみは県外の大学に行っていたが、地元の両親は何かに付けてオレの身を心配してくれていた。オレのここでの唯一の味方だ。だが、それも所詮、立場の違う人間だ。手広く(かどうかは分からないが)造園業を営み、息子を大学に通わせている人にオレの気持ちなんて分かるまいと思っていた。
中学、高校時代の友達の中にも「オマエほどのやつが金の問題で浪人してるなんて勿体ない」と心配してくれるやつはいた。でも時が経つうち、自分の日常の事で精一杯になる。高校の担任の教師もオレの事をもう忘れてるだろう。あるいは、今どき感心な、そして諦めの悪い受験志望の勤労青年として心にとどめているか。
そんな時代のとある一日だった。駅の近くの橋で手摺を握り締め、下を覗いている割と年上の女の後ろ姿を見たのは。二十代後半か、三十代か、あるいはもっと上?
初めは自殺を考えているのではないかと疑わしく思い、近付いた。でも女は「ミャオ、ミャオ」と言いながら下を向いたまま。よく見ると、小猫がなぜか川の端の危なっかしい場所にいて上に上がって来られないのを気にしているようだ。どうもノラの小猫らしいが。
近くには、虫取り網を持った小学生の男の子がと、その友達であろう釣り道具を持った男の子がいた。どちらも自転車を停めて、心配そうに女と小猫とを見比べていた。
「貸して」
オレは、子ども達から虫取り網と釣りの竿を借りると、竿で子猫をおびきよせるようにしてから虫取り網の中に捕獲した。こういう器用さにかけては自信がある。
周りでは絶賛の嵐。でもオレは、「これからN滝まで行かなきゃいけないから」と足早に立ち去った。
その後、N駅に行き、駅のホームで電車を待っている時の事だった。さっきの女がぼんやりオレの方を伺いながら遠くに佇んでいるじゃないか。まさかストーカー女か!?
思い切って近付いて話を聞いてみた。
「まだ何か用ですか?」ストレートだった。
「N滝ってN町にあるんでしょ?」
「それが何か?」
「私もN町の中に行きたい場所があるの。そう言えば」
どうやら女はオレの、N滝に行くというさっきの話を聞いて、自分もN町の中に行きたい場所がある事を思い出した様だ。えっと〜。
「あんな田舎町に滝以外行きたいところなんてあるわけないっしょ?」とあきれるオレ。
すると、「高台に自宅を改造したフレンチレストランがあって、夜、そこから見える夜景が星を散りばめたように綺麗なんだって」とどこかで噂を聞いたらしい様子。
よくわかんないけどフランス料理店というのは一人で思いついて行くような場所なのだろうか? いや、そうではないだろう。特別な仲のふたり、あるいは数人が予約してディナーを楽しむものなのでは? それとも今はお一人様ナントカで、それもアリなのか? いや、待て。第一、予約くらいは必要だろう。
「で、店の名前は?」
「名前は知らないの」
とにかくこの女のボーッとした感じは、危なっかしくて見てられない。
電車が来た。
「とにかく電車に乗ろう。これ、一時間に一本しか出てない電車だから」
そして一分後には、オレは窓に平行に延びた電車のエメラルドグリーンのシートに女と隣り合わせで座っていた。別にくっついていたわけじゃないけど、他に乗客もいなかったから、こういう構図になる。いや、斜め向かいに幼稚園に行ってる位の二人の子どもを連れたおばあさんがいるか。夏休みは来週からなので、電車の中がこんなに過疎っていてもおかしくない。
窓の外には、初夏の田園風景が広がっていた。スカイブルーってこういう色の事を言うんだろうな、という位の青空の下に広がる緑の野っぱら。風が吹く度になびいていく野草がまるで偉大なピアニストが演奏している巨大な鍵盤の上みたいだ。
横からそっと見る女の顔は、こういう女に対しての偏見が植え付けた印象を大きく裏切るような綺麗な整った横顔だった。残念な事に髪は荒れている気がしたけど。初夏の木漏れ日が頬にあたり、なおのこと美しく見せている。風がそよぐたびに良い香りをほんのり感じる。
膝の上に置かれた有名ブランドのロゴ入りバッグには見覚えがあった。このブランドのバッグは例の幼なじみの母親、松恵さんも持っていた。でも元ヤンらしい松恵さんが持っている時とだいぶ印象が違う。そうか。このバッグはこんな人がこうやって持つ物なんだ、とつい膝を叩きたくなった。でも、それは松恵さんに失礼な考えだと反省。これを大切に持っている時の松恵さんのうれしそうな表情を思い出した。きっとブランドのバッグには女の人を幸せにする何かがあるのだろう。
彼女の左手の薬指にはシルバーとピンクとゴールドを絡めたようなリングが。やっぱ人妻なのか。もしこんな風に隣り合って座っているところを誰かに見られたなら、誤解されないだろうか? もしそうなったらどんな風に弁明すればよいのだろう。
「何か?」
「いや、何でも!」
慌ててオレは、ジーンズのポケットの中からスマホを取り出し、いじり始める。えっとえーと。「自宅を改造したフランス料理店」、「N町」、「夜景」をキーワードに検索してみた。女の言う事をあまり信用してはいなかったが。
すると意外にも「星のダイナー」という店名がトップに出てきた。フランス料理専門店。これだ。夕暮れ時に白い看板がライトアップされている画像が出ている。それを見ると、やはり店というよりは、個人の家っぽく、隠れ家レストランと書いてあった。
「あった。あったよ」
でもやっぱり「シェフ一人のため要予約」となっている。
「要予約だってさ。予約する?」
「ええ」
でも女は、スマホを出して何か無駄な指の動きをしてるだけ。
「貸しなよ」
オレは彼女のスマホを取り上げ、さっきの店をたたっと検索し、電車内というのも気にせずそのまま電話した。どうせ過疎ってる電車だ。電話に出たのは、ちょっと高齢っぽい女性だった。店主のようだ。店主は、たとえ今日という当日でも五時半以降なら、そして三名までで「三品のシンプルフレンチデイッシュ」という限定メニューに限り予約に応じられると言った。
「どうする?」
「予約をお願いします」
何て他力本願な女なんだとあきれながらもそれで予約を入れてもらう事にした。無事に予約を入れられるかと思ったら、一名というのに難色を示された。「うちは二名以上の予約でないと受けていないんです。ホームページにも書いているんですが」
この短い時間にそんなに詳しくホームページの隅々まで読んでねーよ。ましてや予約をとりたい本人は店の名前すら知らなかったんだから。心の中で舌打ちしながら、その事を女に伝えた。
「で、どうする?」
「二名でお願いしましょ」
「二名って? ‥‥誰?」
女は、オレに向かって手のひらを斜めにして向けている。これはオレと二人でそのフレンチの店、隠れ家みたいな店へ行こうという事なのか? 人妻と隠れ家みたいな所へ行ってどんな厄介な事が待ち受けているのか、知る由もない。だが、スマホの向こうの返事を促す店主の手前、焦って判断を急いだ。
「はい。では五時半に二名でお願いします」
車窓からの田園風景を満喫し、やっと電車はN駅に着いた。もう正午に近い。眩しい光の中、着いた田舎の駅前。
「オレはN滝に行くけど、どうする? 五時半まで時間あるけど」
「お店に二人で行かなきゃいけないんだったら一緒にいなきゃね。私も滝、見に行く」
「でもいつもここでレンタサイクルなんだけどな」
オレは女のプチ披露宴にでも行けそうなドレッシーな服装を絶望的気分で見ていた。
いつものレンタサイクルの店は田舎らしい、昭和な感じの店。そこで二人乗りの自転車を借り、彼女を後ろのシートに乗せた。自転車に乗る前、彼女はバッグからヘアゴムを取り出し、少し下気味のポニーテールにした。自転車を漕ぎ出すと、さすがに山の空気は涼しくて心地よい。涼風にそよぐ彼女のポニーテール。心の中の何かがカチリと音を立てる。
だから……。人妻とこんな事してるの、見られたらヤバいんだって。
人工池のような場所に着くと、女は「あら」と気になるような反応。だからオレは自転車を停めた。ここではあまり自転車を停めた事はないが。子どもの頃、親、妹と来た時以来だ。
池は途中、人工の中洲で二分割されていて、ぐるっと囲んだ周囲には途中、一部になぜか階段が観客席のように付いていた。そうだ。子どもの頃、あの階段に妹と並んで座ってみたっけ。まるで野球観戦に来たみたいに。その時、軽快なメロディが辺りに流れていた。オレと妹は、座っていた階段を立ち上がり、軽快なメロディの出どころを探して、さまよった。メロディの出どころに徐々に近付いた。あの頃、リゾートホテルがこんな山奥にあって、そこで何とかフェスティバルのようなイベントが行われていたのだ。ホテルの中庭を開放し、どこから集まってきたのかと思われる位大勢の人々がたくさんパンと飲み物の並んだ白い長テーブルを囲んでいた。様々なパンを選び、手にとって口にしている。大勢の人の笑い声がさざめく。オレと妹は顔を見合わせた。そしてテーブルに駆け寄る。
なのに夢のようなパンを目の前にするも、これに参加するにはオレ達のこづかいでは賄えない位の参加費用が必要なのだと知ってがっかりする。いつも決まって人生の美味しい部分は、他人のものなんだ。
「どうしたの? 一人で笑ったりして。何か思い出してるの?」
「いや、何でもない。昔はここに人が集まってた時もあったなーって思い出してただけ」
「今はいないのね。夏休みになったら、キャンプに来るのかしら」
オレ達はまた、二人乗りの自転車で公道を走り、やがて滝の入り口に着いた。ここからは歩きになる。女は、ヒラヒラしたスカートというその日のスタイルをようやく後悔しているようだった。とは言え、こんな場所まで来るという事を朝には全く想定していなかったのだろう。ただヒラヒラスカートではあったが、靴はヒールでなかったのがせめてもの救いだ。
やっぱりこんなふうに人妻と遠出している図式は、かなり自分的にまずいのではないだろうかとしつこく気になるオレだった。
ここまで来る間に、気温、体感温度はグッとさがり、涼しくなっていた。滝の入口からはさらに温度が下がったようで、辺りはヒンヤリとしている。いつもこの滝を見に来る時はそうだったと振り返る。
山の間の細い小道を歩き、岩の形状を生かした階段を上ると、涼やかな音とともに三段の滝の全貌が見えてきた。幼い頃から毎年訪れているけど、相変わらず胸を打つ風景。小さい頃は滝で遊ぶ事に頭がいっぱいで、この滝の自然の美しさなんて意識してなかったが。
成り行きでこの女を連れてきたけど、本当は、自分の中で絶対の自信のこの風景を女に見せたかったのかもしれないと、何だかそんな気がしてきた。
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