『正気度を死守せよ!』
橘紫綺
第1話『逃げられない牢獄』
また、来てしまった……。
ゴロゴロと唸り声を挙げる赤黒い雷雲が空を覆い、青白い稲妻が遠く近くに走り抜ける恐ろしい世界。そこに聳え立つのは漆黒の口をぽっかりと空けて聳え立つ岸壁。
初めてそれを目にしたときは、恐ろしさのあまりその場から動けなくなってしまった。
何故か解らない。解らないが、それを見たとき、私は咄嗟に、凶暴で恐ろしい存在を投獄する牢獄のイメージを抱いた。
怖かった。
右も左も分からない。息子も娘も、いつも私を気遣って溺愛してくれている夫もいない。
たった独り。訳の分からない場所に立たされて、行きたくないと心の底から私は思った。
それでも、
「さっさと入れ!」
突如背後で上がった、心臓が止まるほどに恐ろしい銅鑼声に命じられ、強い衝撃と供に突き飛ばされた私は、地獄へと続いているかのような暗黒の口の中――牢獄の中へと倒れ込んだ。
◆◇◆
ガヤガヤ、ザワザワと、牢獄の中は賑やかだった。
明るい照明に綺麗に磨かれた床。本来ならば舞踏会でも開かれそうなほどに広いその空間に、ずらりと規則正しく並んでいるのは商品棚。
その棚に並ぶのは、よくよく見慣れた果物や野菜。良く冷やされたパック入りの飲料。その後に並ぶのはヨーグルトやプリンなどのデザート類。その先に並ぶのは納豆やこんにゃくなどの食材。魚に肉にお惣菜。缶詰やお菓子やジュースの棚があれば、洗剤やバケツなどの日用品。他にも衣類や家電。おもちゃに文房具。家具に農具にカー用品。他者を寄せ付けない牢獄からは想像もつかないほどに、普通の商業施設に売られている品々。
そして流れるのは商品紹介も兼ねた、軽快な音楽と音声。
そう、そこは、どこからどう見ても牢獄ではなく、誰もが一度は利用したことのある大型スーパー。ただし、その空間で買い物をしているのは人型ではあるものの、明らかに人外の存在たち。
それでも、人外のお客様方が買い物カゴ一杯に商品を入れて並ぶのは、これまた見慣れたレジ。そこではエプロンを付けた人外の従業員が、せっせせっせとカゴからカゴへと商品を移動して、お会計。
初めは何が起きているのか分からなかったが、今ではすっかり理解はしている。そして、自分がここで何をするのかも。どんなことになるのかも。
私はここの、このスーパーのレジを司るチーフとして、様々な仕事をこなさなければならないということを! ただし。
「チーフ! いつまでそんなところに突っ立ってるんですか! さっさと戻って来て下さい!」
早速怒り心頭の声が私を背後から貫いた。
思わず、ウッっと呻いて薄い胸を抑える。
途端に、胸から一つ青い光の玉が生まれて弾ける。
マズイ。いきなり一つ心が割れた。
私は背筋に冷たいものを覚えて、慌ててサービスカウンターへと駆け込んだ。
「一体いつになったら、喋られる前に周りの状況にあった行動を取ってくれるんですか!」
出迎えたのは、頭から角を生やして激怒している小柄な鬼だった。エプロンの胸元には《サブチーフ》と書かれた役職プレートが付いている。
そう。彼女(声からして女性)が、私の部下であり、私より断然仕事のできるサブチーフ。
そして、
「そもそも、《還りが時》の前日は混み合うから、人員を増やしたシフトを作ってとこれまで何度も言っていたのに、どうして通常人数で作ったりしてるんですか!! 見てくださいよ。この混雑ぶり。どうするつもりですか!」
毎度毎度、私がこの《店》に出勤して顔を見る度に、開口一番ダメ出しを食らわして来る《
お陰で私の胸がまたズキリと痛み、再び青い光の玉が浮かび出てパチンと弾ける。
出勤して早々、十個の内二つが割れた。
これが全て割れたとき、私は死ぬ。
一体何度死んで来ただろう。
心が割れる度に自分が何もできないダメ人間だと突きつけられて、生きている価値すらないのではないかと自問自答するほどに傷ついて、思考が麻痺して、目を覚ます。
そう。目を覚ます。目が覚める。
つまり、現実に戻るのだ。
そう。これは、私が見ている夢だった。
紛れもないただの夢。ただし、内容だけは現実に嫌なほどに酷似したものだった。
この夢を見始めたのは今から一年と三か月ほど前。
それまではこんな夢見たことなどなかった。見始めたのは、勤め先のレジのチーフが一年半前に辞めたことによって、まさかの私がチーフとして人事を言い渡されたことだろうということは想像に難くない。
まさに青天の霹靂だった。これまでただのレジ員として過ごして来た。それで十分だと思っていた。
それが何故、突然チーフなんてものに任命されたのか。私よりも若くとも、就職歴の長い若い子が、それこそ、娘と同い年ぐらいの子だっていたのに。
それなのに何故かと問えば、答えはあっさりと返って来た。
『年齢を重ね、常識があり、かつて店を経営していたあなたなら、十分にレジ員たち指導していける。何。前任者のようにミーティングに出る必要もないし、基本的にはサービスカウンターに立って指示を出して、シフト作りをしてくれていればいいから』
そう。私には店を経営していた実績があった。正確には、私のことを今も昔も溺愛してくれている夫が営んでいたお店で、私は事務方の仕事をしていただけだったのだが、やって来るお客様たちは皆ほとんど顔見知り状態。地域に密着した店だったため、接客だってそれなりのことはした。
そうか。その点を認められたのか。正直、仕事ができるかどうか不安だったが、立っているだけでいいのであれば楽なものだと、この時の私は思ったのだ。
何より、経営者である社長のお言葉を拒否してしまえば、年齢のこともあり仕事を続けられないと思ったから。と言う理由も大きい。
何にしても、私は受けた。
仮に、前任者が辞めたらチーフになるんじゃないかと噂されていた同僚は、サブチーフと言う役職を与えられ、そのサブチーフは、経験のない私を気遣って、『仕事に慣れるまでは全力でバックアップするから、解らないことは何でも聞いてね!』と言ってくれていた。
私は助かったと思った。全力でバックアップということは、社長に言われた通り、ただ立っていれば、代わりに全部やってくれると保証してくれたのだから。
それなのに、サブチーフは前言を撤回した。
チーフに就任して二か月が過ぎるかどうかと言うところで、いきなり手のひらを返したのだ。
それは突然のことだった。
『本当にいい加減にしてくれない?』
苛立ちも露わに叱られた。
これまで生きて来て、親にも身内にも夫にもお姑さんにもお舅さんにも言われたことのないきつい口調で。
『三か月もサビカンに入りっぱなしで、どうしてこんなこともいまだに出来ないの?!』と。
それからと言うもの、毎日毎日重箱の隅をつつくようにお小言や嫌みを貰った。頭ごなしに叱られて人間性を否定されて。正直怒られている意味自体が解らなかった。
だから耳に蓋をした。心に蓋をした。この人は目上の人も年上の人も敬えない非常識な人として、私の心を傷つける嫌な人として認識し始めた頃から、夜に眠るとこの恐ろしい店で働く夢を見るようになった。
ここでは、十回叱られたら、息子が言うところのゲームオーバーとなる。
心の傷を回復させるためには、お客様から「ありがとう」の言葉を貰うこと。
私はこれまでこの夢を見て一度として退職時間まで無事に過ごしたことがない。
正直本当にうんざりだ。現実でも夢の中でも怒鳴られてばかり、否定されてばかり。正直本当に腹立たしい。
でも、何もしなければただただ辛いだけ。不当に罵倒されて否定されるいわれはない!
だから私は、今日こそは、サブチーフに罵倒されようとも、お客様に『ありがとう』を言われて退職時間まで無事に生き残ってやるんだからと、強く自分に言い聞かせて、サブチーフに背を向ける。
だって私が相手をするのはサブチーフではなく、お客様なのだから!
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