月邦異聞

モリアミ

白亜

 何かが体を揺する。

 目を開けて身体を起こすと、辺りは白亜の世界だった。白い砂、白い砂利、白い岩が延々と続き、真珠の木々と玻璃の草花が所々に生える。空は夜の帳が降りた様に位が、辺りは昼間の様に明るい。ここは明らかに異邦の地だ。だが、一体何と比べてだろう。はたとすれど、頭に靄がかかり何事もはっきりとは思い出せない。ぼんやりとした記憶の中でただ1つ、靄の向こうで眩いほどの光が語りかける。

「……ミコト、そなたは……のです。それが……なのです。」

 声は奇妙に反響し、途切れ途切れで聞き取れない。ミコト、私はそう呼ばれて居た。恐らく、それが名なのであろう。

 ピーッ!

 甲高い鳴き声がして、ふと傍らに目をやると、一匹の美麗な獣が側に控えていた。獣は牡鹿のようだが、角から蹄まで真白く、翡翠色の目と毛皮は僅かに燐光を纏う。そして不可思議なことに、額には目と同じ色をした翡翠の勾玉が埋まっていた。警戒し腰に佩いた太刀に手を添え、獣に問う。

「お前は何じゃ? 妖の類いか?」

 問われた鹿は、きょとんとした顔で見つめ返す。

「言の葉を解さぬか?」

 鹿は短くピーッと一鳴きするだけだった。邪気の無いのを見て、幾分警戒が和らぐ。

「お前と問答しても埒があかぬ。」

 鹿は叱咤されたと思ったのか、しょんぼりと頭を下げた。

「仕方あるまい。しばらく辺りを歩いて周るか。何処か道理の解る者が居れば良いが。」


 ミコトは一刻程辺りを歩いたが、まるで何者の気配もない。その間、白鹿は主に付き従う様にミコトの後を歩く。ときたま、気を引く様にピーッと鳴くがそれ以外おとなしいものだった。

「お前は何者かの眷属か? 何処かに主は居らぬのか?」

 ミコトは押黙るのにも厭いて問い掛けるが、当然応えはない。

「ただの獣の様には見えぬ、一体何者なのじゃ?」

 ミコトの問い掛けに応えたのか、またピーッと鹿が鳴いた。すると、緩く冷たい風が辺りに吹いた。ミコトは風が来る方角に首を向け、目を凝らす。

「何じゃ……」

 どこまでも続く様に見える白の稜線は、一見して何の変哲も無いよに感じる。しかし、何処か僅かな違和感と、五感を超えた何かがミコトを警戒させたていた。そして気付く。遠くの稜線がゆっくりだが段々と近づいて来ているのだ。

「あれ程広く日が翳ることが有るものなのか? 如何せん、今の我では物の道理も解らん。」

 何れ呆けたままに歩き回っていても、どうにもならない。不吉だと本能がいうが、あえて向かう他あるまい。どうせ何処へも宛てなどない。

「一つ寄って、確かめる他あるまい。」

 ミコトが風上に足を向けると、鹿はまたピーッと鳴いた。翻って観れば、鹿はアレに向かう度に鳴いていたのかもしれない。


 ミコトが翳りの側まで来ると、改めてその異様さを思い知った。白の世界の端から端までを、まるで墨で塗り潰す様に、ゆっくり、そして確実に翳りは侵食していた。塗り潰された先は、光が一切届かず、地面すら有るか無いか判然としない。

「これは難儀じゃ。道理は無くとも尋常ならざるは一目瞭然。」

 さてど困ったのは、ここまで来て一向に事態が進展しないことだ。ミコトが陰の前で立ち尽くし、愈々途方に暮れかけたそのとき、視界の端で黒い何かが揺りと蠢いた。気配も無く近くまで寄っていたソレに、ミコトは驚き慌てて距離を取る。驚きのままためつすがめつすると、ソレはヒトガタの影の様に見える。しかして、実態も無くゆらゆらのろのろ寄って来る。ミコトは思わず太刀の柄に手をやる。

「何者か、何処から出でた、何故に寄り来たる?」

 影は一向応えずにミコトとの距離を詰める。後ろで控えていた鹿が警戒する様に鳴いたので、慎重に視線を向けると、近場の木々の日陰から正に影のヒトガタが這い出て来ていた。忽ちにミコトはヒトガタに周囲を囲まれた。

「妖か物の怪か何処不吉の類いか、それ以上寄らば……」

 ミコトが語気を強めても、ヒトガタは止まらない。その内にヒトガタが間合いに入ったので、ミコトは意を決する。太刀を抜き様横薙ぎに叩き付けるが、奇妙にも手応えがない。構え直して目前のヒトガタを睨み、今度は過たずと太刀を突き入れる。しかしまた手応えはなく、ヒトガタも堪えた様子は無い。

「なっ……」

 ミコトが言葉を失い固まった隙に、ヒトガタはぬっと手を伸ばし太刀を持つミコトの腕を掴んだ。その瞬間、身体の芯から熱が奪われていく。これはまずい、これは命を吸い取られると咄嗟に理解はしても、一足遅くミコトにはどうすることも出来ない。意識が途切れそうになった刹那、鳴き声と共に燐光が脇を駆け抜け、ヒトガタを突き飛ばした。鹿は尚周囲を囲むヒトガタを乱す。ミコトは囲いに綻びが生じたのを見て、寄り来た鹿に力を振り絞って飛び乗った。鹿も我が意を得たと言わんばかりに駆け、翳りから逃れる様に走る。十分に距離をとった処で、ミコトも気力を取り戻し鹿の背から降りる。

「口惜しいが、贖う術が無い以上、避ける他はないか。」

 不覚を取り唇を噛むミコトを、鹿は翡翠の目できょとんと見つめていた。


 その後、とりあえず翳りと逆方向へと進むことにし、しばらく歩くと林に着いた。先刻のことも有り、ミコトは木々の陰などを警戒したが、伴った鹿を恐れてかヒトガタが出てくることは無かった。或いはあのヒトガタは、翳りが近づくことで力を得るのかもしれない。翳りやヒトガタについてアレでもないコレでもないと思案していると、それまで後ろに従っていた鹿が、突然駆け出した。

「これ、いきなりどうした、何処へ行くのじゃ」

 鹿を追っていると林を抜けて開けた場所に出た。どうやらそこは、谷間の川原の様だった。川原の様だというのは、谷間を流れるのが水では無く黒い靄だからだが、そこここに転がる石は水で磨かれたみたいに綺麗な丸石ばかりである。鹿は畔まで寄って靄に口を付ける。

「お、おい、そのような物に口を付けるでない。」

 鹿がなんともないので、ミコトも恐る恐る靄に手を浸してみた。

「ひぇっ」

 靄は恐ろしく冷たく、思わず情けない声が漏れた。そうしてミコトは靄をひとすくいし、口に含んでみたが思ったほどの冷たさでは無い。飲み込んで見ると、水でも無いのに喉が潤った気がした。目覚めて数刻とはいえ、思えばずっと飲まず食わずだった。その時、靄の川底に何かが光って見え、冷たさに身震いするのを抑え、砂利をすくう。すると、白い丸石の中に、一際磨かれ虹彩煌めく勾玉があった。

「ほぅ、何とも綺麗じゃ。しかしのぅ、石で腹は膨れんしのぅ。」

 そう言いながらも、ミコトは勾玉をかざしては呆っと眺める。そうして川原で一休みしていると、びゅうっと風が強く吹き始めた。鹿も警戒する様に一鳴きしたので、ミコトも用心深く辺りを見回す。その内に、風上から流れ込んだのか辺りに黒い霧が漂い始める。するとまた、陰になったところからヒトガタが這い出てきた。

「やれまたか、逃げるにしろここを渡らねばならぬとは、出来れば足を浸けたくはないのじゃが……」

 ミコトは靄の冷たさを思い出し身震いしたが、背に腹は変えられない。幸い、ヒトガタ共の動きは鈍く、囲まれでもしない限り逃げ着るのは容易なはず。ミコトは一つ大きく息を吸い、全速力で川を走り抜け、対岸のヒトガタを振り返る。ヒトガタは数歩程のろのろ歩いたかと思えば、徐に前へと倒れた。そして、倒れた勢いのまま四足で走り出し、走る間にオオカミの様に変化したのだ。

「何と面妖な……」

 オオカミは瞬く間に間合いを詰め始めた。鹿が庇う様にミコトの前に飛び出し、角を振って追い払おうとするが、オオカミ共は俊敏に動き周りあっという間に取り囲まれる。これは万事休すと身体が強ばり、思わず拳を握り締めた。自らの死期が近いたからか、頭にかかった靄を一条の白い光が切り裂いた。その裂け目の中で、ミコトは血溜まりに佇んでいた。足下には何者かが横たわり、自分の手には血で濡れた太刀があった。あれはいつのことだったろう? ピーッと鳴き声がミコトの意識を引き戻す。気が付くと不思議なことに、左手には八尺程の白く輝く長弓が握られていた。

「これは、いつの間に……」

 しかし、弓があっても番えるものが無い、そう思っていると、鹿が一跳びし川原に生えた葦を一房咥え戻って来た。ミコトが鹿から葦を受け取ると、玻璃の葦は玻璃の矢に変じた。

 ピーッ!

 鹿が一際大きく鳴いた。隙を見たオオカミが後ろ脚に噛み付いたのだ。鹿はオオカミを足蹴にし、暴れて振り払う。

「こやつめ、何をするか。」

 ミコトは弓を振り絞り、鹿を噛んだオオカミに矢を放った。すると放った矢は光となって霞を裂き、勢いのままオオカミを貫く。貫かれたオオカミは、その影の身体を霧消させた。ミコトは閃いて、近場の葦を太刀で薙ぎ、オオカミ共に矢を浴びせ掛けた。そこからは、脚を引きずる鹿を伴って、走っては射ち走っては射ちを霞が晴れるまで繰り返した。

「どうやら一段落ついたようじゃな、どれ、噛まれた脚を見せてみよ。」

 辺りが晴れて明るくなり、近くに動く気配がないのを確認し、ミコトは伴ってきた鹿の傷を見ようと振り返った。しかし、そこに鹿はおらず影も形も見当たらない。

「どうした、何処へ行った? 隠れておるのか?」

 呼び掛けても返事はない。確かにここまで伴ってきたはずとミコトは訝しみ、矢張りアレは妖の類いだったかと不安に思い始めたとき、近くでピーッと鳴き声がした様な気がした。用心する様にミコトが太刀に手をやると、柄には見馴れた翡翠の勾玉が下がっていた。

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