第二部 人々の選択

第1話 Nightmare

 街は静寂を取り戻していた。数日前までの騒がしさは、どこにもない。

 パトカー、救急車、消防車などの緊急車両が鳴らすサイレンはどこからも聞こえてこなくなっていた。少し前までは聞き飽きるほどに鳴っていたのに。

 緊急防災無線すらも、いまは沈黙を守っている。


 この数日で世界は一変した。


 人々は未知なるウイルスに侵され、人が人を襲いはじめた。

 その襲い方は、人が人であることを忘れてしまったかのような、獣じみたものだった。


 ウイルスに侵されていない人々は、自衛のために建物の中に閉じこもった。


 電気、ガス、水道といったライフラインは政府が数年前にはじめたAI運用によって、人の手を介さずに自動運用されるようになっていた。そのおかげでウイルス感染者たちに街が占拠されていても、ライフラインが止まることはなかった。


 しかし、物流は停止していた。食糧難。これがいま一番の危機だった。いまのところは備蓄されている食料で飢えずに済んでいるが、この状態がいつまでも続けば、食料は尽きてしまう。


 ウイルスに侵されていない人の一部は、食料を手に入れるためにスーパーマーケットやショッピングモールへ向かった。しかし、そこは感染者たちの巣窟だった。もともと人が大勢集まる場所には、感染者たちも多く集まってきていた。そこでまた感染者は増え、非感染者の数は日に日に減ってきている。


 数日前まではテレビをつければ、緊急報道番組が放送されており、各局でヘルメットをかぶったアナウンサーが各地の現在の様子などを伝えていたが、一昨日あたりからそのような番組も放送されなくなり、いまは定点カメラの映像が垂れ流しされている状態だった。



 日本政府は三日前に国家非常事態宣言を発表した。

 内閣総理大臣である三島慎一郎は緊張した面持ちで会見に臨み、不要な外出をしないように国民へ呼びかけた。

 これがテレビで総理大臣の姿を見た最後の映像だった。



 テレビ各局が放送を定点カメラに切り替えてからは、インターネットで動画サイトを閲覧するのが主流となった。

 色々な場所で、色々な人たちが現在の様子を実況している。

 バカな動画配信者などは、生放送で感染者が多く集まっているショッピングモールに乗り込んでいき、結局自分も感染者となってしまった者もいた。

 次第に動画配信放送でも、配信者たちの悲惨な叫びや現状を打開することの出来ない政府に対する批判ばかりが目立つようになっていき、もうどうにもできない状況にあるという現実を嫌でも思い知らされるようになってきていた。


 私たち非感染者はどうすれば生き延びることが出来るのだろうか。

 政府は当てにならない。自分たちでどうにかして身を守るしかないのだ。



 東雲しののめケイゴはそこでキーボードを打つ手を止めた。

 玄関のインターフォンが鳴る音が聞こえたからだ。


 ここはタワーマンションの32階である。

 1階のエントランスに入るにはオートロックの扉を抜けなければならないし、エレベーターを使うにも住民専用のカードキーか、ゲスト用のワンタイムパスワードが必要だった。


 感染者がこの階まで来たということは想像しがたかった。

 それに感染者であれば、インターフォンなどは押さないであろう。


 だとすると、一体誰であろうか。


 ケイゴは玄関前のカメラを稼働させるとモニターで廊下の様子を見ることにした。


 廊下にはひとりの女が立っていた。

 カメラが稼働したことに気が付いたらしく、こちらに手を振っている。


 知らない女だった。だが、このカメラの稼働に気づくとするならば、この女もマンションの住民なのだろう。


「何のようですか」

 ケイゴはインターフォンのマイクを使って、外にいる女に話しかけた。


「すいません、わたし29階の住人で岸田と申します。あの、もしよければ食料を分けてもらえないかと……」

 申し訳なさそうに話す彼女にケイゴは同情を覚えた。


 しかし、簡単に部屋のドアを開ける気にもなれなかった。

 それに食料をわけてほしいという要望も、聞く気にはなれない。

 食料は次にいつ手に入るかわからないものだ。

 もしかしたら、いまある分で最後になってしまうかもしれない。


「申し訳ないが……」

 そこまで言った時、女の悲鳴が聞こえた。


「いやあ、来ないで。なんで、なんでここにいるのよ」

 カメラの映像には後ずさりしていく女の姿だけが映っている。

 一体なにが起きたというのだろうか。


 女の姿がカメラから消える。


 しばらくすると、太った男の姿が映し出される。

 ランニングシャツにトランクスといった姿の男は、右手に包丁を握りしめていた。


「このくそ女がっ! 俺の大事な食料を返しやがれっ!」

 男の大声がインターフォンを介さずにも聞こえてくる。


 男は女が消えていった方向へと突進していく。


 嫌なものを見てしまった。

 ケイゴはそんなことを思いながらインターフォンのスイッチを切った。


 おそらく、あの岸田と名乗った女は食料を求めて色々な部屋を訪ねて行ったのだろう。

 そこであの太った男と出会った。


 女は男から食料を譲り受けた。

 ただ、何かしらの条件を言い渡されたに違いない。

 たとえば、性に関する要望だ。

 こんな状況にあっても男と女である。

 そのへんは変わらないだろう。


 女は男の要望に応えると約束し、食料を手に入れた。


 しかし、食料を手に入れた途端、女は豹変した。

 きっと男の要望を無視して、約束を破ったのだろう。


 女は男のもとから食料だけを奪い、逃げ出した。

 そんなことを繰り返して食料を手に入れてきたのだろう。


 そして、この部屋にもやってきた。

 

 しかし、男に見つかってしまった。

 男は女を殺すつもりだ。その証拠に手には包丁が握られていた。


 結局は、感染者よりも人間同士の方が恐ろしいのかもしれない。

 すべては、想像に過ぎないが。


 ケイゴは疲れを感じ、部屋のソファーに寝そべった。

 目を閉じて、この先のことを考える。


 しばらくすると、いつの間にか眠ってしまっていた。

 すべてが夢だったらいいのにという願いと共に。

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