第7話 Rush hour Train(3)

 誰かが知らせたのか、制服姿の警備員数名が西郷の乗っていた車両に向かって走っていく。


 そういえば、あの親父と女子高生はどこへ行ったのだろうか。

 辺りを見回すと、西郷から少し離れた場所にいた。

 あの二人も乗客たちの波に流されるようにして車両から出てきてしまったのだ。

 警備員たちはそのことに気がついていないらしく、乗客がほとんどいなくなった車両の中を覗き込んでいる。


 顔面を齧られた親父は、ベンチのところでうつ伏せに倒れている。

 女子高生の方は虚ろな目をして無表情のまま、ホームをふらふらと歩いている。


 周りを歩いている人たちは、あの異様な女子高生の姿に気がつかないのだろうか。

 そう思っていた瞬間、女子高生とすれ違おうとしたOL風の若い女が襲われた。


 両手を突き出すようにしていた女子高生はOLの両肩をしっかりと掴むと、まるで頭突きでも食らわすかのように顔を一気に近づける。

 今度は首だった。

 犬同士の喧嘩で強い方が相手の首に噛み付くように、女子高生がOLの首にがぶりと噛みついた。

 噛みつかれたOLは悲鳴を上げることもなく、顔面蒼白となり、そのまま気を失って倒れてしまった。


 二人の姿はホームを行き来する人ごみの中に消えてしまう。


 どうなったのだろうかと気になり、西郷は人ごみを掻き分けて二人へと近づいていく。

 好奇心が押さえられなかったのだ。

 それが間違いだった。


 二人に近づいていく途中で、流れに逆らって歩いてきた中年の男と肩がぶつかった。


 西郷はよろめき、その中年男のことを睨みつけたが、途端に顔から血が引いた。


 その中年男の顔はどす黒い血にまみれており、下唇と鼻が半分ほどなくなっていた。

 先ほど、女子高生に噛み付かれていたあの中年親父なのだ。


「だ、大丈夫ですか。誰か呼びましょうか」

 西郷は思わず中年親父に声を掛けてしまった。

 そして、西郷は気安く声を掛けてしまった自分を呪った。


 西郷が声を掛けた瞬間、いままで無表情だった中年親父が目を見開き、口を大きく開けて襲い掛かってきたのである。


 西郷は持っていた革製のビジネス鞄を振り回した。

 咄嗟の判断だった。

 周りを歩いていた別の人に鞄がぶつかる。

 そして、中年親父にも。


 中年親父の横っ面に鞄の角がクリーンヒットした。

 確かに手に感触が伝わってきたのだ。

 何ともいえない、感触が。


 まるで家に出たゴキブリを新聞紙で叩いた時のような気分だった。

 きちんと叩けただろうか、息の根を止められただろうか。

 この新聞紙を退かした時に、まだゴキブリは生きていて、こちらにむかって飛び掛ってきたらどうしようか。

 そう思うと、新聞紙をなかなかどかせない。


 そう、いま自分の手にある感覚はそんな感じだ。


 振り回した鞄は中年親父の顔面に当たったはずだ。

 それで、どうなった。

 激高してはいないだろうか。

 さっきよりも恐ろしい形相で襲い掛かってくるのではないだろうか。

 そんな不安が西郷の脳裏を過ぎる。


 横っ面に西郷の鞄を喰らった中年親父は目を反転させたまま、その場に立っていた。

 微動だにしない。

 立ったまま死んでしまったのではないだろうか。

 西郷はそんな不安に襲われた。


 しかし、動かなかったのはたった五秒間のことだった。

 心配をしていた西郷の思いとは裏腹に、中年親父は白目を剥いたまま再び動き始めた。


 ゾンビ。そう、それはまるで映画で見たことのあるゾンビだった。

 そうだ、この中年親父はゾンビに違いない。

 いや、でも待てよ。

 ゾンビっていうのは実在しないモンスターじゃないか。

 そもそもはブードゥー教に伝わるものだが、映画なんかに出てくるゾンビとはまったく違う。

 映画に出てくるゾンビはジョージ・A・ロメロが創作したモンスターだ(現代におけるゾンビというモンスターは、ジョージ・A・ロメロが映画内で誕生させたモンスターである。原因不明のウイルスなどに感染し死亡した人間が数時間後に甦り、生きている者を襲う。襲われ、噛みつかれた人間はそのウイルスに感染し、噛みついたモンスターと同様の状態に陥るというもの)。

 そんなモンスターが実在するわけがない。

 あれが実在するのは映画やゲームの世界だけだ。


 現実を見ろ、現実を。

 西郷は自分にいい聞かせながら、中年親父へと目を向けた。


 中年親父は、西郷の鞄の一撃で方向感覚を失ったらしく、西郷とは別のサラリーマンに突然襲い掛かっていった。

 後ろから覆いかぶさるように抱きつき、うなじの辺りに歯を立てる。


 もし、本当にこの親父がゾンビならば、いま襲われた人間は感染し、ゾンビになってしまうだろう。そうなれば、次から次へと感染者が増えていく。

 この駅のホームだけでもゾンビだらけになってしまうはずだ。

 この親父が映画と同じゾンビであるとするならばの話だが。


 最初は女子高生。

 次は中年親父。

 いや、その前に電車の中で若い女の悲鳴に似た声を聞いたはずだ。

 もう一人、襲われた人間がどこかにいる。


 西郷は辺りを見回した。

 若い女。血塗れの若い女。

 どこだ、どこにいる。


 見つけた。

 自動販売機の陰だ。

 どす黒い血を口から吐き出している若い女。

 まるで泥酔しているかのように前屈みになりながら、ゲエゲエとやっている。吐瀉物はどす黒い液体だが。

 ミニスカートにハイヒール。若い娘たちの間で流行っている体のラインがよくわかるぴったりとしたブランドのTシャツを着ているが、そのTシャツは口から吐き出されている液体でどす黒く染まっている。


 何が起きているのかよくわかっていない駅員が、その若い女に話しかけているが、若い女は虚ろな目をして無表情のままである。


 どこで相手を襲うスイッチが入るのだろうか。

 西郷は遠巻きにその若い女の事を見ながら考えていた。


 先ほどの中年親父も急にスイッチが入った。

 あの時は、自分が話しかけてしまったからスイッチが入ってしまったのだと思っていたが、若い女の方を見ている分にはそうではないようだ。先ほどからしきりに駅員が若い女に話しかけているが、女はなにの反応も見せてはいない。


「痛い。やめろ、こいつ」

 また違う方向から声が聞こえてきた。


 もしかして、また感染者が増えたのか。

 このままだと自分も感染者になりかねない。


 西郷はすぐにでもこの場を離れるべきだと判断して、改札口へと向かうエスカレーターへと飛び乗った。

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