第119話 Sleeping Murder 1

【魔鏡】が、一旦、暗くなり、新たな映像を映し出した。最後の付箋のついた麻生の記憶だ。それは、顔を真っ赤にして誰かに向かって叫んでいる高村愛の姿から始まった。


「放っておいて下さい。あたしの生き方は、先輩たちには何の関係もないじゃないですか」


麻生の視界にいたのは、高村愛の記憶にあった姿よりも、大人になった小野鷹邑卿と速水凪子姫だった。


「愛さん、そんな関係ないなんて言わないで。貴方は私の妹なのよ」

「今までお互い何も知らなかったのに、今更です。あたしには、貴族の姉なんか要りません」


凪子の差し伸べようとする腕を乱暴に振り払う愛の力が強く、驚いた凪子がよろめいた。鷹邑が慌てて支える。


「凪子、愛ちゃん、二人とも気を付けて。愛ちゃん、何でそこまで貴族を嫌うのかな?」

「あたしを皆で寄ってたかって馬鹿にするからです。たまたま貴族の家に生まれただけで、偉いと思っているバカばっかり」


愛が吐き捨てるように言うと、鷹邑が大笑いした。


「それは嫌われても仕方がないなぁ。確かに帝都貴族が馬鹿ばっかりなのは否めないよ。ね、凪子?」


腹を立てて言い返してくるかと思ったら、大笑いをする小野鷹邑に毒気を抜かれたのか、高村愛が立ち止まって鷹邑を見つめた。


「はい、それは、その、そうかもしれません。でも、愛さん、私たちは馬鹿ですけれど、貴方を馬鹿にしたことは一度もありませんわ」


一瞬、顔を赤らめ、それでも愛を説得しようとする凪子に、愛が苛々したように言い返した。


「それよ、そのあんたの態度が、我慢ならないっての。ほんとは、自分が馬鹿なんて、全然認めてないくせに。あんた、いっつもお高くとまって、人を見下したように喋るじゃない」

「そんなつもりはありませんわ」

「あるわよ。あたしの仕事を馬鹿にして止めろって言ってるじゃない。何様のつもり?」


愛が腕を組んで、仁王立ちになって凪子に言うと、鷹邑が学生時代から変わることのない飄々とした口調で言った。


「何様かというと、お姉様でしょ。馬鹿にしているのではなくて、心配しているんだよ。お姉様が妹のことを心配するのは普通だと思うけどね」

「あたしは、この人を姉とは思ってません」

「うん、でも凪子は愛ちゃんのことを妹と思ってるよ」


相手が鷹邑では、ゆるりゆるりと躱されて勝ち目がありそうもない。


「迷惑です。あたしは、もう大人ですよ。どんな仕事をしようが、あたしの勝手じゃないですか」

「うん、そうだね。でもね、愛ちゃんの仕事は、犯罪に巻き込まれやすいという事実がある。そこが心配なんだよ。勤務時間ひとつ取っても、深夜に若い女性が帰宅するのは、安全とは言い切れないよね」

「あたしには、店が行き帰りに運転手を用意してくれてるから大丈夫です」

「そっか。なら、ちょっとだけ安心かな。でも、ほら、夜、遅くまで起きて、煙草を吸って、お酒ばっかり飲んでいると、お肌に悪そうだから、早く老けちゃうよね」

「ふ、老けるって、それこそ、大きなお世話です!」


何が面白いのか、鷹邑がニコニコしながら、愛に爆弾を投下した。


「愛ちゃん、ここ、シミが出来てるよ」

「ええっ!」


愛がぎょっとして、鷹邑に指をさされた右の目じりを急いでコンパクトでチェックした。


「これはアイメイクが滲んでいるだけです。シミなんかじゃありません!」

「鷹邑、女性に対して失礼が過ぎますわ!」


二人の女性に同時に叱責されて、鷹邑が両手を挙げて降参というように謝罪した。


「小野先輩、そういうところ、学生時代から、ほんっと変わってないですよね」

「そうかな。じゃあ、昔馴染みのお願い、一つだけでいいからきいてよ。何か怖いことや困ったことがあったら、すぐに連絡をしてくれるかな。愛ちゃんが今の仕事が好きで続けたいなら、凪子も僕も、もう何も言わない。でも、今の仕事は、犯罪の温床に近いところにあるよね」


言い返そうとする愛に、すっと鷹邑が手をあげて制した。


「愛ちゃんの勤めるお店がそうだと決めつけているんじゃないよ。でも、何があるか、分からないよね。何もなければそれでいい。ただ、何かあれば、いつでも連絡を欲しい。覚えていてほしいのは、それだけ」


そう言って、鷹邑が自分の名刺を愛の手に握らせた。


「でも、鷹邑」


凪子が縋るような目を鷹邑に向けたが、鷹邑は彼女の背を、宥めるように軽くぽんぽんと叩いて首を横に振った。


「愛ちゃんは君の妹だけど、もう大人の女性だからね」

「そうですけど」


凪子が声を落として、俯いてしまった。


「でも、愛さん、私達に何かできることがあれば、いつでもうちにいらして下さい。本当に、いつでも」


ついに凪子も諦めたのか、愛に見事な淑女の礼をした。そして、鷹邑とその場を静かに去った。愛の大嫌いな、あの忌々しい挨拶を残して。

「愛さん、ごきげんよう」


寄り添うように歩いて行く二人の後ろ姿を見ていると、怒りで全身が、かっと熱くなる。


「何がごきげんよう、よ。機嫌なんかいいわけないっての」


そう言いながら、もう一度、ハンドバッグからコンパクトを取り出して目じりをチェックした。そして、まだ手の中にある鷹邑の名刺に気がついた。


「曙光帝国外務省、総合外交政策局、課長補佐、小野鷹邑か。ほんとに遠い世界の人になっちゃったんだ、先輩」


そう言いながら名刺を破り捨てようとしたが、裏に手書きで書かれた携帯番号と笑顔の絵文字に気がついた。番号は、鷹邑の個人の携帯番号らしい。怖いことや困ったことがあれば、連絡をしていいと鷹邑は言った。


「梶原のこと、あれ、先輩に相談してもいいのかな」


先日、原田という若い刑事に連れていかれた警察署で、梶原の変わり果てた姿を見てしまった。深瀬部長刑事が、寸前で止めてくれたのに、短気を起こして、シーツを捲って錯乱状態に陥った。今でも一人でいると思い出して、鳥肌が立って吐き気がしてしまうほどだ。ちゃんと眠れないせいか、疲れがたまって、毎日苛々しているからか、店のキャバ嬢たちと揉めてばかりだ。


「そりゃ、シミもできるわよ」


そう自嘲気味に言いながら、もう一度コンパクトで目じりをチェックしていると、鏡の中の愛の後ろに黒い影が映っていた。


「ひっ、あ、あんたは・・・」


検非違使の麻生だ。麻生の纏う濃厚なムスクのオーデコロンが愛の周りに漂った。


「汚い蛾が、蝶の周りで何をしているんです?速水伯爵家には関わるなと言いましたよね」


最後に姿を見たのは、二年近く前だったが、あの時と全く変わらない姿の麻生に、当時の恐怖が甦った。


「ち、違います。あたしは関わろうとしてません。あの女が勝手に訪ねて来たんです」

「口の利き方に気をつけなさい。速水伯爵家を継ぐ、高貴な姫をあの女とは何です。貴女の母親ですが、凪子姫が伯爵家の家紋を刺繍したハンカチを持って、伯爵に金の無心に来たそうですよ。貴女が盗んだんですか」

「ハンカチ・・・ち、違います。あれは、転んだ私に、あの、あの凪子姫がハンカチをくれたんです。それは公達学園時代の、もう何年も前の昔のことです」


愛が、恐怖に失神しそうになりながらも、必死で麻生に訴える。


「まったく、薄汚い蛾は、礼儀を知りませんね。本人の許可なく、庶民の移民の子が、凪子姫のお名前を口にするとは失礼な。速水の大姫とお呼びしなさい」


普段の愛なら、こんな選民意識に凝り固まった貴族には、絶対に言い返すが、何故か麻生を前にすると、体の芯から震えが止まらなくなる。両足がガクガクして、身動きが取れず、呼吸でさえも苦しくなってくるのだ。まるで、罠にかかったかのように、体の自由が奪われるような感覚になる。そう、蜘蛛の巣に引っかかった獲物が為す術をなくし、死を覚悟するしかないような絶望に襲われるのだ。


麻生は、まるで蜘蛛のようだ。そう思ったとたん、愛の中の何かがぶるりと震えた。

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