有村親子の物語

第10話 息子と愛犬と部下

 病に伏せた妻が旅立ってから十日が経った。息子は気丈に振舞ってはいるのだが、一人になると涙を越えらえきれずに泣いているのを知っている。

 私もいまだに妻がいない生活に慣れることは無いのだが、これ以上仕事に穴を開けるわけにもいかないので日中は気持ちを入れ替えなくてはならない。私も息子に気付かれないように夜は妻の写真を見ながら泣いているのだ。

 妻も入院生活が長くなってしまったという事もあって、愛犬のミクは妻がもうこの世にいないという事に気付いていないのかもしれないのだが、何も教えていないのに仏壇の遺影を眺めている姿を時々見かけることがあるので、案外ミクは妻が亡くなったという事を悟っているのかもしれないな。

 息子もミクと遊んでいる時は寂しさを忘れられているようで、妻が亡くなる前と変わらずに楽しそうにしているのだ。ミクもそんな息子の気持ちを理解してなのか、以前よりも息子との距離が近くなってそばから離れないようにしている。私はそんな二人の様子を天国の妻に報告しているのだ。

「お前がいなくても私達は元気にやっているよ」

 毎日そう心の中で念じていたのだ。


「課長のところも息子さんは来年高校受験でしたよね?」

「そうだよ。まだ志望校をどこにするのか聞いてないんだけど、どこでもいいので受かればいいなって思ってるよ」

「良いところに入れるといいですよね。俺の甥っ子も課長の息子さんと同い年なんですけど、結構な問題児で入れる高校あるのかなって心配してるんですよ。姉が高校生の時に産んだ子なんですけど、父親ってのがまた悪いやつでして、檻の中に入ったまましばらく出てきてないんですよね。俺の両親はそんな奴と離婚しろって言ってるんですけど、姉は離婚するつもりはないらしくていっつも喧嘩してるんですよね。俺の両親は比較的仲も良いんで結婚も良いもんなのかなって思ってたんですけど、姉を見てると相手に寄るんだなって思っちゃいましたよ。でも、課長のとこって、お葬式の時に見ただけですけど親戚の方もみんないい人そうでしたよね。課長のとこみたいな家庭だと息子さんも真っすぐに育っていきそうですね」

「そうだといいんだけどね。竹島君のところは大変そうだね」

「大変と言えば大変なんですけどね。俺も両親も自分の家の中なのに部屋に鍵を付けてますもん。姉ちゃんも昔は優しかったんですけどね、今じゃ完全に腫れ物扱いですよ」

 どこの家庭も大なり小なり問題を抱えているもんなんだな。真面目な竹島君の家庭にそんな問題があるとは思わなかったな。

「課長って、息子さんのために夜勤減らすんですよね?」

「そうだよ。今までは妻の治療費のためにも夜勤を多くしてもらっていたんだけど、社長とも話し合って夜勤はなるべく減らしてもらう事になったんだ。君達には負担をかけるかもしれないけれど、よろしく頼むよ」

「その事なんですけど、俺の夜勤を増やしてもらえるようにお願い出来ないですかね。ほら、夜勤の方が手当ても付くし今のうちにたくさん稼いでおきたいんですよ。姉ちゃんの旦那が出てきたときに何かあったら両親を避難させることになると思うんですけど、その時にはお金があった方が良いと思いまして、どうでしょうか?」

「進んでやってくれるんだったら問題無いと思うよ。他に希望者がいれば話は別だと思うけど、希望者がいなければ竹島君の希望は通ると思うね。夜勤をやってくれる人もあんまりいないので会社としても助かると思うし、私からも社長に伝えておくからね」

「ありがとうございます。そう言えば、課長の奥さんって実家がお金持ちだったりするんですか?」

「ん、どうしてそう思うのかな?」

「いや、お通夜に行った時に駐車場に高級車がたくさんとまってたんで気になったんですよ。俺は車も好きでいつかあんな車に乗ってみたいなって思ってるんですよね。姉ちゃんが離婚してくれたら何かあった時用の貯金を使って車を買おうかなって思ってるんですよ」

「確かに高級車はたくさんとまってたかもな。でも、それに乗っていたのは妻の友人だと思うよ。妻の親族は遠方の方が多かったんで駅からバスで送迎させてもらってたからね」

「へえ、そうだったんですか。でも、奥さんの友達も若いのに凄いですよね。俺も頑張ろうって気になりましたよ。課長は息子さんのために頑張ろうって思ってるかもしれないですけど、無理しちゃダメですからね」

 竹島君は昔から空気が読めない男だとは思っていた。私の上司は私に気遣って話しかけてくれたりもするのだが、部下たちは妻を亡くした私に気を遣ってなのか話すきっかけがつかめないのか話しかけてくるものはいなかった。お茶菓子をくれる子はいたのだが、それ以上に何かを離してくることは無かったのだ。

 そんな中、竹島君は私を元気付けようとしてくれていたのか積極的に話しかけてくるようになっていた。私は部署内でも珍しいお弁当組だったのだが、私が復帰してからは竹島君も弁当組になっていて、昼休みは私の近くで過ごすことが多くなっていた。

 そんな日が何日も続くと竹島君以外にも私の近くでお弁当を食べる物が増えていき、以前よりも部下との距離が近くなっていったような気がしていた。その証拠に、以前では休憩時間に部下から話しかけられることは仕事の相談事のみであったのに対し、今では普通に雑談も交えて会話をする機会が増えていた。日常会話から相手の事を知る場面も多くなっていって、各々の得意な事や苦手な事が少しずつ共有できるようになっていき、一年も経つ頃には部署内で設定した目標を達成するまでになっていた。

「こんな言い方をしたら失礼かもしれないですけど、課長って奥さんが亡くなってから厳しさだけじゃなくなりましたよね。今でも鬼みたいに怖い時はありますけど、それも俺らのためを思って言ってくれてるんだってわかりましたからね」

「そうかな。私は何も変わってるつもりはないんだけどね。それに、私が変わったんだとしたのなら、竹島君が私に積極的に話しかけてくれたからじゃないかな。今ではみんなと昼食をとるのが当たり前みたいになっているけど、君がいなければ私は今でも一人で昼食をとっていたと思うからね。君が夜勤の責任者になってあんまり一緒にお昼をとれないのは残念だけど、君のお陰でみんなと一緒に食事をとることが出来ているよ」

「そんな事ないですって。それに、課長の推薦があったから俺も夜勤を頑張れたんですよ。責任者って言ったって、役職ついてるわけじゃないから他のみんなとあんまり変わらないですし。それと、みんなが課長と一緒にご飯食べるの楽しいって言ってましたよ。仕事では真面目で頑固っぽいのに意外とお茶目でお弁当も可愛いのを食べてるって聞きましたよ。課長がキャラ弁を食べてるって意外でしたけど、息子さんの為なんですか?」

「息子の為と言うか、キャラ弁は息子が作ってるんだよ。息子の中学は火曜日と木曜日がお弁当の日なんだが、その日は前の晩から息子がお弁当を作っているんだけど、亡くなった妻を喜ばせようとキャラ弁を作ってしまうんだよ。私の分は普通のが良いと言ってるんだけどね、息子はみんな同じものが食べたいって言ってきかないんだ。さすがに犬にも同じものを食べさせようとしたのは止めたけどね」

「へえ、息子さんは器用なんですね。そんだけ器用だったら勉強も出来るんじゃないですか?」

「今のところは問題無く勉強も出来ているみたいだよ。成績も優秀な方だと思うし、学級委員長もやってるみたいだからね」

「それじゃ、高校も結構いいとこ狙ってるんですか?」

「それがね、息子は枡花学園に通いたいって言ってるんだよ」

「枡花って、名門私立じゃないですか。勉強嫌いの俺でも知ってるくらい有名なとこじゃないですか。それに、俺の周りでは受験した人間もいないですよ。受けるだけでもすごいと思いますよ」

「そうなんだよね。息子がどうしてもそこしか受けたくないって言っててさ、色々と大変だと思うけど息子の立てた目標だし、親子で協力して頑張らないとね」

「親子でって事は、課長も夜勤増やしちゃうんですか?」

「さすがにそれは無いかな。申し訳ないとは思うけど、夜勤は竹島君たちにお願いすると思うよ。息子が勉強に集中できる環境作りとか、塾とか家庭教師とか私に出来ることをやってあげようと思うんだよ」

「でも、学費とか寮生活になったらその辺は結構かかっちゃうんじゃないですか?」

「まあ、その辺は何とかなると思うよ。色々と頑張ってきた事もあるからね」

「金銭面の負担が無いってのは良いことですよ。課長が倒れたら息子さんも前より悲しんじゃうと思いますからね。頑張りすぎて無理しちゃダメですからね」

「無理しないで頑張ることにするよ。竹島君には負担をかけるかもしれないけど、君も無理しちゃダメだからね」

「大丈夫っス。俺は学生時代に野球で鍛えた体がありますから」

「そう言えば、君のところの甥っ子君は進路決まってるのかな?」

「さあ、どうなんですかね。今年の春に姉ちゃんと一緒に出てったんでわかんないっスよ。姉ちゃんの旦那が来年出所するみたいなんで、俺は両親を連れて引っ越そうかと思ってるんですけど、出来れば転勤したいなって思ってたりもするんですよね。万が一ここに姉ちゃんたちがやってきたら面倒なことになっちゃうと思うんで、それを避けたいってのもあるんですけどね」

「そうなのか。君のところも相変わらず大変そうだね。転勤と言えば、来年の春から北海道の新工場が稼働するみたいなんだけど、君が希望するなら異動願を出してみたらどうかな。ここ一年間の君の働きを見ていると君を失うのはもったいないけれど、竹島君なら異動と同時に昇進もあり得るんじゃないかな。それに、北海道の新工場の工場長になる予定の男は草野球のチームを作りたいって言ってたような気がするよ」

「マジですか。草野球は魅力的ですね。俺は今友達のチームに入ってるんですけど、どうせやるなら自分の会社のチームが良いなって思ってたんですよ。でも、北海道って冬寒そうですよね。俺はよくても両親が平気か心配ですよ」

「単身寮の他に家族用の社宅もあるみたいだよ。詳しい話は私よりも人事部に聞いた方が良いと思うけど、興味があるなら私からも伝えておくよ」

「そうですね。さすがに北海道となると両親に相談しないといけないって思うんですけど、たぶん大丈夫だと思います。夜勤を増やしてもらった時もそうですけど、俺って課長に頼ってばかりですよね。ホントすいません」

「そんなのは気にしなくていいさ。私も妻を亡くしてすぐの時に君の明るさに助けられたからね。お互い様だよ」

 私は妻を失ってから毎日が灰色の日々を送っていた。寝て起きて時々食事をとり仕事をするだけの生活であった。そんな灰色の日常から私を救い出してくれたのは家で飼っている犬のミクと竹島君なのだ。二人とも妻を失って落ち込んでいる私を励ましてくれたのだ。家ではミクが私を元気付けてくれていて、会社では竹島君を中心とするみんなが私を元気にしてくれたのだ。

 他のみんなにも感謝はしているのだが、特に立ち直るきっかけを作ってくれた竹島君にはいくら感謝をしてもしきれないと思う。竹島君が言ったコンビニ弁当よりも晩御飯の残りとかを詰めた方が美味しいという言葉が無ければ料理をちゃんとしようと思わなかっただろうし、それが無ければ今のように息子がお弁当を作ってくれることも無かったと思う。

 今日は妻の月命日でもあるし、妻が好きだったケーキでも買って帰ろうかな。


「パパさんお帰りなさい。拓海が今日はママさんの好きだったシチューを作ってるよ。あ、パパさんはママさんの好きだったケーキを買ってきたのかな。ねえ、私が食べてもいいやつも買ってきたの?」

「ああ、ミクが食べられるやつも買ってきたよ。家族だから当然だよね。さすがにシチューは食べられないと思うけどね」

「私のご飯はいつものやつで良いから。だって、ママさんと一緒に食べる時も私はいつものやつだったもん」

 小柄だった妻とは違い、大型犬だったミクが人間になると大人の私でも少しだけ見上げるくらい大きくなっていた。息子の拓海は成長期であるからあっという間に私の背を越してしまったのだが、その拓海よりもミクは少しだけ身長が高いのだ。

 体の大きさに比例してミクの優しさも大きいのだが、その優しさの中にどこか妻の面影を感じてしまっていた。口にこそ出すことは無いのだけれど、拓海もそう思っているのだろう。体の大きさも元気さも妻とは全く別の生き物としか思えないようなミクではあったが、私も拓海もミクの中に妻がいるのではと感じているのであった。

 三人並んで妻の仏壇に手を合わせてから食事をとるのだが、シチューを一口食べた瞬間に懐かしい味が私の体を駆け巡っていた。妻が亡くなってから何度かシチューを作ったことはあったのだけれど、この味にたどり着くことは一度も無かったのだ。それなのに、拓海は妻の作っていたシチューを再現していたのだった。

「その感じだと父さんも気付いたでしょ。このシチュー」

「ああ、母さんの味だな。いったいどうやって再現したんだ?」

「それはね、母さんの残してくれたレシピ帳をミクが発見してくれたからだよ。ミクのお陰で母さんの料理を再現できるようになったんだ。でも、まだまだ母さんみたいに上手には作れないけどさ」

「何言ってるんだ。これは凄い美味しいよ。拓海も頑張ったみたいだけど、ミクも良く見つけてくれたな。二人とも偉いぞ」

「えへへ、私もママさんの作ってた料理の匂いは嗅いでたからね。食べたことは無いけど、いい匂いだなっていつも思ってたんだ。拓海の作った料理はママさんのに似てるけど、ママさんの方がいい匂いだったような気がするよ」

「それは仕方ないよ。母さんの料理は美味かったからね。それに、俺はこれからあんまり料理する時間無さそうだし、レシピ帳は全部見たからこれは父さんに渡しとくよ。だから、これからの料理は期待してるね」

「出来るだけ頑張ることにするよ。母さんみたいに上手には作れないと思うけどな」

 妻はもうこの世にはいないのだけれど、妻が残してくれたたくさんの思い出と宝物はいつまでも色あせることは無いだろう。

 拓海もミクも私も、いつまでも妻の残してくれた宝物を大切に胸に刻んで過ごしていくのだ。この平和な日常がいつまでも続いていくものだと信じて疑うことは無かったのだ。


 拓海が誘拐されるとは、この時誰も思ってもみなかったのだ。

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