3月14日(火)ホワイトデー
3月14日、ホワイトデーだ。
正直なところ、少し緊張している。
今までろくなバレンタインデーを過ごしてこなかった俺だが、今年は珍しく僥倖に恵まれ、三つもチョコを頂戴してしまったから、お返しも三つしなければならない。
いや、これは決して量が負担とかそういう意味じゃなくて、三回も女の子に面と向かってホワイトデーのお菓子を渡すのが、なんというか照れくさいやらこっ恥ずかしいやら嬉しいやら……まぁ、イヤじゃないんだけども、これは『ホワイトデー童貞』の俺にとってはなかなかのプレッシャーだった。
朝っぱらからスギ花粉が盛大に舞う春の早朝、俺には似つかわしくない綺麗にラッピングされたお菓子をカバンに忍ばせた俺は緊張の面持ちで校門をくぐった。いよいよ、ホワイトデー開幕だ。
下駄箱で靴を履き替えている間に、ふと気づいたことがある。
あれ、ホワイトデーってどうすればいいんだ……?
どうやってどのようにどこでお菓子を渡せばいいんだっけ……?
漠然と『用意したお菓子を渡す』ということまでは決まっているが、具体的なところは何一つ考えていなかった。初めてのホワイトデーのプレッシャーにばかり気を取られ、肝心のことをすっかり失念してしまっていた。
どうする? トキさんとウンノには教室で渡すか? よし、脳内シミュレートしよう。まず教室に入るとトキさんとウンノがいる。マツザキくんはにこやかで爽やかないつものスマイルを浮かべて二人のところへ行き、さりげなくカバンから取り出したお菓子を手を渡す……うん、これでいいんじゃないか? 完璧じゃね? この完璧な作戦に二人は喜び、俺も満足、そしてそれを見ていたクラスの連中も祝福の拍手を……ん? これ、教室内という公衆の面前でやるの……?
「あ、アカン!」
思わず声に出た。
稀代のモテ男でもない限り、そんな大胆不敵な真似は絶対にできない。相手にも迷惑がかかりかねないし、特にトキさんなんかは恥ずかしさでぶっ倒れかねない。これは却下だ。
却下したところで次の案が浮かぶわけでもなかった。圧倒的に経験不足であり、準備不足だった。
できれば昨夜に時間を巻き戻してじっくり考えたいところだが、もちろんそんなファンタジーな能力を持っているはずもなく、こうしてバカな空想に逃避している間にも時は一定方向へ刻々と流れてゆく。
ええい、ままよ! なるようになるさ! レット・イット・ビーだ!
深く考えてドツボにハマるくらいなら、単純に行動したほうがマシだ。
というわけで、いざ教室へ!
ガラリ、と教室のドアを開けると、ガランとした教室に女の子だたった一人、ポツンと自分の席に座っていた。彼女と目が合うと、
「あ、マツザキくん、おはよう」
メガネの奥の大きな目を細めて、トキさんはニッコリと微笑んだ。
「おいっす、トキさん」
声が少しかすれた。多分緊張のせいだ。
登校して最初にエンカウントするのがまさかホワイトデーを渡すべき人物とは思わなかった。トキさんの可愛らしい微笑みに、にわかに緊張と照れが高まってきた。俺、こんな可愛い女の子からチョコ貰えたのか……今でもまだ信じられない気分だ。しかも教室には他に誰もおらず、二人っきりの空間で見つめ合ってるシチュエーション……ん、ということはつまり、今がベストタイミングなんじゃないか?
耳を澄ます。誰かが来る気配はない。なら、今のうちだ。
「トキさん!」
自分でも驚くくらい、馬鹿みたいにデカい声が出てしまった。
「は、はいぃ!?」
トキさんも驚いている。いや、むしろトキさんこそ驚いただろう。二人っきりの教室で、テンパった男子がいきなり人を大声で呼ぶのだから。
冷静にはなれなかったが、とにかく勢いだけはあった。俺はスマートなモテ男じゃない。だから乗るしかない、このビッグウェーブに。
俺はトキさんの前に早足でツカツカと歩み寄ると、カバンの中から用意しておいた例のブツを取り出し、
「これ、ホワイトデーの!」
我ながらあまりかっこいいとは思えない口上とともに、トキさんにお菓子を差し出した。
「えっ、私に……?」
トキさんの大きな瞳が一層大きく見開かれていた。
そんな大したものを差し出したつもりはなのに、トキさんはまるで婚約指輪をサプライズプレゼントされたみたいに驚いていた。
あまりにも大げさに驚くから、俺はひょっとしてなにかハズしたのかと、少し不安になった。
「ありがとう、とても、嬉しいです……」
続けて出てきたトキさんの言葉に、俺は内心でホッと一息ついた。どうやら喜んでくれていたらしい。俺としても喜んでくれて本当によかった。
トキさんは繊細な指を震わせながら俺のブツを受け取ると、大きな目から大きな粒がぽろりとこぼれ落ちた。
「あ、ごめんね、これは違うの、多分花粉症だから、ちょっとおトイレ行ってくるね……」
そう言って、トキさんはお菓子を小さな胸に大切そうに抱いたまま、顔を真赤にして教室を飛び出していた。
泣くほど嬉しく、照れるし恥ずかしくもあったんだろうなぁ……トキさんはやや大げさにせよ、俺とそう変わらない気持ちだったのが俺としても嬉しくて、その様子はとても微笑ましかった。
なにはともあれ、まず一つ達成した。残り二つもこの調子でうまくいくといいな……。
ウンノが登校してきたときには、残念ながら教室はクラスメイトたちで一杯だった。さすがに衆人環視の中で堂々と渡せるほど俺は強くない。また、そんな強さは別に欲しくもない。
既に一つ渡せたということもあって、登校直後まであったホワイトデー特有の緊張感も今では薄れていた。次のチャンスを虎視眈々とうかがうだけの余裕すらあった。
チャンスは昼休みにやってきた。ウンノからスマホに呼び出しがあり、俺が向かった先は、
「なんで体育倉庫?」
「シークレット感があっていいでしょ? ホワイトデーにふさわしくない?」
ウンノはいつものウンノらしい、艶やかで鋭い、それでいてキレイな微笑みを浮かべて言った。トキさんとはまるで違った性質の微笑みは体育倉庫という薄暗い場所柄もあってか、やけに扇情的だった。
しかし、体育倉庫がホワイトデーにふさわしいとは思わないし、シークレット感なるものも俺はほとんど感じない。なんせここは俺がウンノとニシオのアレを覗き見るハメになったところであり、逆にウンノは俺に見せつけた場所である。二人の間での公然のシークレットは、果たしてシークレットと言えるのかどうか……?
「ホワイトデー、持って来てるんでしょ? ちょうだい」
ウンノはしなやかな指を広げ、こっちに差し出した。
まるでお小遣いをねだる子供みたいだ。緊張感もムードもあったもんじゃない。
「……フツー催促するもんじゃないと思うけどな?」
とは言ったが、持ってきているんだからしょうがない、俺は言われるままに例のブツを渡した。
「ありがとーマツザキくん! で、これ、何?」
「開けてからのお楽しみってことで」
「アクセサリーとか、下着とか?」
「なわけないだろ。どこの高校生がそんなもん贈るんだ」
「マツザキくんの、今穿いてるんだけど?」
「……」
ときとして、ニヤニヤ笑いのウンノにかなわない。彼女のあまりにも大人びた独特のペースにせいぜい一般男子高校生の俺がかなうわけがなかった。それがウンノの魅力なのだが、俺にはあまりにも刺激的過ぎる。
「でも、ありがと、そーゆーところ、マツザキくんらしくて私、大好きだよ」
「よせやい、照れるぜ」
俺は冗談で返した。ウンノのそーゆー態度にはまともにぶつかるだけ損だ。
「あら、私が冗談でこーゆーこと言ってると思ってる?」
「思ってる」
「心外ね。私、本気でマツザキくんのこと好きなのに。証明だってできるよ? ここは薄暗いし、人目もないし、ね……?」
舌を出してウインクするウンノに、俺は思わず背を向けた。多分冗談なんだろうが、いくら何でも露骨に挑発的過ぎる。心がそそられるというよりも、こっちとしては呆れるしかない。
「お前、この間
「美味しいものって、何種類もあるから美味しいんだと思わない?」
「どーゆー意味だよ」
「美味しいものも、そればっかりだと飽きちゃうってこと……」
何か柔らかく軽いものが俺の後頭部に飛んできた。多分、ウンノが投げたのだろう。
別に痛くもかゆくもなかったが、
「いてーなー、何だよ急に――」
振り向き、後頭部にあたって地面に落ちたそれを手に取ると、それはこの学校の女子制服のスカートだった。
「……!?」
そして目の前には、薄暗い体育倉庫で、おそらく下半身だけ下着姿になっているウンノが、少し恥ずかしそうに、それでいてやっぱり挑戦的な目でこっちを見つめていた。
スカート未着用の女性の下腹部ほど、男の目を引くものはないと言っても過言ではない。特にそれが思春期真っ只中の男子高校生ならなおさらだ。俺の目は自然と斜め下へ向けられたが、彼女の下着姿の下腹部を拝むことはできなかった。体育倉庫の薄暗さに助けられたわけだ。
「大好きな人じゃないと、こんなことできないでしょ?」
「……」
「ねぇ、キて……」
手を差し出し、誘うウンノに、俺の頭はもうクラクラしていた。クラクラしすぎて、目眩と軽い気分の悪さすら感じていた。
多分、ウンノの誘惑は俺には刺激が強すぎたのだろう。興奮しすぎたせいかだんだん頭も痛くなってきたし、息も苦しい。
ウンノが視界の中で揺れ始めた、そのとき、
体育倉庫に着信音がけたたましく鳴り響いた。狭く暗い体育倉庫に乱響するデカい音に俺はビビり、ふと我にかえった。
こんな場面、誰かに見られたら大変なことになる! 特にニシオなんかに見られた日には……!
着信音は誰かを呼び寄せかねない。
ここは早々にこの場を離脱するのが吉だ。
「ウンノ、じゃ、また今度!」
ウンノにスカートを投げつけ、光の速さで体育倉庫を後にした。
逃亡後、冷静になってスマホを見ると、着信音は俺のスマホからで、発信者はタツミだった。着信は一回きりで、しばらく待っても再度かかってくる気配はなさそうだった。
「タツミ、助かったよ……」
健全な青少年にあるまじき間違いを犯さずに済んだことをタツミに感謝した。
そして本日最後のターゲットに助けられたことに、俺はそこはかとなく運命めいたものを感じた。
兎にも角にも、二つ目を無事に(?)渡すことができた。
あとは一人、残るはタツミだけだ。
しかし最後の一人の行方は杳としてしれなかった。
この決して広い学内で偶然すれ違うことも、遠目に見かけることもないのは逆に奇跡的なことだった。
そうこうしているうちに放課後になってしまった。タツミとは腐れ縁というか、目に見えぬ引力というか、なんとなく不思議と毎日顔を合わせているのだが、今日に限って出会えないとは思ってもみなかった。
たまたまそういう日があってもおかしくはないと思うし、それがたまたまホワイトデーだっただけのことだから、別に気にすることでもないはずなのだが、なんとなく釈然としなかった。
非常手段をとることにした。つまり、直接スマホで連絡を取ることにした。
それのどこが非常手段だと問われれば、まぁ、正直に言えば照れくさいのだが、
「タツミ? ホワイトデー渡したいから会えないか?」
こんなセリフを言うのがまぁ気恥ずかしいのだ。
今それを想像しただけで身悶えるほどに。
だって好き過ぎるって感じがしない? 別にしない? フツーのこと? そう言われればそうなのかもしれないが、俺としてはどうしてかやっぱり照れてしまう。タツミのことが好きじゃないかと問われれば好きだとしか言えないが、タツミ本人にそれが言えるかどうかは別問題だろ? つまりはそーゆーことだ。
だが、もうそんなことを言ってられない時間だ。もう覚悟を決める頃合いである。放課後が来てしまったのだから。
放課後のチャリ置き場、チャリにまたがりながら俺は意を決してスマホを取り出し、通話ボタンをタップした。できるだけ、さり気なく切り出そう、そう心に誓い、頭の中でイメトレしながら。
すると、
それはほど近く、チャリ置き場のスロープを下がった、植木の陰からだった。そこまで降りていって覗くと、
「やっほ」
植木の中で身を潜めるタツミと目が合った。
「何がやっほ、だ。こんなところで何してるんだ?」
「うーん、潜伏、かなぁ」
「なんのために?」
「……怒らない?」
「それは内容によるな」
「えーっとね、今日ってほら、3月14日じゃない? だから、ほら、つまりは、マツザキくんが、そのぅ、ホワイトデーのアレをね、誰にあげるのかなぁ、って気になったりしちゃったりしなかったりするわけでして……」
「簡略に言うと、俺が誰にホワイトデーを上げるのかストーキングしてたってわけか」
「ストーカー扱いはひどいよ! それじゃ私変態みたいじゃん!」
「ストーカーは立派な変態なんだよ」
こんなところで長々と話すのもどうか、ということで場所を変えた。春になってめっきり暖かくなり、また最近いきつけになった例の河川敷のベンチに移動した。ストーキングについて話し合うためにではなく、バレンタインデーをきっちりとお返しするために。
春の河川敷はとても気持ちがいい。花粉が凄いから、花粉症の人には最悪の場所かもしれないが、花粉症のない人には素晴らしいところだ。日差しは気持ちいいし、風はやわらかく暖かい。みずみずしい花と土の香りに舞う黄色い小さな蝶。どこをどう見ても春ばかり。
「マツザキくん、ごめんね……」
急にしおらしいトーンでタツミが謝りだしたので、俺はびっくりして彼女の方をみると、やっぱりタツミはしおらしくしていた。春には似合わない、いや、そもそもタツミには似合わないような暗く沈んだ面持ちだった。
「え、何が?」
「ストーキングしたこと……」
俺は思わず噴き出しそうになった。『ストーキングしたこと』という言葉の響きも面白いが、ストーキングについて俺が本気で怒っていると思ってるのが本当に面白い。それもまたいつものタツミらしくない。ストーキングもそうだが、このタツミらしくない感じは春のせいなのか、それともホワイトデーのせいなのか。
「ああ、それか。つーか、俺が本気で怒ってると思ってたんだな」
「え、怒ってないの?」
「怒ってない。ストーキングなんて、冗談で言っただけだ」
「なぁ~んだぁ……本気でヘコんだ私がバカみたい……」
「みたいじゃなくてバカだな」
俺はニヤッと笑って言ってやった。
「えぇ~、でもさ、自分でも振り返って思ったもん、私ってストーカーだな、って」
「ストーカーにしては気が抜けてるけどな。着信音を消し忘れるなんて、プロストーカー失格だぞ」
「プロストーカーじゃないから。ってかプロストーカーって何? ストーカーのプロなんているの?」
二人でゲラゲラ笑った。ようやく俺たちらしい調子が戻ってきたところで、俺は極力さり気なく、この俺たちらしい空気感を壊さないように、そっと例のブツを取り出した。
「はい、これ、ホワイトデー」
「え、私にもあるの!?」
「あるに決まってるだろ、バレンタインデーくれたんだから」
タツミはまるでクリスマスプレゼントを貰った子供みたいに目を輝かせてそれを受け取った。無邪気に純粋に喜んでいるタツミを見ると、こっちまで嬉しくなった。やっぱり可愛い女の子の喜ぶ姿に、俺も思わず笑顔がこぼれてしまった。
「一生大事にするね!」
「いや、お菓子だから。すぐ食べろよ」
「うん!」
しかしそこからが長かった。タツミはまず外観をスマホのカメラで撮ると、次は包を丁寧に外して中身をパシャリ、そして取り出したクッキーをパシャリ、そうしてようやく実食に入るのである。女の子は何事にも時間をかける生き物だということが、俺にもようやくわかってきたところだ。
「は、マツザキくんもどーぞ」
「お、いいのか?」
「一人で食べるより二人で食べたほうが美味しいからね」
「なるほど。じゃ、どれどれ……」
一つ貰って食べた。甘い。あまりにも甘すぎる。普段ならあまり好みの味じゃないはずだが、今日はなぜかそこそこ美味しく食べられた。ホワイトデーのせいか? いや、多分タツミのせいだ。タツミが隣りにいるからだ。
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