第三章 呼ぶ声は耳を掠めて
#1
翌朝。
シャルロッテ姫は、夜半まで密談をしていたとは思えない爽やかな顔で、朝食の席に現れた。どんな時でも王女としての威厳を保つのだという矜持がうかがえるようだった。
一方のエディリーンは、王子王女たちとは別室で朝食を口に運びながら、欠伸を噛み殺していた。冷たい水で顔を洗ってもすっきりしないのは、単なる寝不足のせいだけではなく、昨晩聞かされたあれこれのせいだった。
しかし、エディリーンがそのことを考えても仕方がない。手を貸せることがあれば貸すが、政治の権謀術数など、自分の領域ではない。
朝食の後、一行は王都に向かうことになっていた。グラナト領主に丁重に礼を述べ、館を辞し、昨日と同じ陣形で王子王女の乗った馬車を護衛しながら道を進む。
王都で果たすべき目的は二つ。一つは、これまで両国の口約束だったシャルロッテとユリウスの婚約を、書面で正式なものにすること。そしてもう一つは、アレクシス王子を王都に移送し、レーヴェで匿うことだった。
「近頃、色々ときな臭くて。わたくしの元に隠しておくのも、限界が近いような気がしているのです。そこで、ユリウス様にアレク様をお任せしたいと思うのですが……」
今一度の予想外の申し出に、ユリウスは絶句して低く唸った。しばし頭を抱えて俯き、やがて何かを振り払うように首を振って顔を上げる。
「……わかった。だが、理由はどうでっち上げる?」
誰にも知られずにエグレットを出奔したのならともかく、シャルロッテ姫の従者として同行してきた少年がいなくなったのでは、目立ってしまうのは必須と思われる。
「それでしたら、わたくしもしばらくレーヴェに滞在させていただきたく思いますので、その間になんとかいたしましょう。わたくしがいれば、怪しい動きをする人間を炙り出すこともできるでしょうし、これを利用しない手はありませんわ」
笑顔で自分を囮にしろなどと恐ろしいことを言う王女だが、始終優雅な微笑を浮かべているので、冗談なのか本気なのかいまいちよくわからない。しかし、本気だとしたらかなり肝は据わっていると思われた。
以上が、昨晩、深夜の密談で語られた内容だった。
その日は、朝からどんよりと暗い雲が空を覆っていた。今にも降り出しそうだと思っていたら、グラナトの街を出て間もなく、予想通り地面に冷たい雫が落ち始めた。
騎乗している騎士たちは、なめし皮で作られた雨除けの外套を取り出して被るが、雨の勢いはどんどん強くなる。雨具の効果も空しく、馬もその上の人間たちも、あっという間に濡れ鼠になってしまった。更に、黒くなった雲の間を稲光が走り、低い雷鳴の轟きが徐々に近付いてくる。
「これはいけません。一度、街に戻りましょう」
先頭を走っていた騎士が、馬首を返してユリウスに進言する。道がぬかるんで危険だし、濡れたままでは馬も人も体調を崩してしまう。こんな状態で王子王女の安全を保障できない。
「そうだな。無用な危険は犯せん」
ユリウスの号令で、一行は来た道を戻ろうと、進路を変更する。
エディリーンは険しい視線で空を見上げていた。この天候の変化は、どこか不自然だった。大きなマナの乱れを感じる。何やら嫌な予感がした。
振り返ると、今しがた渡ってきた大きな川がある。東の山脈から流れてくる川だが、この雨で増水している。丈夫な石橋がかけられているが、橋桁に水が浸かっていた。
元々後方にいたエグレットの家臣たちは、進路を反対に向けたことで今は先頭にいる。その彼らが橋を渡っているその時、稲妻が空を切り裂き、轟音と共にユリウスたちが乗る馬車の前に落ちた。
稲妻は橋を打ち砕き、エグレットの家臣たちと、王子たちの乗る馬車を分断した。橋は崩れ、彼らは悲鳴を上げながら急いで川の両岸に逃げ延びた。馬車の首を返すのは到底間に合わないので、ユリウスはシャルロッテの手を引いて馬車を降り、雨で濡れるのも構わず走る。御者も馬車を捨て、二人にお早く、と檄を飛ばしながら必死に足を動かした。
陸地に着くか着かないかの時、押し寄せた水に残してきた馬車が流され、彼らは唖然としてそれを見送った。
「姫様! ユリウス殿下! ご無事ですか!?」
エグレットの家臣たちが叫ぶが、雨音と雷鳴にかき消されてしまいそうだ。
「こちらは大事ない!」
負けじとユリウスが叫び返す。馬車は失ったが、人的被害を免れたのは、不幸中の幸いだった。
その時、曇天に場違いに間延びした、少年の声が響く。
「あっれえ、外したかあ」
振り仰ぐと、あの時の黒ずくめの格好をした二人が、雨に濡れることなく宙に浮かんでいた。
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