#10
それから数刻の後、エディリーンは旅支度を整え、王都を発った。先導するのは、サイラスと、彼の従者として来ていた、騎士団の若者。周りには、しばらく所用で家に戻るということにしてもらった。
のんびりした旅とはいかないが、いつかのように全力疾走まではせず、馬が潰れない程度に可能な限りの速さで、南へ駆けていた。
馬に乗るのも久しぶりだった。遊びに行くわけではないが、普段より少し高い景色も、頬を通り過ぎていく風も、心地よかった。
王都を発って翌日の昼には、リーリエ砦に到着した。少し休憩した後、早速周囲の見回りを開始する。
騎士団の役目は、戦だけではない。平時は、周辺の治安維持も担っている。領内で何かあれば、騎士団に訴えが来るので、責任をもって対処しなければならない。騎士団のいない地域では、各領主がその役目を負っている。
団長のサイラスは何かあった時のために砦に残り、エディリーンは三名ほどの騎士団員と共に、見回りに出た。
砦の周辺は木々が生い茂る森の中だが、そこを抜けた平地には、農村が点在している。被害に遭っているのは、その村だった。
襲撃は、時間も場所も一貫性がないらしい。少人数の部隊を編成して見回りを増やしてはいるが、犯人が現れても遠くから魔術で攻撃され、その姿を視界に捉えても、射程に入る前にかき消すように姿を消してしまうという話だった。
姿を消すということは、幻惑の魔術でも使うのか。それとも、空間転移を使うのだとしたら厄介だが、あれは術式が複雑な上に、マナの消費量も大きい。使える人間はそうそういないはずだが。
村と、その周辺の森の中を見回るうちに、日が暮れてきた。探査術も常に発動し、警戒を怠らずにいるが、異常はない。
しかし、見回りを始めてしばらく経った時、不意に近くでマナを練り上げる気配がして、そちらを振り向いた瞬間には木々の合間を縫って、炎の
水蒸気で束の間視界が遮られるが、風を起こして吹き飛ばした。エディリーンの背後にいた騎士たちが、剣を抜き、あるいは弓に矢をつがえ、臨戦態勢を取る。すると、木立の向こうからゆらりと余裕に満ちた動作で現れた影があった。
「あはっ、ほんとだぁ。お前、生きてたんだぁ」
にたにたと意地の悪そうな笑みを浮かべているのは、エディリーンと同じくらいの年頃に見える少年だった。黒の上下に黒い外套という、全身黒ずくめの出で立ちだった。その中で目を引く赤みを帯びた金髪が、夕日に照らし出されて輝いている。まだ少し幼さの残る顎の細い輪郭の中で、琥珀色の瞳がぎらりと怪しく光った。
「この辺で暴れていれば、お前が出てくるだろうって言われたけど、その通りだったわけだ」
「……貴様、何者だ。何を言っている」
エディリーンを始め騎士たちは一層警戒を強める。しかし、少年はこちらの言っていることが聞こえていないかのように、ゆったりと草を踏みつけながら、一歩、二歩と近付いてくる。
「お前、今は貴族のお嬢様なんだって? 笑える」
こちらを知っているような口ぶりだったが、その言葉で少年がエディリーンを指しているということが確定した。
追従していた騎士たちは驚愕と困惑の入り混じったような視線を彼女に向けるが、一番戸惑っているのはエディリーン本人だ。
しかし、当惑は一瞬だった。何度も窮地を潜り抜けてきた戦士らしく、瞬時に気持ちを切り替え、一層表情を厳しくして相手を睨みつける。
「質問に答えろ。貴様、何者だ」
鋭い声に少年はわざとらしく目を見開き、肩をすくめる。
「あっれえ、俺のこと覚えてないんだ。薄情だなぁ、〝
胸の奥がざわりと粟立つ。記憶の奥底に沈めたその呼び名が、苦しい思いと共に蘇った。
刹那、エディリーンは地面を蹴った。足場の悪い中を走りながら、足元に力を込める。マナを
エディリーンの剣の切っ先が少年に届こうとした刹那、目の前で炎が上がった。間一髪、エディリーンは防護結界を展開してそれを防ぐ。周りへの延焼も防ぐことができたが、エディリーンは今度こそ、隠しきれない驚愕に目を見開いた。
(今のは……)
彼は、呪文の詠唱をしていなかった。通常、魔術を使うには、言霊を唱えなければならない。それなしで術を行使できるのは、理由はわからないながらも自分だけだと思っていたが。
少年は自分を拘束していた蔦も焼き切り、平然と立っている。
「へえ、意外とやるじゃん。ただマナの保有量が多いだけの役立たずのままじゃないってことか」
少年は更なる攻撃の構えを見せる。
「下がれ」
エディリーンは背後の騎士たちをかばうように片手を広げ、もう片方の手にマナを集中する。
その時、少年の背後から、もう一人、別の男が現れた。
「遊びは程々にしておけ」
少年とは対照的に、落ち着き払った響きの声だった。少年よりもいくつか年長に見える。服装は、同じく黒い服に黒い外套を身に着け、短く刈り込んだ黒髪に瞳は青だった。
その男も強い力を持っていることが、エディリーンにはわかった。相手の手の内が分からない以上、下手に手は出せない。
「あれに関しては、今回は所在の確認のみ。どうこうしろとは言われていない」
たしなめられた少年は、不服そうに口元を歪める。
「んだよ、いいじゃねえか、ちょっとくらい。ここで会ったが百年目ってヤツだろうが」
「俺たちは与えられた任務をこなすだけだ」
淡々と言う黒髪の男に、少年は悪態を吐く。
「ちぇっ、つまんねえの。犬かよ。ってーか、そっちの首尾はどうなんだよ」
「こちらは終わった。ここはもういい。行くぞ」
男は何かを小脇に抱えている。目を凝らすと、それは一冊の本だった。わずかだが、マナが宿っているのを感じる。おそらくは、何かの魔術書だ。
少年はエディリーンに視線を戻し、声を一段低めた。
「許さねえからな、裏切り者。お前は、俺が必ず殺してやる」
そう言うと、黒ずくめの二人は地面に何かを投げ落とした。その瞬間、光と風が巻き起こり、二人を包む。エディリーンたちは思わず目をつむり、腕で顔を覆った。
それが収まった時、彼らの姿は消え失せていた。
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