#6
夫人はエディリーンを促して、階段を上る。
屋敷の中は、薬草や香草の匂いが染みついていて、馴染んだ感じがした。貴族の屋敷と聞いて、もっと派手で見栄を張っていて、こちらにもそれに媚びへつらう態度を要求してくるかと思っていたが、想像に反していて少しほっとした。屋敷も使用人たちも、素朴な感じがする。
案内されたのは、二階の右端の部屋だった。窓からは、外の薬草園の様子がよく見えた。
室内は掃除が行き届いており、清潔な寝台に箪笥、テーブルなどが置かれていた。よく磨かれて艶のある木でできたそれらには、細かな彫刻が施されている。
「こんな山の中でびっくりしたでしょう? うちは代々、華やかなこととは縁遠くて。わたしも王宮で社交界に顔を出すより、ここで土をいじっている方が性に合っているものだから」
夫人は眉尻を下げて微笑む。
「失礼します」
そこに、アンジェリカが水の入った木桶と布、そして薬の入っているであろう小瓶を持って入ってきた。
それらをテーブルに置くと、アンジェリカは再び部屋を出ていく。
「座ってちょうだい」
夫人は治療道具の置かれたテーブルの前に座ると、エディリーンを手招きする。
そのままエディリーンの左手を取って傷を洗おうとしたので、慌てて固辞する。
「自分でできますから……!」
「気にしないで。うちは使用人も少ないから、できることは自分でやるの。わたしも
魔術は使えないけれど、こう見えて薬草学と医術はかじっているから」
言いながら、エディリーンの手の傷にぱしゃぱしゃと水をかけ、乾いてこびりついた血を洗い流していく。それが終わると、水滴を拭い、薬を塗りつけていく。
柔らかく、慈しむような手つきだった。他人に怪我の手当てをされたことはあるが、師匠であるベアトリクスの治療はどこか荒々しいし、養父のジルの手も、優しいけれど無骨だ。こんなふうに触れられたのは、初めてかもしれない。薬は少し沁みたけれど、温かい感じがした。
「さて、これでいいわ」
「……ありがとうございます」
胸の奥が、ふわふわと落ち着かない心地がする。微笑みかけてくる夫人の眼差しに、なんとなく居心地の悪さを感じて、窓の外に視線を逸らした。
それを薬草園への興味と受け取ったのか、夫人もエディリーンの視線の先を見て、話し始める。
「代々育ててきた薬草園なのよ。これだけは、うちの自慢なの。この山一帯がうちの領地だから、他にも色々な薬草があるわ」
夫人は目を細めて、後を継いでくれる人がいないのが残念だけれど、と小さく呟く。
確か、夫人は夫も子供も亡くしたのだったか。ここに来る前に聞いた話を思い出すが、世間話をしに来たのではない。
ふと、視界の隅に、建物の裏手の方から表に回ってきた男の姿が見えた。口髭をたくわえたその男は、エディリーンのよく知っている人物、養父のジルだった。今は愛用の剣を腰に下げておらず、弓矢を背負っている。傭兵というより、猟師のような風体だった。
ジルはエディリーンに気付くと、軽く手を上げてよこした。それに小さく手を振り返し、夫人に向き直る。
「それで、今回の依頼の件ですが……」
「ああ、そうだったわね。お客様なんて久しぶりだから、楽しくて」
その時ドアをノックする音がして、再びアンジェリカがやってきた。今度は茶器を一式と、焼き菓子を盛った皿を盆に載せて持っていた。
「お待たせしました! ここで採れた香草のお茶と、街で美味しいと評判のお菓子です!」
アンジェリカは二人の前にカップを並べて茶を注ぎ、焼き菓子の皿を置いていく。そして、使い終えた治療道具を回収すると、退出していった。
「ごめんなさいね、騒がしい子で。でも、あなたのことが気に入ったみたいね」
「はあ……」
夫人は微笑んで、湯気の立つお茶をすする。エディリーンもそれに倣ってカップに口をつけた。花のような、ほのかに甘く爽やかな香りがした。
「……それで、あなたにお願いしたいことなのだけれど」
夫人はスカートのポケットから、小さな布の包みを取り出した。包みを解くと、丸みを帯びた白い花弁を持つ、一輪の花があった。
「これが何かわかるかしら?」
「……ソムニフェルムの花ですか?」
エディリーンの答えに、夫人は感心したように微笑む。
「さすが、ベアトリクス殿のお弟子さんね」
「実物を見るのは初めてです」
それは、国内ではグレイス邸と王立魔術研究院でしか栽培されていない薬草だった。栽培自体も難しく、生産量もあまり多くはない。しかし、強力な鎮痛・鎮静剤として重宝されているため、相応の価値のあるものだった。
そして、ソムニフェルムには、それ以外の効果もある。快い陶酔感を得ることができ、集中力を高め、万能感を得ることができるというものだった。しかし、あくまで一時的に、である。
一番の問題は、強い依存性があることだった。もちろん、正しい量を守れば、そのようなことは起きないとされている。しかし、使い方を誤れば、薬で得られる陶酔感が切れた後には、とてつもない脱力感や無気力感に襲われ、再び薬を摂取しなければいられなくなるらしい。だんだんと正気を失い、それがないと生きていけないようになり、どんな手段を使ってでも薬を手に入れようとするようになる。そして、行きつく先は、廃人である。それゆえ、国の許可がなければ栽培できないし、流通や精製も厳重に管理されていた。
「しばらく前に、ソムニフェルムを植えている一帯が、荒らされたことがあって……」
その辺りだけ、土が掘り返されたり、草花がなぎ倒されたりしていた。野犬か猪の仕業かとも思ったが、ソムニフェルムは食べられる実を付けるものではないので、動物が荒らすのは考えにくい。
ものがものだけに、グラナトの領主にも協力を仰ぎ、周辺を調査したが、手掛かりは得られなかった。
しかしその後、収穫したソムニフェルムの取引証書を確認していたところ、違和感を覚えた。数字を改竄された形跡があったのだ。
グレイス邸で収穫された薬草は、グラナトの商人が仲介して、王都や必要としている施療院に届くようになっている。その取引の記録が、どうもおかしい。こちらから出荷した量と、取引された量が違う気がするのだ。いや、数字上は問題ないのだが、記憶にある出荷量よりも少ないのだ。
夫人は年老いたが、まだ
では、一体誰が? そして消えたソムニフェルムはどこへ行ったのか。
「街へ薬草を運ぶ仕事は、アンジェリカとヨルンが交代でやってくれているの。アンジェリカはヨルンを疑っているようね。それできっと、路地裏に迷い込んだりしたんだわ」
だけど、と夫人は首を横に振る。
「身内を疑うようなことはしなくないのだけれど……。事が事です。どうやって調査しようかと思っていたところに、ベアトリクス殿から連絡が来たの。ソムニフェルムに関して、何かおかしなことが起きていないかと。言い方は悪いかもしれないけれど、渡りに船だと思ったわ。だから、協力をお願いすることにしたの」
マナを増幅させる薬の噂。それがソムニフェルムによるものではないかと、ベアトリクスは疑った。
そして、ソムニフェルムを栽培しているグレイス家に、エディリーンが薬草師見習いとしてやって来たというわけだった。
薬草園の警備は、猪退治の猟師のふりをしているジルが担当している。エディリーンの役目は、使用人たちの動向に注視することと、薬草の取引に同行し、真実を明らかにすることだった。
「よろしくお願いするわね」
「確かに、承りました」
事態は、魔術師たちの間だけで解決できるものではなさそうだった。またしても大事に巻き込まれそうな予感に、そっと溜め息を吐いた。
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