20章 Last


「……疲れた」

やっとのことであの狭い賭博場から解放されたアナンは思わず息を吐きだした。この経験したことがない種類の疲労は慣れない気を遣ったせいだろうか。

あの後、捕らえた人々をその場にやってきた役人に引き渡したり諸々の手続きをしていたら思いの外時間が経ってしまった。とは言っても、雑務に追われていたのは専らサナだけで、アナン達はただ立っていただけなのだけれど。

(エトムントだった時はできていたはずなんだが……)

一国を統べる王として、少なくともアナンよりはそういうことは得意だったはずだ。エトムントとして見るアナンとアナンから見るエトムントは随分解像度に差がある気がする。

(……どういう男だったんだろう、エトムントは)

生まれも育ちも全く違うかつての自分。同じ人達と交わって、同じ人を愛している自分。自分の十八年を生きるのだって精一杯なのに、そこにのしかかる彼の二十数年の人生。時に重いその時間は、それでも時に心強い。

(いつか)

いつか、もっと彼のことを知ることができる日が来るのだろう。いや、来なければならないのだ。

(エトムントなら、何か知っているはずだ。ルドルフが何をしようとしているのかを)

クルーヴァディアの再興。

口で言うのは簡単だが、一度滅んだ国を興すのがどれほど大変かはラーシュやノスタシオンを見ていればわかる。

(あとは……魔導科学の存在か。とにもかくにもそこがわからない限りは……)

クルーヴァディアを支えていた魔導科学という概念。そして今ルドルフが求める楽園に必要なもの。しかし、クルーヴァディアの結末を考えれば、少なくとも彼が想定している使い方は破滅を導く可能性がある。

(しかし俺には内部のことなんて何もわからないし……誰かしらと接触できれば話は別だが……)

「……ねえ」

彼の思考は、前を歩くラーシュに話しかけるイスフィの声に遮られた。ふと気付けばアナンとイスフィは皆から半歩ほど遅れて歩いているようだった。

「どうしたんだい?」

「……緑色」

「え?」

思わずアナンは彼女の顔を覗き込んだ。

(……やっぱり)

発光した額の印。彼女の無意識の予知の証。それはつまり、何かが起こる証。

「……」

イスフィは不意にその澄んだ瞳を路地裏の方へ向けた。つられてアナンも首を動かす。

視線の先にいたのは、踊り子の少女だった。健康的な褐色の肌、薄桃色の髪。豊満な体を隠す薄い衣服はなんとも異国風だ。

そんな彼女はどういうわけか数人の男に囲まれていた。友人だとか仲間だとか、そういう間柄にはどうしても見えないが、しかし彼女もまた怖がるわけでも助けを求めるわけでもなく平然と何かを話している。そうは言っても、彼女の格好も相まって危なっかしい状況に見えるのも事実だ。

「……」

何かを見定めるようなラーシュの瞳が彼らの方へ向く。こんな雑踏の中だというのに、彼の周囲だけは時が凍っている気がした。

「……行くよ」

その時間も束の間、ラーシュは突然路地裏の方へ駆け出した。顔に影を落とすローブが落ちるのさえ気にせずに。

「ご主人様⁉」

「え、あ、ちょっと!」

真っ先に気付いたノスタシオンが翼をはためかせながら飛んでくる。アナンとイスフィも慌てて空色の頭を追った。皆が一斉に方向転換したものだから、中々騒がしい。

後を追ってくる彼らに気付いたラーシュは、微かに後ろを振り返って「静かにして」とでも言うように口の前で長い人差し指を立てた。やはり主人の命令とは絶大な力を持つものなのだろう、あれほど心配そうに飛び回っていたノスタシオンもぴたりと翼を畳む。

そういうわけで、場に乗り込むラーシュをやや離れたところから七人が見守るというなんとも不思議な光景が完成した。……もちろん、それぞれが武器を構えたままで。

「少しいいかな」

思わず皆が息を飲む。薄暗い場所に足を踏み出した彼は暗がりに差し込む光のようで、どういうわけかなんとも言えない威厳があるのだ。

「あ? なんだこのガキ」

男の言葉を聞いた途端、ノスタシオンが詠唱を始めそうになる。慌ててイスフィが彼の手を抑えた。

「ちょっとちょっと! やめてってば!」

「だって、だって! あの野郎、ご主人様のことをガキなどと……!」

後ろの騒ぎに気付いているのかいないのか、ラーシュは微かに口角を上げた。周囲の喧騒には目もくれず、真っ直ぐ前を向く。

「……自警団の者だけど」

そう言うとようやく彼は冷たい面持ちを崩して満面の笑みを見せた。嘘をついているわけではないとはいえ、やはり彼にはどこかしたたかなところがあるらしい。与えられた状況を最大限利用するのが今までずっと宮廷で暮らしてきた王子だというのは、なんだか可笑しいような気がした。

一方の男達はというと、『自警団』という言葉に顔色を変え、小さく舌打ちをして逃げ出した。踊り子の少女のことも興味が失せたように突き飛ばす。

「わっ」

よろめいた少女をすかさずラーシュが抱きとめる。

(……緑)

彼女の瞳はどこまでも透き通るような、何もかもを見通すような、そういう緑色をしていた。

(……この瞳を、僕はどこかで……)

彼女の瞳とその奥に映る自分。それはどこか懐かしい感覚で。

何かを言いたいのに、言葉が見つからない。思案しているうちに、少女の方が先に言葉を発していた。

「ありがとう。……助けてくれるんじゃないかなって思ったよ、やっぱり」

そう言うと少女は含みのある笑みを向けた。どこか不思議で幻想的で、それでいて無垢な微笑み。魅力的だ、と思ったのは、もう魅了された後だから?

「大したことじゃないよ。それより、怪我はない?」

湧き上がる不思議な気持ちを抑えるように、ラーシュはあくまで自然に彼女の肩にマントをかけた。

「大丈夫。優しいね、君は。……なんだか王子様みたい」

どきりとラーシュの心臓が跳ねる。本当に王子なんだけど、とは口が裂けても言えない。いや、それとも彼女はラーシュの正体を知りながら言っているのだろうか。そんなことはないと言い切れないほど、少女の言葉の中に意味のないものは一つもないように思われた。

ラーシュの焦りをよそに、少女は彼の腕の中からするりと抜け出して地面に降り立つ。

「改めて言うよ、ありがとう。ボクはメルディナ。見ての通り、流浪の踊り子だよ」

メルディナと名乗った彼女は突然ラーシュに顔を近づけた。睫毛と睫毛が、唇と唇が、息と息が。その全てが触れそうなほどゼロに近い距離で。

「そして、……君の恋人」

「え」

思いもよらない言葉にラーシュは文字通り固まってしまった。恋人だなんて言われたって、二人は初対面のはずなのに。

いや、それでも、僕は君をどこかで。どこで?

瞬きを繰り返すラーシュをしばらく見上げていたメルディナは、不意に彼から少し離れた。そのままあのなにか含んだような笑みを浮かべて顔を傾ける。ただ、今度はその含んだなにかが少し寂しいものであるような気がした。

「……正確には昔の、ね。……いいや、もっと正確には……ボクらがクルーヴァディアで生きていた時の」

クルーヴァディア。

想像もしていなかった言葉にラーシュは思わず目を見開いた。

(もしかして)

彼女もまた、身体のどこかに印を持っているのかもしれない。

それはまさに直感だったが、しかしこの一連の非論理的な運命を結論付けるには最も有効な手段だった。

そういうわけだから、その運命とでも言うべき何かが視線までもを導くというのだろうか。彼は吸い寄せられるようにメルディナの腹部に目を留めた。

(……! これは……)

印。

緑色の痣のような印が、そこにはあった。

確かに刻まれた刻まれたクルーヴァディアの証。

そう、クルーヴァディアの。


「……二千年ぶりだね。会いたかったよ、フラン」

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