《リンカーネイション》2 Theory


『ver.Innovative、心拍安定、呼吸安定、出血量低下。危険状態を解除』

(……やっと終わった)

 カミルは実験室を出て、無機質な白い柱にもたれかかった。

 イノが瀕死の怪我を負って帰ってきた、と連絡を受けたのが三時間前。そこから今の今まで、彼は実験室に籠って彼女の手当をしていたのだ。

 尤も、一般に言われるような手当とは程遠い。どちらかと言えば修理というのが適切だろう。イノは普通の竜ではないのだから。

 彼女の体の大半の部位は機械でできている。初めからそうだったわけではないから、徐々に機械に変えられていると言うべきだろうか。どんな竜でも莫大な魔力によって生き、生かされるものだが、彼女は生まれつき魔力をほとんど持っていない。本来そのような竜は幼いうちに死んでしまう。自然に淘汰され、世界に拒絶されるはずだった命。

(『科学が救った命だ』)

 ある人はそう言った。群れから追い出され、家族からも見放され、死を待つだけだった幼い竜を救ったのは科学だと。

 だから彼女につけられた名前は『Innovative』――革新的な。

 でも、とカミルは思う。

(自然の摂理に逆らって生きる命にはそれ相応の痛みが伴うものだ)

 それは例えば定期的に訪れる修理の時間だったり、或いは死ねない苦痛だったり。

 彼にはどうにもできないことなのだ。そうやって目をそらし続けていること。きっとカミルだけではない、この二千年間色々な科学者達がしてきたように。

 疲労のためか、或いは逃げてしまいたいのか、重い瞼が閉じそうになる。だが、その微睡は誰かの足音に遮られた。平たい靴と冷たい床が奏でる高い音。聞きなれたそれはリラの足音だろう。

「カミル」

 案の定、目を開けるとそこには心配そうにカミルを見上げるリラがいた。

「……どうした、何か用か?」

「用というか……イノちゃんは大丈夫? カミルもしっかり休んでね」

 そのままリラは横に並んで魔法瓶を差し出した。彼女の透き通る若葉色の瞳に映るカミルは、本人が思っていたよりもずっと疲れて見える。

「ありがとう。……イノはまあ……いつも通りってところだ」

 熱いコーヒーの苦味が無理矢理彼の意識を覚ます。薬のようなものだ、と言い聞かせてみても、今の彼にはどうにもそれが美味しいとは思えなかった。

(……いつも通り、か)

 何気なく口にしてしまった言葉が苦味と共に舌に刺さる。

 見境なく敵に突っ込んではこうやって重傷を負って帰ってくる。それが彼女の『いつも』。

 オリヴェルなどは「竜の知能などそんなものだ」とは言うけれど、カミルはそうは思わない。

(……イノを兵器にしたのだって、『科学』じゃないか)

 理性も記憶も奪って、生きた鉄砲玉のように扱って。大切な人の記憶が戻りそうになったらロールバックを繰り返して。それが彼女に与えられた永遠だというのなら。

きっと上層部は今頃『彼女を試作品の竜の飛行テストに連れて行ったのは失敗だった』なんて話し合っているのだろう。それが妙に気に障って、カミルは短い爪で魔法瓶の蓋を軽く叩いた。

「……そう」

 彼の心の内を察したのか、リラは短く答えて共に柱に寄りかかった。視界の端で燃えるような赤い髪が揺れる。こうしている時だけは普通の男女になったみたいだ、とカミルは思う。運命が少しでも違う風に回れば、今頃は殺人も科学もなにもかも無縁の世界にいたのだろうか。働いて出かけて、たまに恋をして。自分で壊した道の向こうに今でも時折浮かぶ憧憬。

「あのね、これ……持って行ってあげようかと思って」

 不意にリラはポケットからなにかを取り出した。カミルも、魔法瓶に映る歪んだ自分から慌てて目を逸らす。彼女の白い手に握られていたのは小石だった。

「いいんじゃないか。喜ぶだろう」

 石竜は石を好んで食すという。彼女の行為はそれを知ってのことだろう。

(……明日死ぬかもしれない相手に入れ込み過ぎるなよ)

 そう思いつつも口に出すことは憚られる。それを言ってしまえばカミルだって同じ穴の狢なのだ。

「そうね、そうだといいわ」

 そう言って笑う彼女の横顔は綺麗で、それでいていつになく憂鬱そうに見えた。処分を恐れるテームと、一層生き急ぐナタリーの顔が思い浮かぶ。最近のいくつもの想定外が原因なのか、或いは。呼吸の音も鼓動もやけに大きく聞こえる午後。

「ねえ、カミル」

 彼女の話しぶりはいつもと何ら変わらなかった。だからだろう、続く彼女の言葉に面食らってしまったのは。

「……これから死ぬまでここにいたとして、誰かの命を奪い続けたとして……幸せって見つかるのかしら」

 突然彼女が放った呟きは、例えるなら時を止めたようで。

 これから死ぬまで。

 二人にとっては突飛な仮定ではないかもしれない言葉。

 どうして彼女がそんなことを言ったのか、或いはどういった理由もないのか、彼には何もわからなかった。急にリラが遠くに行ってしまったようで、カミル自身が遠ざかってしまったのか。

「……どこだって変わらないさ。間接的にしろ直接的にしろ、結局人は誰かを殺して生きているんだ」

 はじき出した答えはありきたりで、言わば理性で塗り固めたもので。悟ったような顔で沈殿したコーヒーを飲み干して、少し自虐的に笑う。

 リラは困ったように口角を上げて、小さな声でこう言った。

「……それじゃあきっと、この世に幸せな人なんていないわ」

 その言葉で、彼は突き放されたような気がした。きっと自分は彼女が求めるような人ではないのだ。そんな考えが指先から染み出していく。

 リラは弾みをつけて柱から離れ、ゆっくりと歩き出した。数歩進んで、右足を軸にしてこちらを振り返る。

「引き止めてごめんなさい。それじゃあね」

 いつものように穏やかな笑顔を浮かべて、彼女は実験室の戸の向こうに去っていく。

 何も言えないまま、カミルはぼんやりとその揺れる黒いマフラーを見送った。手の中の魔法瓶は僅かに熱を残していた。

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