1章 White(1)
「行ってくるよ、父さん」
分厚い毛皮の靴を履いて、大きすぎるほど大きい弓を携えて、刺繍の入ったバンダナを締めて。少年アナン=アイオンの早い朝はいつもどおりに始まる。
「いつもすまないな、アナン」
「いいんだ。父さんはしっかり足を治すのが先決だろう。それじゃあ夕方には帰るから」
立て付けの悪い戸を後ろ手で閉めることにももうすっかり慣れた。そういえば昨年の今頃、つまり父が足に怪我をしたために一人で狩りに出るようになったばかりの頃は妙なところに弓を引っ掛けたりしたものだ。
(習うより慣れろ、だっけ。よく言ったものだな)
学校に通っていた頃はてんで駄目だった勉強が今になって悪くないと思えてくるのは変な話である。反対に足が遅くなっていくような気がするのもなんだか悔しい。
(……いや、足が遅くなった気がするのは弓が重いからだ。そういうことにしよう)
心の中でモゴモゴと言い訳をして、アナンは弓を持ち直す。しかし実際、この弓は見た目以上に重いのだからあながち言い訳ではないかもしれない。
なんたってアナンの愛弓は魔物専用なのだ。普通の物とはまるで勝手が違う。
ずっしりと重い木で作らなければならないし、魔除けの装飾だって施さなければならない。うさぎやなんかを狩るのとはわけが違うのだから、狩人本人にだって少なからず危険がつきまとう。加えて魔物の肉は食べられたものではないということもあって、魔物狩りをしたがる人間なんてそうそう見かけない。
とはいえ街の方では魔物の爪や牙が装飾品として高く売れるのだから――尤もアナンはどうしてもその趣味には賛同できないのだが、一応の見返りはあるというものだ。どのみち村の近くの森にいるのは魔物ばかりであるために、これ以外狩人としてやっていく術はないのだけれど。
(しかし、今日は少々天気が良すぎるな。収獲は今ひとつかもしれない)
どうにも暑いと思って空を見上げてみれば、嫌になるほど澄んだ青が目に飛び込んでくる。魔物は晴れを嫌うものだ。アナンにとっては都合が悪い。
(かといって雨に降られても困るんだがな……)
わがままな願いを空に聞かれぬように、アナンは無意識的に下を向く。
そんなわけだから、彼は前からやってきた少女に気が付かなかった。
「アナンじゃない! もう出かけるの?」
「わ、なんだイスフィか」
「なんだとは失礼ね」
ツンとそっぽを向いた気が強そうな少女。
彼女の名前はイスフィ=アード。アナンとは所謂幼馴染みという仲である。尤も当人達には腐れ縁といったほうがしっくりくるようだが。
「いつもこんなものだ。むしろお前こそこんな時間から用があるのか?」
「そうよ。巫女の朝は早いの」
イスフィの言うように、彼女の職業は巫女である。早起きが苦手な彼女に朝の祈祷をやる必要がある巫女なんて務まるのか、とアナンは密かに思ったものだが、この様子ではなんだかんだ上手くいっているのだろう。第一彼女には目を見張るほどの占いの才があるのだから、多少の寝坊は許されるのかもしれない。
「そうだ、せっかくだから出かける前にアナンの運勢を占ってあげようか」
「それは有り難いが、巫女の力をそう簡単に使っていいのか?」
「今はまだお勤め前だからいいの。だいたい、最近は空き時間に簡易占い所を開いてお小遣い稼ぎしてるんだから今更よ」
「金取るのかよ……」
「アナンは幼馴染み料金ってことでタダにしてあげる」
「はいはい」
軽口を叩きながら誰もいない道で二人は向かい合う。
イスフィの額にある不思議な形の痣がぼうっと淡く光った。生まれ持ったそれが占いの力を支えているということなのか、彼女の占いが当たる時にはいつもその痣が光ったように揺らぐのだ。
周りの人に言わせるとアナンの右目の中にも似たような痣があるというのだが、どうにも鏡でははっきり見えないし光るような感じもしたことがない。そういうわけだから、イスフィの痣の光を見ていると一方でどこか損をしているような気持ちになるものである。
「……白」
しばらく黙り込んでいたイスフィがやっと口を開く。とはいえあまりに抽象的な一言は占いという感じではない。
(ほんとに儲かっているのか、これ)
しかし痣が光ったのは確かなのだ。何かしら当たるのかもしれない。
「白がなんなんだ?」
「知らないわ、そんなこと」
この占い師、対応が雑である。それでもタダだということをふまえると妥協しそうになる。
「お前が言ったんじゃないか」
「それはそうだけど……。でもほら、白色の物を身につけるといいことがあるかもしれないでしょ? あとはそうね、白色の毛並みの獲物が見つかるとか……」
「うーん。まあいいや、ありがとうな」
「……信用してないって感じの声」
彼女の冷たい目は見なかったことにして、アナンは強引に話を逸らす。
「というか、せっかく早起きしたのにこんなところで道草食って大丈夫か?」
「あ、そうだった。ありがと、アナン」
どうやら本当に忘れていたらしい。さっきの会話など忘れたかのように、彼女はアナンとは反対の方向へ急いでいく。
「じゃあな。しっかりやるんだぞ」
「アナンこそ、気をつけなさいよね」
彼女の声はまだ遠くから聞こえている。空が華やいだような、浮ついたような変な気分を抱えたまま、アナンは小道を急いだ。
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