002_弁証法の紹介[否定の否定] 平和に関する高校生の発言への批判について


 少し前、ある日本人高校生の発言を巡ってツイッターがざわついていた。ざわついていたなんて言い方はあまり正確な表現ではなくて、その高校生に対する否定的な意見や、その高校生の姿を捕まえて、だから今の日本の教育は駄目なのだと糾弾する意見であふれていた。

 特に引用リツイートは酷かったと思う。引用リツイートには人間を攻撃的にする作用が含まれているから、使うときは最大限自省してから使うことをおすすめする。空リプの方が闇が深い? それは確かにそう。我々も気をつけよう。

 ここでは私が好きな「弁証法」という思考法について紹介したい。

 人間の思考法は主に3つある。演繹法、帰納法、弁証法である。演繹は、AだからB、BだからC……だからAだからCである、という「論理的に考えなさい」と言われて真っ先に思いつくものである。

 帰納法とは「このカラス1は黒い。このカラス2は黒い……このカラス999は黒い。ならばカラスは黒い。」と材料をたくさん積み上げる方法である。数学以外では、帰納法は演繹法に比べて、必ず根拠から理論への飛躍を必要とするという特徴がある。

 そして弁証法については、Aという意見とそれに反対するBという意見があり、それらを統合して両方の課題を取り入れたCという新しい意見を生み出す考え方のことだという説明をされることが多い。この説明はシンプルでわかりやすくはあるのだが、どうやってそれをするの? という疑問が浮かんでも置いて行かれてしまうことが多い。せっかくなので、何回かに分けて弁証法という思考法について説明してみたいと思う。


 私が一番好きな三文字熟語は「弁証法」である。この弁証法での思考方法の1つに「否定の否定」という考え方がある。(ちなみに二番目に好きな三文字熟語は「業務用」です)

 今回は弁証法の中でも「否定の否定」に限って話をしてみたいと思う。


 あるAという意見があり、それをいったん否定し、反対のBという意見が出てきて、さらにそれに対する反論が出てきて、Bがさらに否定されてA’となる。AとA’は主張する内容は同じだが、Bという反論を乗り越えた後である分、A’の方が進歩した考え方だと言える。Aは自分の内に持っている「否定性」によって自らB、A’へと進んでいく。


 これが弁証法における「否定の否定」という考え方である。少しわかりにくいので冒頭の話と絡めてさらに考えてみる。

 少し前にバズっていたツイートで、日本の高校生が主催した平和について考えるイベントが紹介されいてた。日本の高校生がウクライナの避難民(“難民”ではないことが政治的には非常に重要らしい)の方に

「ウクライナに武器を送り続けていたら戦争が終わらないのではないか」

という意見を伝えた。そしてウクライナの避難民の方から

「武器がなければウクライナの市民が殺されてしまう」

という意見を返され、はじめに意見を言った日本の高校生はうまく言葉を返すことできず「戦争って一筋縄ではいかないんだな……」とこぼすしかなかった。

 この高校生を冷笑する意見が溢れかえっていたが、この高校生よりも自分は深く考えていると胸を張って答えられる人はどのくらいいるのだろう(ウクライナの避難民の方に無配慮な言葉をぶつけてしまったという点で批判されるというのならまだわかるが……)。

 弁証法はギリシア語では「ディアレクティケー」と言って「問答法」という意味である。意見が深まるとき、その意見は是非を問われ、必ず否定にぶつかる。

『ウクライナへの武器援助をやめれば戦闘は終わり平和になる』

という意見は、非常に素朴で最も直感的な意見だ。素朴というのは、かつての日本が強引に武器を作り続けて兵士を動員し続けたことで悲劇を長引かせた「先の大戦」についての教育から直接取り出されてくるであろう命題だという意味で、である。(これは悪い意味で言っているのではない。むしろ弁証法的には、この段階の議論を飛ばして複雑なことをいきなり考える方が邪道である)

 弁証法では、こうした素朴さのことを「直接的」とか「無媒介」のように言い表す。あらゆる命題はこの無媒介な状態から出発する。

 そして上記の意見に対して

『武器を失ったウクライナには平和は訪れない』

という否定意見がぶつけられる。この否定を乗り越えない限り、平和についてさらに深く考えることはできない。この否定を乗り越えた上で『○○をすれば平和になる』という意見を出さなければならない。この○○に入れるものは、人によって変わるだろう。

 ここから『ロシアの武器調達を阻止すれば平和になる』という意見が出てくるかもしれない。そのために世界はロシアに対して経済制裁を行っている。『ロシアとウクライナの両方が同時に戦闘をやめれば平和になる』という意見から、どこかの国が仲裁をして講和に持ち込むめばよいのではないかという姿勢が出てくる。

 これらの主張は、一度否定されたことによってはじめの主張より前進し、より現実に即したものになっている。こうした前進のことを「否定によって媒介されている」という言い方をする。

 ここで重要なのは、これらの否定意見は外からやってくるのではないということである。はじめの無媒介な意見の内部に既に否定が含まれている、という風に考える必要がある。少し分かりくいと思うのでさらに説明する。

 はじめに高校生が無媒介に直感した『ウクライナへの武器援助をやめれば戦争が終わり平和になる』に対して誰も否定意見を出さず、しかもこの高校生が世界の動きを決める権限を持っていたとしよう。そして自らの命題に従って国際社会を動かしたとしよう。するとどうなるか。武器援助を止められたウクライナは抵抗する力を次第に失っていき、ロシア軍によって市民は今以上の恐怖に陥れられるだろう。現実では、命題通りに平和が訪れることはない。つまり命題は実行されたことによって、命題がはじめから自分で持っている問題点によって否定されてしまう。


 ここで弁証法の始祖の一人、ヘーゲルの言葉を引用してみよう。


「学の研究において大切なのは、概念の努力を自分で引き受けることである」

ヘーゲル『精神現象学』


 抽象的すぎてよく意味が分からないかもしれない(私もよくわからない)。ヘーゲル研究者の樫山欽四郎氏は自著で


「内容が内容自らの自由性によって動くようにすることが求められねばならない。内容を内容自らの自己によって動くようにしてやること、そしてこの運動を観察すること、これが求められた態度である」

樫山欽四郎『ヘーゲル精神現象学の研究』


と解説している。独断と偏見と誇張を混じえて私の言葉に変換してみよう。

 何の問題点も持ち合わせていない命題など存在しない。どれだけ完璧な命題のつもりでも、必ず改善点がある。たとえ外部から反論されなかったとしても、命題自身の否定性(改善点を必ず持っている)という推進力によって、命題は常に前進しようとしている。その運動を止めてはならない。その運動を止めるのは、自分の意見は正しくこれ以上考える必要は無いと思い込む人間の傲慢さである。

 これが弁証法の世界観である。

「弁証法に限った話ではなくない? ものを考えるときはそれくらいの謙虚な姿勢でいるべきだと考えるのが普通なのではないか?」と思った方。その通りです。

 今回の高校生に対して否定意見をぶつけていた人たちを見て思ったのは、それを否定している人たちはちゃんと自分の意見を自分なりに否定して媒介しているのか? ということだ。

『ウクライナへの武器援助をやめれば平和になる』という命題は学校での歴史教育からそのまま直接取り出されたものだ。その意味でこれは無媒介な、まだ吟味されていない命題である。ウクライナの避難民の方と話をする前に、この命題について自分で吟味をすることがなかったという意味では、この高校生が批判されることもあり得るだろう。

 では、この高校生を批判する人たちはどんな命題を持っているのだろうか。

『ウクライナに寄付して平和に貢献するべき』

「ロシアに経済制裁をすれば平和になる』

『綺麗事で平和は実現されない』

 これらはどこかの学者やネット論客、あるいはTLのたくさんの意見からの引き写しではないのだろうか。

 引き写しが悪いと言っているのではない。

 他から引き写してきた意見を正しい者として外部から批判をぶつけてしまうのが良くないといっているのである。

 引き写しているということはその人にとっては無媒介な意見である。自分でその言葉を吟味し直したことがあるのだろうか。

 この高校生は今回のイベントでのやりとりを通して自分の意見を見直し、上で書いた3つの意見と同じ意見を持つようになるかもしれない。

 高校生の意見が、他から引き写してきた意見を正しいものとして外部から批判をぶつけている人たちと同じ意見になったとしても、一度否定を乗り越えた経験をその中に宿している分、そちらの方がより深い意見だと言えるだろう。

 この高校生はもはや、自分で否定した間違いに戻っていくことはない。

 たとえロシアに利益をもたらしてしまうような、平和から遠ざかるような情報操作やプロパガンダに惑わされそうになったとしても「ちょっと待って、ではウクライナの市民の安全はどうなる?」と必ず立ち止まることができるだろう。

 対して、外からの意見を引き写し続けている人たちはこれからも「誰を信じればよいのか? 何を信じればよいのか?」という戸惑いから自由になることはできない。高度な情報戦争の中で右往左往することになるであろう。

 ヘーゲルが(樫山欽四郎の解説曰く)「内容を内容自らの自己によって動くようにして」、「そしてこの運動を観察する」という態度を求めている理由がここにある。

 競技ディベートでは、相手の主張の問題点を指摘することと自分の主張を説明することとを明確に区別している。弁証法では特に前者を、真理の探究の方法として重視しているということができる。

 外部からただ別の意見をぶつけて、元々あった前提も考慮もすべて無に帰してしまうような否定は、相手をやっつけることを重視するレスバトルでは有効なのかもしれないが、真理を探究する手段としての弁証法的な観点からすると全く役に立たないものであると言える。


 皆さんも一度、自分の意見はどこから来たものなのか、どれだけ自分で吟味してみた意見なのか、振り返ってみてはいかがでしょうか。

 キーワードは「無媒介」と「否定の否定」です。

 以上、弁証法オタクの丸井零でした。



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