22 完璧にさよなら
意識が戻ったとき、最初に感じたのは寒さだった。体が芯まですっかり冷え切っている。そのせいなのか分からないけれど、体のコントロール権をなかなか手にできなかった。手足を動かしたいのに動かせない。目を開けたいのに開けない。まるで脳神経が切れているみたいだ。
このまま一生動けないんじゃないか、なんていう恐怖が脳裏によぎった頃、ようやく指先にかすかな感覚がよみがえった。それをとっかかりに、少しずつ支配権を取り返していく。
全身が正しく己のコントロール下に置かれたのを確認してから、僕は目を開いて起き上がった。ばさりと音を立てて、ブルーシートのようなものが落ちていった。
辺りは真っ暗。ぼんやりと痛む頭を撫でるように、冷たい風が吹き抜けていく。どうやら屋外、それも屋上のようだ。道理で底抜けに寒いわけだ。
待て、なんで僕はこんなところにいるんだ?
(ええと、タイナー准教授のところへ行って、途中で体調が悪くなって、それから――)
どれだけ理性が状況把握に努めようとしても、生理的な反応は問答無用だ。大きなくしゃみが出て、めまいに襲われたと同時、寒気が首筋から腰の辺りまで一直線に下りていって、それからお腹が鳴った。これだけ寒くて空腹で、なんていう悪条件では、もともとたいして回らない頭がもっと回らなくなってしまう。
(とにかく今は帰るか。何時だろう)
見た感じはかなり遅いようだけれど。携帯を探してポケットをまさぐり――そういえばタイナー先生が勝手にいじってたな。あれはいったい何だったんだろう――いつもとは違うところから引っ張り出す。電源を入れるとパッと明かりが点いて、それだけでずいぶんと安らいだ。やっぱり文明の明かりは偉大だな。周りが少し目に入る。やっぱり屋上だ。狭くて古くさくて汚い。どこだろう、ここ? 高さは三階くらいだろうか。近くに川が流れているらしく、ここ最近の雨のおかげで水かさも勢いも増した流れの音が聞こえてきた。
ディスプレイによると、時刻は深夜の一時。もう一度くしゃみ。
「うわ、なんかめっちゃ連絡来てる」
呟いた声はがらがらに掠れていた。かじかんだ指先でたどたどしくロックを開ける。
メールと着信が全部で――何件だ? 全部ウルフからのものだった。最新のもので三分前。こんなに掛かってきていたなら、サイレントモードにしていなければもうちょっと早く起きられたかも。
(それにしても、こんなに連絡を寄越すなんて。何かあったのかな)
普段なら別に夜まで戻らなくても連絡なんかし合わない。それがここまで執拗に連絡をくれたんだ、何かあったに違いない。
すぐに掛け直すべきだな、と判断して履歴からコールボタンを押す。
その直前だった。
「携帯をしまいなさい」
耳朶を打つ冷たい声。頬の真横にひたりと添えられたナイフ。携帯の明かりにぼんやりと照らされたそれは、非現実的な冷たい輝きを放っている。几帳面に磨き上げられた金属に、背後の人物の顔が映り込んでいた。
タイナー准教授――。
赤いレインコートのフードを深く被って、顔は三分の一ほど隠れている。けれど、この距離で顔を見間違うはずがなければ、その声を聞き違うはずもない。
「速やかに携帯をしまいなさい」
僕は唾を飲み込んだ。闇の中から体内へと忍び込んできた、あるいは腹の奥底のどことも知れない場所からこみあげてきた、おびただしい数の恐怖の群れが、あっという間に全身へ回っていく。酸素と二酸化炭素の間に恐怖が混ざり込むとこんなにも呼吸がしづらくなるなんて!
「携帯をしまいなさい」
僕は震える手で携帯を閉じ、ポケットに落とした。
「そのまま真っ直ぐ歩きなさい」
いったん光を見てしまった目は、闇の向こうをはっきりと映してくれなかった。真っ直ぐ歩いた先に何があるっていうんだろう。でも疑問に思うことなんか許されない。頬の真横の凶器は、暗闇に沈んでもなお強烈な存在感をもって僕の精神を圧迫する。
「早く」
軽く背中を押されて、僕の足はふらりと前に出た。心臓がばくばくと鳴っている。めまいがする。吐き気もひどい。
こうなってしまったら、過程はさておき、結果は火を見るより明らかだ。タイナー准教授が犯人だった。僕はそれと知らずに彼に近寄って、まんまと罠に掛かったというわけだ――罠? 自分の思考に自分でぞっとした。罠と言うことは、これは……。
ほとんどすり足のように進んでいたのが、果たして功を奏したと言っていいのだろうか、僕は足裏の変化を敏感に察知して立ち止まった。
爪先の向こうに何も無い。目をこらせば、ぼろぼろに錆びた鉄製の手すりが斜め下に向かって伸びているのが分かった。
階段だ。
僕の脳裏に恐ろしい想像が、いや、これはもう想像じゃない。百パーセント的中する未来予知に近しい映像が浮かび上がってきた。僕はこれから転落死させられる。三つ目の呪いが出来上がる。そうして彼はのうのうと逃げ延びるつもりなのだ。すべてを呪いのせいにして、ウルフをスケープゴートにして――。
「手を離しなさい」
本能的に掴んでいた手すりを離すように命じられる。
「先生、あの」
「余計な口をきくな」
ぴしゃりと言われて逆らえず、言葉を飲み込んだ。ナイフの先が頬の辺りで揺れる。
「手を離しなさい。早く」
いっそナイフで刺されたほうがいいんじゃないか、なんて思いがわずかにあった。そうすれば呪いにはならない。僕は明らかに誰かに殺されたと判断されて、ウルフは犠牲にならずに済む。けれどそんな殉教者のような勇気を僕は持ち合わせていなかった。ただ、ほんの少しでいいから、己に迫ってくる死を遠ざけたくて仕方なかった。もうほとんど確定しているのに、一秒でも後回しになれば夢から覚めるのではないかと期待している。
かすかな風圧を感じるほどの近くで、蝿の羽音のような囁きが耳元を飛び回っていた。
「大丈夫、まだ間に合う。完璧でいられる。この子さえいなくなればあの魔法使いを追い出すことなんて簡単なんだ。そうすればすべて無かったことになる。僕は完璧なままだ。理想のまま、完璧なままでいられる――」
すぐ真横にあるナイフの先が神経質に揺れている。それに少し目を取られて、
「手を離せ!」
悲鳴のような声に鼓膜を貫かれた。驚いた僕の手がまんまと手すりを手放す。
その瞬間に背中を思い切り押された。声は出なかった。まして目などどうして開けていられようか。体が宙に浮いたが浮遊感はあまり感じなかった。心臓を含むすべての内臓が百分の一に収縮する。頭を守る位置に腕が動き、その肘の辺りに衝撃。続いて背中を打って息が詰まった。空気抵抗と摩擦力よ、もっと強くあってくれ、なんて祈ったのは初めてだ。けれど急にそれらが強まることなどなく、当然僕の落下は止まらなかった。階段の折り返しの部分だろう、柵にぶつかった音が響いて、しかしそれでもまだ落下が止まらない。
今度は完全な浮遊感。真っ直ぐに落ちていく。川の流れる音。ああ、階段の真下が川なのか。手すりが風化していて壊れたんだ。いや、壊れるように細工してあったのだろう。完璧主義者の彼が、僕を確実に殺すために。
僕は落ちていく一瞬の間にいろいろなことを考えたようだった。けれどもうすべてが遅いのだ。何を思ってもすべては無に帰する。
頭から落ちていった僕は――急に胸の辺りに衝撃を受けて、さっき詰まらせた息を勢いよく吐き出した。水の中じゃない、と理解するより早く逆向きの重力が掛かって、慣性の法則に従った内臓が大きく揺れ動く。空っぽの胃が情けない悲鳴を上げた。
落下が止まっている。水の中にいるわけでもない。いったい何が起きたのだろうか、と混乱する僕の耳元に、切羽詰まった声が届いた。
「ロドニー! 無事か?!」
僕はぱっと目を開けた。
――目の前が真っ赤になった。
そう思ってしまったほど、彼のロングコートは夜闇の中であっても鮮やかだった。まして九死に一生を得た直後ならなおさら、その色は鮮烈に網膜に焼き付く。
「ウルフ」
僕が声を絞り出すと、彼はひどく荒くなっていた息を落ち着けるように大きく溜め息をつき、ちょっと咳き込んだ。それからもう一度溜め息。
ようやく周りが見えてきた。僕は彼に抱きかかえられた格好で、宙に浮いているのだった。
宙に浮いているのだった。
冷静さを取り戻した彼の声が鼓膜を打つ。
「そのままじっとしていてください。何も考えないで」
「……了解」
僕はその指示に大人しく従うことにした。魔法の原理はこの間教えてもらったとおりである。だとしたら、今まさに魔法に触れている僕が、“箒が空を飛ぶなんてあり得ない。浮力とか揚力とかどうなってるんだろう”なんて考えたら影響が出てしまうかもしれないのだ。
「ロドニー、考えるなと言ったでしょう!」
「あ、ごめん!」
僕らはふらりと傾いて、緩やかに落下し、僕がついさっき転がり落ちたばかりの踊り場の上に不時着した。
僕はそのままずるりとへたり込んで、立ち上がれなくなった。命の危機を脱したのだ、という理解が体に染みていく。体温が急激に上がる。どっどっどっどっ、と早鐘を打っていた心臓が少しずつ落ち着いていく。
「さて」
ウルフがすっと立ち上がり、屋上のほうを見据えた。その手の中に収まっていた箒が瞬きの内に消える。
「そこにいらっしゃるのは、タイナー准教授ですよね?」
静かな声。この距離と暗さでは階段の縁に呆然と立つ人物の顔など見えないはずなのに、彼の言葉は確信に満ちていた。
「もう逃げ場はありませんよ。すぐに警察も来ます。大人しく捕まってください」
車の止まる音がすぐ近くに聞こえた。おそらくサマーヘイズ刑事とルーサー刑事を呼んであったのだろう。
いい加減暗闇にも慣れた僕の目が、タイナー准教授の影を捉えた。右手がすっと持ち上がる。その手に握られている物のことを思い出して、血の気がさぁっと引いた。
「まずい、自殺する!」
僕がそう叫んだとほぼ同時だ。
「
鋭い一声とともにウルフの左腕が真横に振られた。金色の光がぱっと飛び散る。どんな文明の灯りとも違う美しさをたたえ、同時に不気味さを孕んだ、無二の輝き。
タイナー准教授の影が不自然によろめき、どこか遠くで金属音が鳴った。
「容疑者死亡で幕引き、なんていう結末、
ウルフはひどく苛立った声音でそう言って、手にしていた細長い杖を手品のようにしまいこんだ。
カンカンカンカン、と階段を駆け上がってくる二人分の足音。ルーサー刑事が勢いよく僕らを追い抜かして、タイナー准教授を捕らえた。遅れて上がってきたサマーヘイズ刑事が、僕とウルフの肩を順番に叩き、ゆったりと上がっていきながら携帯電話を手にする。
しばらくして、辺りはパトカーのサイレンに埋め尽くされた。僕らはお互い黙ったまま、警察の指示に従ってパトカーに乗りこんだ。
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