21 運命が歯車を回し

 僕が起きたとき、向かいのベッドはこんもりと盛り上がって微動だにしなかった。結局昨夜は何時に戻ってきたのだろう。声を掛けるのははばかられて、僕はそっと部屋を出た。何時に戻ってきたにしろ、しばらく起きてこないことは確実だ。それまでにできるだけのことをしておきたいからね。幸いにして、今日の午前は授業がない。存分に調べ回ろう――といっても、僕にいったい何ができるだろうか。


(アリバイを調べ直すなら、先生たちの住んでいる場所が分からないとやりにくそうだな)


 外に出ると、小粒の雨がぽつぽつと降っていた。このくらいなら傘を差すまでもない。ウインドブレーカーのフードをかぶってキャンデラ・ストリートを上っていく。

 エイト・ブリッジの坊主頭を訪ねると、彼は赤く腫れた目をこすりながら出てきた。昨夜はかなり遅くまで起きていたらしい。ひどく眠そうだ。


「あれから、怪奇事件は起きてない?」

「ああ、おかげさまで」とあくびを挟んで「今日は魔法使いと一緒じゃないんだな」

「あいつ寝起きが悪いんだ。まだ寮で寝てるよ」

「へぇ、なんか意外だな」


 同感。ウルフはどんなことでも人並み以上にこなすように見えるからね。案外そうでもないんだけれど。

 改めてお礼を言っておいてくれ、と言った坊主頭に頷いて、僕は本題を切り出した。


「実は、頼みたいことがいくつかあって――」


 僕のお願い事のすべてに、彼は快く頷いてくれた。


 タイナー准教授の家も、オブライエン先生の家も、ここからさして遠くはなかった。みんなもだいたいの位置しか知っていなかったけれど、素人探偵にはそんなもので十二分。部屋番号まで分かったところで、呼び鈴を鳴らす勇気などないし。


(どうしようかな)


 僕一人で行こうか、それともウルフを起こして行こうか。迷った挙げ句、時間を見て一人で行こうと決意した。普通の時間に寝ても朝八時と正午の区別がつかないような奴なんだ、夜更かしした翌日では余計に駄目だろう。万一起きていた場合のために、さっき得た情報をメールするだけしておいた。……携帯もめったに見ない奴だから、起きていたとして気づかないかもしれないけれど。

 オブライエン先生のフラットを最終目的地に、タイナー准教授のアパートメント経由で行くという行程に決めた。北から東へぐるっと回って寮に戻るつもり。戻った頃には十一時くらいになっているだろうから、さすがのウルフも起きているだろう。


(いったい、誰が犯人なんだろうか)


 ぼんやりと考えながら歩き出す。

 誰かを犯人だと証明するために必要なものは何だろう?

 たとえば、持ち去ったワイヤーロック――そんなものとっくに捨ててるか。事件当夜や朝に校舎へ入る人物の目撃証言――あったら警察が先に見つけているだろうね。


(もう一歩足りないんだよな、何にしたって)


 動機も足りなければ証拠も足りない。真相に迫っているという感じがない。僕の推理力が足りないせいだろうか? それとも情報不足? そうでなければ――


(……こっちも事故だったりして)


 僕はぶんぶんと頭を振ってその考えを追い出した。殺人事件でないのは悪いことじゃない。事故であってほしいと望む面も無いとは言えない。幽霊の証言なんてあってないようなものだ。

 けれど、感情のために事実をねじ曲げてはいけない。それは研究成果のためにデータを改竄する行為に等しい。打撲痕と血痕の件、ワイヤーロックの件、確かな証拠が目の前に揃っている。分からないからって思考を放棄してはいけない。

 僕は冷静になるために、メモ帳を開いてこれまでの情報を見返した。

 十三日の金曜日、夜十時半頃、ホール教授が階段から転落して死亡。ホール教授はその直前、十時頃から散歩に出ていた。その日は大雨だった。遺体には普通よりも多くの打撲痕があり、また引きずられた血痕などもあったことから、一度以上落とされたのではないかと推測できる。


(っていうことは、ホール教授を持ち上げられるような人じゃないと無理ってことか)


 僕の頭の中には、まずオブライエン先生の熊のようながたいと、警官を投げ飛ばしたというエピソードが浮かんできた。次に、取っ組み合ったときのジュールの力強さ。


(でも、ホール教授は小柄だったから、たいがいの人ができそうだな。女性陣は無理そう、ってくらいか)


 同じ十三日の朝、仮校舎のキッチンが荒らされ、汚水やゴミが巻き散らかされ、勝手口の鍵が壊されていた。ホール教授とタイナー准教授、学生四人が片付けた。鍵は修理が間に合わなかったけれど、学生が独断で自転車用のワイヤーロックを掛けていた。犯人はそのことを知らなかったために、おそらく窓から侵入しホール教授を殺害した後、鍵を使って勝手口から出て、ワイヤーロックは持ち去った。


(そっか、あらかじめ綺麗にしておけば、自分の足跡を消した痕跡も残さずに済むからね。考えてるな)


 よく考える慎重さは理詰めを好むオブライエン先生っぽい。姑息な感じはジュールを彷彿とさせる。

 そんなことを考えながらぶらぶらと坂を上っていたら、タイナー准教授が住んでいるというアパートメントの前に着いていた。生け垣の傍らに立ち止まる。つるりとした白が基調の近代的な外観。幽霊なんか絶対に出なさそう、という点で僕からの評価は非常に良い。歴史的な評価は一切受けられないだろうけど。


(これだけ近代的な建物なら、防犯システムはきっちりしてるだろうな)


 携帯からウェブにつないで、アパートメントの名前で検索を掛ける。うわ、分かってたけど、かなりいいお家賃だ。防犯対策はばっちりだという謳い文句付き。アパートメントの管理者は『モフェット・グループ』。


(あれ、なんかどっかで聞いた覚えがある、っていうか見覚えがあるロゴマークだな)


 知ってるはずなのに思い出せない、ってなかなか嫌な感覚だよね。仕方がないから再び検索をかけて、『モフェット・グループ』のホームページへ。すっきりしたデザインの見やすいページが出てきた。どうやら、大型建築物のデザインから建設、そして管理まで、総合的に取り扱う企業であるらしい。

 ニュースの欄の最新記事に、


『グランリッド大学の補修工事を請け負いました』


と書かれていて、それで思い出す。


(そっか、あの工事車両の)


 見覚えがあって当然だった。

 ホームページには恰幅の良い男性の写真があった。四十代くらいかな。ヴィクター・モフェット――この人が社長らしい。一九八六年ハイドン校卒、一九九〇年グランリッド大学卒、そして家業を継いで、二〇〇〇年に建築賞がうんたらかんたら……そんな輝かしい経歴がつらつらと書かれている。これは貧乏人の金持ちに対するひがみなんだけどさ、なんとなく胡散臭く見えてしまう。わざとらしい笑顔とか、大きな金色の指輪とか、光沢のある青いネクタイとか。

 ホームページ以外のサイトをざっと眺めた限り、評判は微妙。最近は特に業績が悪いらしい。無理もない。


「なんか悪いことして儲けてそうだもんな」


 なんてね。って、そんな顔だけで判断した偏見まみれのことを呟いた直後だったから、


「君」


ぽんと肩を叩かれて僕は飛び上がった。


「ああ、すまないね、驚かせたようで」


 慌てて振り返ると、タイナー准教授が下手くそな微笑を頬に貼り付けて立っていた。ほとんど飛び出していた心臓を元の位置に押し込んで、僕は軽くお辞儀をする。


「こんにちは、タイナー先生」

「こんにちは。今日はウルフくんと一緒じゃないんだね」

「はい」


 僕は苦笑しつつ頷いた。なんだか僕らは二人一組ニコイチでカウントされるのが通例になりつつあるようだ。


「こんなところで何をしていたんだい?」

「ああ、いえ、別に……たいしたことではないんですが」


 まさか「先生のアリバイを確認しに来ました」とは言えないなぁとか思って、僕は咄嗟に変な誤魔化し方をしてしまった。普通に「散歩していました」って言えば良かったのに。僕はアドリブが苦手なんだ。

 案の定、タイナー准教授は僕を探るように見つめて言った。


「もしかして、まだホール教授の件について調べているのかい?」


 答えあぐねる僕に、先生は古いゲームグラフィックのような角張った微笑みを浮かべる。


「もし時間があるようなら、上がっていきなさい」

「え?」

「私にできることはそう無いが、呪いではないことを証明する手伝いくらいはできそうだから」


 驚いた、まさかそんな申し出をいただくなんて! でもこれは願ってもないチャンスなんじゃないだろうか。もしかしたらまだ明かされていない秘密を聞かせてもらえるかもしれないし、勝手口の鍵の件や何かを詳しく教えてもらえるかもしれない。


「ほら、来なさい」

「はい」


 僕は逸る気持ちを抑えつつ、小走りに先生の後を追った。


 自動ドアをくぐってエレベーターで五階へ。セキュリティーはばっちり、という謳い文句の通り、どこにも防犯カメラがきっちりと付いていた。これじゃあタイナー准教授のアリバイは完璧だな。

 外観から想像したとおりの美しい外廊下。眼下にヒューバート・カレッジとセント・ジェローム・カレッジを一望しつつ進み、一番奥が先生の部屋だった。突き当たりに、壁に埋もれさせて目立たないようにした扉があるのが目に入る。保守点検か、非常用の通路だろう。


「どうぞ」

「お邪魔します」


 中までデザインの一部なのだろうか、と思ったくらい、その部屋は整然としていた。もちろん、元々の内装だって外観に合わせて綺麗なんだろうけどね。四人家族が平気で使える広さで、居間は二階分の吹き抜けになっている。一階と二階にそれぞれ二枚ずつ扉があった。寝室と浴室と、あとはなんだろう? 僕の庶民的な脳みそではそれ以外にどんな部屋が必要なのか、思いつくこともできなかった。テラスに出られる大きな窓が四枚。ガラス製のローテーブルと黒革のソファが一組。洗練された都会の空気を感じさせる調度品の数々。

 そして何より僕の度肝を抜いたのは、それらすべてに完璧な掃除が行き届いていたことだった。たぶん、白い手袋をはめて指を滑らせてみても、ほこりなんかひとかけらだって付かないんじゃないだろうか。本当にここに人が住んでいるのか、疑ってしまうくらいに清潔だ。


「そこに座っていて」


と先生がソファを指さした。

 完全に萎縮してしまった僕は、おずおずとソファに近付いてそっと腰を沈めた。身の置き所がない、ってこういうときのことを言うんだろうね。どこを見ていたらいいのかも分からなくて、あちこちに視線を飛ばしてしまう。ずいぶん大きなテレビだなぁ、高そうだ。棚にはメダルが飾られている。二〇〇六年、ボルダリングのアマチュア大会、準優勝。意外な特技を持っているんだな。てっきりインドア派だとばかり思っていた。ごつい双眼鏡もあるし、案外アウトドア派なんだろう。分厚い本の数々は先生の著書だろうか、それとも先生のお父さんのもの? P・タイナー、だけでは判断しかねる。ウルフが読んでいた本は見当たらなかった。

 コーヒーの香ばしいにおいが鼻先に届いて、僕ははたと我に返った。先生がコーヒーカップを音もなく置く。


「コーヒーしかなくてすまないね」

「いえ、お気遣いなく」


 どうぞ、と勧められるがままにカップを持ち上げた。嗅いだことのない香り。いかにも高級そうな味がする(といっても、僕のバカ舌は“未経験の味”としか教えてくれないから、本当に高級品なのかは分からないけど)。


「砂糖とミルクは?」

「結構です。ありがとうございます」

「それで、どこまで調べたんだい?」


 僕はちょっとだけ迷って、けれど正直に言った。


「こんなことを言ってはいけないかもしれませんが……ホール教授は誰かに害された可能性が高いと思っています」


 タイナー准教授はぎゅっと眉をひそめた。


「ずいぶんと穏やかでないね。どうしてそんな結論に?」

「ええと」


 どこから話したらいいものだろうか。頭の中を整理する間の手持ち無沙汰な感じを、コーヒーをすすることで誤魔化す。


「アンドリューズの転落の件が、昨日、幽霊によって引き起こされた事故だと判明しました。それで、二件の間に関連がないことが分かったんです」

「ほう」

「そのうえ、ホール教授が亡くなった金曜日の朝、荒らされていたキッチンの片付けをした生徒から話を聞けたんですが、その人が壊された鍵の代わりにワイヤーロックを掛けておいた、って言っていて」


 そう言うと、タイナー准教授は細い目を見開いた。白目と比べるととても小さく見える瞳がぐらりと揺れる。


「ワイヤーロック」

「はい」

「私が現場に行ったときにはそんなもの見当たらなかったな。そうか、学生があのワイヤーロックをね。驚いたな」


 先生はコーヒーをすすってから「それで?」と先を促した。


「ええ、ですから、侵入者があったことは間違いないんじゃないか、って。おそらく侵入者は、学生が掛けたワイヤーロックを、ホール教授が掛けたんだと思い込んで、持ち去ったのでしょう」

「ふむ、自然な考えだ」


 ソファにゆったりと背を預けて、先生は憂いのようなものを眉間の辺りに滲ませた。


「しかしそうすると、本当にホール教授は……」


 後の言葉は続かない。タイナー准教授は最初からずっと事故だと信じていたようだったから、ショックもひとしおだろう。

 僕は暗く凪いだ沈黙の海をコーヒーを飲みながら眺めた。周囲の音をすべて飲み込むような、黒々とした海。波一つ、しぶき一つ立たない。そこに僕まで吸い込まれていくような感じがして、くらりと目の前が揺れた。


「おや、どうしたんだい」

「え?」

「顔色が悪い。どこか、具合でも?」


 そう言われた瞬間、自分の体の不調に気が付いた。頭とまぶたが重い。脳みそが縮んで、頭蓋骨から剥がれていくような感じがする。三日徹夜した朝のような気分だ。痛いわけではないけれど、意識を保っているのがひどく難しい。僕を心配する先生の声が遠く向こう側にある。ヘッドフォン越しに聞いているみたいだ。病院まで送っていこう、って言われたから、僕は首を横に振った。大丈夫です、寮に戻って休みます。持病は? ありません。せめて寮まで送らせてくれるかね、放ってはおけないよ。すみません、ご迷惑をお掛けして――そんなことを言いながら、先生の肩を借りてアパートメントを出た。

 後部座席に座った途端、僕ははたと思いついた。そうだ、ウルフに連絡しておかないと。こんな状態で帰ったら驚かせてしまう。こんなこと僕だって初めてで、いったい何が起きているのかまったく分からないけれど。きっと慣れない大学生活の上にこんな事件が重なって、気づかないうちに疲労が溜まっていたのだろう。それが急に噴出したに違いない。

 おぼつかない手を無理に動かして、携帯電話をポケットから引っ張り出す。こんな朦朧とした頭では、四桁のパスワードを打ち込むことすら大仕事だ。

 歯抜けのパラパラ漫画のように明滅する意識をどうにかたぐり寄せて、ロックを解除したときだった。

 手の中から携帯が消えた。

 落としたのか?

 いや、運転席のタイナー准教授が僕の携帯を持っている。まるで自分の物のようにボタンを押して操作している。なぜ? どうして先生が僕の携帯をいじっている?

 その混乱に足下をすくわれるようにして、僕の意識は急速に遠のいていった。


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