9 噂には真偽がいらないから

 僕はふらふらと曇天の下にさまよい出た。行くあてはないし、お腹も空いていないけれど、帰ってきた彼とまた二人きりになるのはどうしても嫌だった。あの重苦しい空気。僕にとっては煙草の煙よりも吸いにくくて、嫌いな空気。

 頭の中と腹の中がぐるぐるしている。たくさんの情報が頭の中でごちゃごちゃに混ざり合い、いろんな感情が腹の中でどろどろに溶け合っている。もうどうにかなってしまいそうだ。

 ウルフが人を殺したかもしれない。彼が、人を――。

 ――あんなに紳士的で理知的だった彼が?

 いや、ああ、そうだ、この一ヵ月間に僕が見ていた彼の姿は、すべて間違っていたのかもしれないのだ。冷静で紳士的な姿はただの演技で、裏に激情を隠し持っていたのかもしれない。あのときの幼稚な叫びのように。あるいは一般人への軽蔑と怨恨を忍ばせていたのかもしれない。あのときの高慢な言い回しのように。

 いや、でも、それなら僕に語ったのは全部嘘だったのか? 僕と話すときの慎ましさも、完璧すぎるくらいの客観性も、ティムに見せた柔らかさも? いったいどこまでが本当でどこからが嘘なんだろう。全部が本当? それとも全部が嘘?

 キャンデラ・ストリートは閑散としていた。曇天に押しつぶされようとしているみたいに。あちこちに残っていた水溜まりは空を写して憂鬱にくすんでいる。僕もそれと同じ表情をしていることだろう。鏡を見なくても分かる。

 ふいに犬の鳴き声が聞こえた。何の気なしに顔を上げたのとほぼ同時、


「あら、お若い紳士さん。また会ったわね」


 一瞬立ち竦んでしまったのを誤魔化そうと、僕は必死に笑顔を作った。


「こんにちは、マダム・バルコニー。悪くない天気ですね」

「そうね。雨が降らないだけ上出来だわ」


 マダム・バルコニーは相変わらず上品な格好で、控えめな花柄のスカーフを巻いていた。同じ席に三十代後半ぐらいの男性が座っていて、僕を面白そうに眺めている。彼も例に漏れずかなり裕福そうな感じだ。すごく高そうな銀の腕時計が目についた。


「ちょうどあなたのお友達の話をしていたところなのよ」

「え」

「今日は一緒じゃないのね。残念だわ。会えたら良かったのに。ねぇ」


と、隣の男性に話を振る。彼はそこまで残念でもなさそうな調子で首を振った。


「仕方ないね、そういうもんだ。そりゃ、会ってみたかったけどね。エイブラハム・ウルフそっくりの魔法使いさんってやつに」


 その言葉が聞こえた瞬間、僕の中で何かがかちりとはまりそうな気がした。何度やっても答えが合わない計算式の、間違っている部分に気が付いたみたいな感覚。


「それで、お若い紳士さん」


 マダムに話しかけられて、僕は慌てて現実に戻ってきた。


「あなたはどうしてこの世の終わりみたいな顔をしているのかしら」

「えっ、あ、ええと……実は……」


 話そうとしてふと思い出す。そういえばマダムはホール教授と仲が良いって言っていなかったか? けれどこの様子では、ホール教授の死が伝わっているようには見えない。とすると、僕が不幸のメッセンジャーになるってわけだ。

 僕の顔色はやはり悪かったらしい。マダムが心配げに「どうしたの? 大丈夫かしら」と聞いてくる。

 僕は腹をくくった。ばくばくと鳴る心臓を押さえつけて、無理矢理口をこじ開ける。


「実は、さっき警察が寮に来たんです」

「まぁ。どうして?」

「その……ホール教授が、階段から落ちて亡くなった、と」


 マダムがゆっくりと息を呑んだ音が聞こえた。


「それ、本当?」

「警察が嘘をついていない限り」


 マダムは口元を覆って黙り込んでしまった。男性が彼女の肩に手を置く。僕はひどく悪いことをした気になって、じっと古い石畳の隙間を見つめていた。ティムが心配そうな声でか細く鳴いて、女主人にすり寄っていくのが見えた。

 しばらくして、


「ねぇ、お若い紳士さん」


まだわずかに震えを残しながら、マダムが言った。


「それとあなたに、どんな関連があるのかしら。どうして警察はあなたのところに来たの?」


 聞かれないはずがなかった。僕はできるだけしどろもどろにならないよう気をつけながら話した。先週、セント・ジェロームの学生が階段から落ちたこと。その学生が落ちる直前、魔法使いに呪われたと主張していたこと。ホール教授が魔法使いの入学に反対していたこと。そのせいで彼が呪ったのではないかと疑われたこと――多少つっかえつっかえになったのは許してほしい。まだ僕の中でも整理がついていないんだから。

 マダム・バルコニーはすべてを聞き終えると、鋭く僕を見据えた。


「それで、彼は?」

「やってない、そんなことは絶対にしない、って、そう言ってました」

「そう。で、あなたはそれを信じてないってわけね」


 フェンシングの剣に貫かれたような衝撃を胸元に受けた。


「それは……」


 彼女の淡い緑の瞳が僕を射貫くように見ている。僕はうつむいた。


「すみません、僕……どうしたらいいのか、分からなくって……いったい何が起きているのかも、何も、分からなくて……」

「“Where the senses fail us, reason must step in.”」急にそう言ったのは男性だ。「これ、誰の言葉だったっけ?」


 咄嗟のことに、僕は答えられなかった。ウルフならあっさり答えただろうけど。どこかで聞いたことがあるような気はするんだ。誰だったかな?

 男性は僕に微笑みかけた。


「ま、誰でもいいや。今の君に必要そうな言葉だと思ったからね。俺からのプレゼントだ」

「それじゃあ、私からも一言」マダムがきゅうと目を細めた。「違いに目を瞑ることと、違いを受け入れることとは、似ているようでまったく別のことよ」

「それは誰の言葉?」と男性。

「私」


 マダムはふふ、と気丈に笑ってみせた。


「さて、お若い紳士さんの情報が本当なら、ここで悠長にしている場合じゃないわね。残念だけれど失礼するわ」

「そこまで送るよ、マダム。それじゃ、また縁があったらお会いしよう、お若い紳士くん」

「またね」


 颯爽と去って行く二人と一匹を、僕は呆然と見送った。

 パブの中から出てきた店員が淡々とテーブルを片付けていく。『モフェット・グループ』と書かれた大型の工事車両が三台続けて走り抜けていった。その振動に刺激されて脳内の引き出しがバンッと開いた。

 ――センスが役に立たないところには、理性が介入すべきである。

 そうだ、あれはガリレオ・ガリレイの言葉だ。

 僕は今感覚センスを失っている。人を見る目も、傾けるべき耳も、噂を吟味する舌もない。真と偽を嗅ぎ分ける鼻もなければ、自分の心が温かいか冷たいかも分からない。最悪の状態だ。

 だからこそ、理性を使わなければならない。

 けれど、このままでは情報があまりにも少なすぎる。こんな無知な状態では、働くはずの理性も働かない。魔法のこと。魔法使いのこと。事件のこと。彼自身のこと。僕の目の前にあるすべての謎を解き明かすために必要な、あらゆる情報を集めて、知って、学ばなければ。

 僕は水溜まりを蹴飛ばしながら坂を駆け下りた。


 さすがに今すぐ会いたくはなかったので、ウルフがいないことを祈りつつ図書館に行った。

 噂はすでに広まっていた。当然だ。教授の死に警察の訪問。広まるためのインパクトは充分すぎる。そして僕は、ウルフを取り巻く環境の過酷さが昨日まではまだ序の口であったことを知った。


「なぁ、あいつがその……本当なのか?」


 直接的な聞き方はなくなった。半笑いもなくなった。


「お前大丈夫か? やばそうだったら部屋貸すから、避難しろよ」


 誰もが本気で僕のことを案じてくれているのが分かった。そしてそれは、それだけウルフが疑われている証だった。疑念は不安を呼び、不安は恐怖を呼ぶ。恐怖が爆発したときのことなんて考えたくもない。

 僕がなんて答えたか、って? ――本当かどうかは分からない、でも大丈夫、ありがとう。って、誰に対してもそれだけ言った。これが今の僕の偽らざる本音だ。

 パソコンを使える個人ブースを借りて、僕はマウスを握った。


(さて、まずは……ウルフのこと)


 丹念に思い返す。サマーヘイズ刑事はなぜか彼のことをまったく疑っていなかった。その理由が分かれば、少しは霧が晴れるような気がした。


(二〇〇八年一月、殺人事件)


 ヒントはたったのこれだけ。これだけで分かることが何かあるだろうか? 甚だ疑問だけれど、他にできることもない。検索画面にヒントを打ち込んで、エンターキーを押し込む。


(ま、駄目で元々だ。何か引っかかればラッキーだと――っ)


 ブラウザの一番上に表示された記事を見て、僕は思わず息を呑んだ。


『英国随一の名俳優エイブラハム・ウルフ、殺害される』

「そうか、ちょうど二年前か……」


 この事件のことはよく知っている。知らない人なんていないだろう。僕はそこまで熱心に映画やドラマを見るほうではないけれど、それでもエイブラハム・ウルフを知らないなんてあり得ない。それくらいの大スター。

 その彼が突然、何の前触れもなく、何者かに殺されたのだ。

 もちろんとんでもないニュースになった。連日のように報道がなされ、学校でも話題は尽きなかった。


(うん、よく覚えてる。学校で一番厳しくて怖かった先生が休んだくらいだから)


 たいしたファンではなかった僕ですら、衝撃を受けてしばらく呆然としたくらいだ。大ファンだった人たちはあちこちで仕事を休み、半ばストライキのような混乱状態になっていたことを思い出す。

 適当なサイトを開いて、ぐるぐるとスクロールしていく。


『二〇〇八年一月二十一日、ロンドン郊外においてエイブラハム・ウルフの遺体が発見された』


 もし、サマーヘイズ刑事の言っていたのが、この事件のことだったとしたら。


『魔法使いによる犯行と言われている』

『現場から煙のように消え去る人物が目撃された』

『魔法庁は明言を避けている』

『その態度をキャベンディッシュ貴族院議員が非難』


 矛盾なく説明ができる。なぜ彼があんなに動揺して、あんなに強く否定したのか。どうしてサマーヘイズ刑事が、半ば盲目的に見えるほど彼を信じたのか。


『猟奇的な殺人だったという噂も出たが、捜査当局は否定』

『犯人は未だ見つからず、このまま迷宮入りか』

(――ウルフは、彼の――)


 事件の概要の後はギャラリーになっていた。在りし日のエイブラハム・ウルフの姿を収めた写真が何枚も貼られている。黒い瞳に黒い髪。ややオリエンタルですっきりとした顔立ち。イケメンと言うよりはハンサムって感じだ。背が高くてスマート。絵に描いたような二枚目俳優。慎ましい、柔らかな微笑。幼い、ぶすっとしたふくれっ面。高慢に、顔を歪めた冷笑。朗らかに、歯を見せた満面の笑み。悪役もヒーローも、スパイも魔法使いも、幅広く演じて見せた大俳優――


「あ」


 ――どくん、と心臓が跳ねた。

 疑念が確信に近付く。

 二つの式が連結する。

 最後の一枚。カメラに向かって舌を出して笑っている壮年の彼は。

 どこかで見たことがあるような、真っ赤なロングコートを羽織っていた。


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