トワイライトと魔法使い

井ノ下功

セント・ジェロームの転落

1 一人きり

 二〇一〇年八月二十七日、僕はグランリッド大学の物理学系ヒューバート・学寮カレッジ本校舎に足を踏み入れて、そしてこの大学に合格してしまった・・・・己の幸運・・を心から嘆いた・・・


「もう駄目だ……」

「おいおい、誉れ高きグランリッドの新入生が、そんな景気悪い溜め息をつくなよ」

「だって……」


 こわごわ、もう一度辺りを見回す。

 灰色の石でできた見るからに堅牢な感じの校舎は、定規で描いたような正方形をしていた。真上から見たら、大きな灰色の正方形の中央に小さな緑の正方形があるように見えるだろう。面積の比率は目測でだいたい四対一くらいかな。中庭は青々と茂った芝生に覆われていたけれど、それだってなんだか空々しく見えた。

 砦。そう形容するのが一番しっくりくる。ここは正方形の砦だ。

 一番外側の辺に接する形で教室が並んでいるらしい。内側の辺に接する部分はすべて回廊だ。自然光頼みの廊下は薄暗くて埃っぽくてひどく寒々しい。夏でこんなんでは、冬場などどうなってしまうのだろう。ああ、考えたくもない。

 溜め息が止まらない。


「……こんな、いかにも“出そう”なところで勉強なんて……」


 英国人なら誰もが幽霊好きだと思わないでほしい。僕は生粋の英国人だけど、自他共に認める生粋の怖がりで、幽霊とかそういうものが大嫌いなんだ。心霊スポットに好んで行きたがる奴の気が知れない。

 トム――地元が同じで二つ上の先輩――はケラケラ笑いながら、僕の背中を叩いた。


「英国最古の大学なんだぜ。ちょっと考えれば分かるだろ」

「ホームページの写真はもうちょっと綺麗だったんだよ」

「ああ、まんまとだまされたってわけか。お気の毒様。でもお前、入試のときにもここへ来ただろ?」

「うん。だから絶対落ちたと思ってたんだ」

「それはそれは、見事合格おめでとうございますミスター」


 祝福しているのかからかっているのか分からない笑顔で、トムは僕と肩を組んだ。


「そんなお前に朗報だ、ヘンリー」

「え、なになに?」

「この大学、マジで“出る”ぞ」


 僕は喉の奥で悲鳴を飲み込んだ。


血飛沫レディ・ブラッド・婦人スプラッターだろ、空飛ぶ本と少年の笑い声だろ、それに」

「わーわーわー! やめてくれ、聞きたくない!」


 指折り数えて話し始めたトムを慌てて遮って、僕は逃げるように歩き出した。


「あ、そっちはこの間、インクの神隠し事件があった辺りだな」

「ひぃっ!」


 本能的に飛び退く。その拍子にスーツケースに足を引っかけてすっころんで、その音が回廊のアーチ状の天井にぐわんぐわんと反響した。


「おーい、大丈夫か?」


 僕は冷たい廊下に両手をくっつけたまま、力なく首を振った。ああ、帰れるものなら帰りたい……。

 トムの案内のおかげで、構内の大体のことは分かった。(ついでに、普段どんな怪奇騒ぎがあるのか、ってこともね。こっちはまったくありがたくなかった!)すぐ西隣に神学・哲学系のセント・ジェローム・カレッジがあって、北側に大きな図書館と食堂があった。三階の一室から西側を見下ろしたら、セント・ジェロームは高い塀に囲まれていたけれど、塀の中の一つ一つの建物は小さく、敷地内のあちこちに点在していて、城下町のようにさっぱりと開けていた。こっちのような閉塞感は一切ない。僕があんまりうらやましがるような顔をしていたからだろう、トムは「転学部ってのもありだと思うぜ」と言って、ニヤニヤ笑った。彼は僕が計算以外ろくにできないということを知っているのだ。

 僕は何か言い返す代わりに西側の一角を指さした。


「あの建物は何?」


 一棟だけ、セント・ジェローム・カレッジの塀のすぐ外側に、ぽつんと建っている四角い建物があったのだ。たぶん二階建てだけれど、すぐ傍の塀が高いせいか、なんだか縮こまっているように見えた。


「ああ、あれは昔の教員用宿舎だよ。物置になってたんだけど、今はホール教授の仮校舎になってる。今ちょうど補修工事のシーズンらしくてさ、あちこちでこの手の工事ばっかりやってるぜ」

「ふぅん」

「あそこにも血塗られた歴史があってだな――」

「もう勘弁して!」


 トムは「冗談だよ」とけらけら笑った。

 ヒューバート・カレッジの東側、学生寮のすぐ前でトムと別れる。

 僕は飛び跳ねたくなりながらつるつるの廊下を進んだ。カレッジ(・ホラー)・ツアーが終わったからじゃない(とも言い切れないけど)。補修シーズンの恩恵が思わぬところで僕にも関わりがあったからだ。これから生活をする学生寮、それがこの夏補修されたばかりだったのである。美しい文明の光! 清潔で無機質な壁紙! なんて素晴らしいんだろう。寮がこれならどうにかやっていけるかもしれない。

 僕に割り当てられた部屋は二階の一番奥だった。子どものように思い切り開け放ちたかったのをちょっとだけ我慢して、そうっと押し開ける。同居人はまだ来てないって寮母さんの話だったからね、ノックは割愛だ。

 開けた瞬間、思わず歓声が漏れた。


「わぁ、いい部屋!」


 大学の寮にしてはやや珍しい二人部屋ツインで、その分家賃は安いんだけれど、思っていたよりずっと広くて清潔感にあふれている。一番奥に大きな窓があって、レースのカーテンが掛かっていた。両脇には厚手のグリーンのカーテンがまとめられている。部屋のレイアウトは窓枠の中央を軸に、きっちりと左右対称だ。壁に沿って本棚と勉強机、それにベッド、それから扉があって、クローゼットが手前側の壁に。右手側の扉は小さなキッチンに、左手側の扉はシャワーとトイレにつながっていた。

 なんて上等な部屋なんだろう。このうちの半分にしたって、僕が元々使っていた部屋よりずっと格上だ。女の子がまぶたにつけるキラキラ、あれがくまなく塗りたくられているように見えた。

 右手側と左手側、どちらにしようかなと一瞬だけ考えて、右手側のベッドに座った。眠るときに左手を下にすることが多くて、そうなったとき壁が目の前にあったほうが落ち着くんだよね。でも万一ルームメイトが異を唱えたときに備えて、荷物は広げないでおくことにした。


(ルームメイトはどんな奴なんだろう。留学生だったりして。それはそれで面白そうだな)


 ベッドのスプリングが心地よく跳ねる。僕の心もぼよんぼよんと弾む。さぁ新生活の始まりだ。さっきまではわりと絶望していたけれど、それでもここはグランリッド。本気で勉強をしたいって思った十人中十人が入学を望み、そのうち一人しか入れないような名門校なんだから。幽霊が怖いだなんて言ってられない……いや、嘘だ、怖いものは怖い……。

 さっき聞いてしまった諸々の怪奇現象が脳裏によみがえってきて、僕は一人震え上がった。夜な夜な徘徊しては捕まえた生徒を吊すという血飛沫レディ・ブラッド・婦人スプラッター。授業中にひとりでに飛び回る本と、少年の狂ったような笑い声。

 それに、とトムはとっておきを話す声になって言ったのだった。


『今年の入学者に、魔法使いがいるらしい』


 それを思い出した瞬間、震えがごくごくわずかに遠のいた。

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