雷華

 舞車まいぐるまに立った時、栄柴さかしばめぐりは長い遠回りをしてここに辿り着いたような気持ちになった。巡の人生はひとえにここにやって来る為にあったのであり、ここは彼が供せられる饗宴の場だ。栄柴家の夜叉憑やしゃつきが、真にその価を問われる時だ。

 觸鈴ふれすずを用いて舞う一曲目は、巡が散々稽古させられていた伝統舞奏まいかなず曲だ。なぞるのすら厭わしかった動きを、観囃子みはやしの前で丁寧に披露する。ずっと栄柴の名を軽んじていた人々ですら、巡の舞に魅了されているのが分かる。

 だが、彼らの意識は同時に、九条くじょう鵺雲やくもの舞奏にも引き寄せられている。

 観囃子が観る方向を選べる三つ巴の舞台で、巡と歓心を二分しているのは、九条家の跡取り──九条鵺雲だ。彼も、巡が今舞っているのと同じ曲を、粛々と舞っている。

 正直なところを言うと、彼の舞を視界に入れたくはなかった。鵺雲の舞奏は圧倒的に美しく、それが故に正しかった。あれを目の当たりにしてしまうと、自分の舞奏ではなく、彼の舞奏こそが正しいのだと思わされてしまうようで恐ろしかった。

 ある意味で、彼の舞奏は正解を示すものではなく、こちらに不正解を押しつけるような舞奏であるのだった。その本質に、舞車の上でようやく気づかされた。

 だから、巡に出来ることは、それを撥ね除けることだけだ。

 普段よりもより大きく、派手な動きで舞い続ける。舞車という限られた空間を最大限に使い、こちらに注目を集めるような舞をする。あくまで定石通り美しい舞を奉じる鵺雲とは対照的な、奔放な舞だ。だが、巡ほどの実力があれば、動きが崩れたとは見られないだろう。敢えてその奔放さを選んだのだと、観囃子にしっかりと『理解』させることが出来る。

 観囃子の注目が自分に集まるのが分かる。本当に恐ろしい舞台だ、と巡は思う。歓心の度合いをここまでまざまざと表す場所があっていいものか。

 けれど、どれだけ観囃子の歓心を集めたところで、それだけでは何の意味も無かった。巡は、観囃子分の距離が離れたもう一つの舞車を──佐久夜さくやの方に視線を向ける。

 佐久夜の舞奏はそう上手いものではない。技量としては自分と鵺雲にはまるで及ばず、最低限をこなすことが出来ているという程度だ。だが、少し見つめているだけで呑み込まれそうになってしまう。あそこにあるのは人の形をした貪欲、獲物を呑み込む夜叉の招きだ。その深みに気がついた観囃子は、まるで恐ろしいものを目の当たりにするような目で、佐久夜の舞奏を仰ぎ見る。

 佐久夜の役割は、げきではなく審判者だ。彼こそが真に巡を裁定する者だった。為すべきままに舞奏を奉じる彼の目は、自分に、そして鵺雲にと、寄せては返す波のように動いていく。

 その歓心が欲しいのだ。自分を食い尽くす恐ろしき夜叉と、心中の覚悟で沈んでしまいたい。本当は、こんな風になるはずじゃなかった。秘上ひめがみ佐久夜と栄柴巡は、舞奏なんて何の関係も無い、ただの親友のままでいたかった。けれど、それでは駄目なのだ。心を預けてしまったから、もう引き返せない。

 九条鵺雲の舞奏に、佐久夜が惹かれていることは理解している。至高の舞奏に焦がれる男だ、社人やしろびとの家に生まれた人間だ。あれほどの舞奏を観て、心が奪われないはずがないのだ。

 それと同時に、佐久夜が九条鵺雲という人間にも心を引かれていることも理解してしまった。何しろ、佐久夜は栄柴巡という人間だって、蔑ろにしていたわけではない。親友としての佐久夜は、巡にずっと優しかった。

 佐久夜が鵺雲に相対する時の態度は、どうしたって栄柴巡に対するものと同じなのだ。だから、佐久夜がその人の全てを欲し、慈しみ、それでいて舞奏を一番上に定めることを知っている。貪欲で、容赦が無く、それでいて揺るぎない男だ。

 巡も、器用に心を殺せれば良かった。あるいは、九条鵺雲のように生きてこられたら良かった。栄柴巡としての人生を生きながら、それでも舞奏を心の一番大事なところに置けていたら。

 でも、駄目だった。その位置にいるのは舞奏ではなく、秘上佐久夜になってしまった。けれど、今となっては、その二つに何の違いがあるのだろう? 自分の心の最も柔いところにいる夜叉が、舞奏を求めているのだ。それは、舞奏を最も愛しているということに他ならないのではないだろうか?

 だから、負けられない。何が起ころうと、巡は覡主げきしゅにならなければ。九条鵺雲を打ち倒し、秘上佐久夜の理想を取り戻さなければ。本末転倒も甚だしいけれど、巡は今日で自分の全てが終わっても構わなかった。九条鵺雲に勝つところを秘上佐久夜に見せつけられるのなら、その瞬間を魂に刻み込んでやれるなら、二度と舞えなくなったとしてもいい。

 この烈しさが、栄柴巡の武器だった。九条鵺雲に迫ることの出来る、唯一の牙だ。ここで終わってもいいという覚悟が、巡の中で燦然と輝いている。


 舞車で舞う栄柴巡は、佐久夜の想像を絶していた。

 一曲目に選ばれたのは、遠江國の伝統曲であるのだが、最早そうとは分からないほど大胆に構成し直されている。栄柴巡の激情が──怒りが、そのまま反映されているかのようで、目を逸らせない。

 栄柴家の夜叉憑きの話は、秘上家にも代々伝わる話だ。その舞奏の鮮烈さを、佐久夜はお伽噺のように語って聞かされ続けてきた。

 だが、今までの歴史の中で、これほど素晴らしく夜叉憑きを体現した覡がいただろうか? いや、そんな者はいなかった。今後千年だって現れないかもしれない。栄柴巡は、正しく天才であり、栄柴家を代表するに相応しい覡だった。

 秘上佐久夜がずっと求めていた『栄柴巡』がそこに居た。

 舞車が巡り会いの場であるのなら、佐久夜の運命はそこにあったのだ。かつて生き別れてしまった、離すべきではなかった相手が。

 だが、佐久夜の目は栄柴巡だけを見ているわけではなかった。同じ分だけの距離が離れたところに、九条鵺雲の舞う舞車があった。

 鵺雲の舞奏もまた、佐久夜の魂を震わせる鮮烈さがあった。もし栄柴巡が存在していなかったら、佐久夜は鵺雲の舞奏に自分の全てを捧げていただろう。そのくらい、鵺雲の舞奏は美しかった。ずっと探していた舞奏の『正解』に、九条鵺雲の舞は一番近かったのだ。

 九条鵺雲は佐久夜の方を見ていなかった。彼が見ているのはあくまで観囃子で、栄柴巡でも、ましてや自分でも無かった。そうだ、彼はいつだって答えを知っている。

 彼の舞奏が好きだ。それを認めると同時に、九条鵺雲という人間のことを知りたくなった。栄柴巡という人間と共に過ごした十年余りをも貴んでいるからこそ、その素晴らしい舞奏を生み出す彼の人である部分も喰みたかった。

 人間として幸せに生き、この世全ての恩寵を与えられてなお、舞奏を選んで欲しいのだ。

 だから、佐久夜は鵺雲の心をも震わせたい。

 そう思うと、自分の浅ましい欲に震えそうになる。九条鵺雲は、ずっと押さえ込んでいたはずの自分の本質を暴き、曝け出させてしまった。もし九条鵺雲さえ自分の目の前に現れなければ、巡を傷つけることも、自分の欲深さに気づくこともなかった。

 けれど、佐久夜は彼に出会わなければ良かった、とだけは思えないのだった。

 そうして鵺雲に心を移していると、巡の舞奏が一層烈しさを増した。観囃子の拍手と共に二曲目が始まる。佐久夜も自分の舞を止めないよう、それでも巡と鵺雲の──ある意味での相舞を見定めている。

 三曲目が終わる頃には、観囃子の高揚も最大限になっていた。

 巡は息を切らせ、身体を大きく揺らしていた。一瞬、巡の身体と勝負の行く末が心配になる。

 舞奏披が始まる前に、自分達はいくつかの取り決めをした。その中に、鵺雲が提案した「舞奏披が終わるまで、舞台を放棄しないこと」というものがあった。

「一応の決まりだけれど、ちゃんと示しておいた方がいいかなと思ってね」

 その時はどうしてわざわざそんなことを言ったのか分からなかったが、恐らくはこういうことだ。いくら壮麗な舞奏を奉じたところで、最後まで舞い切れなければ意味がない。そういうことなのだ。巡の体力は大丈夫なのだろうか。舞奏披まいかなずひらきは全五曲を予定している。

 だが、明らかに消耗している様子を見せているのに、巡の奉じている舞奏自体はどんどん洗練されていっていた。まるで、巡の消耗と引き換えに、見えぬ刃が研ぎ澄まされていくかのようだ。

 対する鵺雲はまるで消耗とは縁遠く見える。何曲舞っても、疲労の片鱗さえ見せない。それが、舞奏衣装を身に纏った鵺雲を人ならざるものに見せていた。

 人ならざるものに見えることは、舞奏にとっていいことなのだろうか、と佐久夜は思う。一体観囃子は──人は、同じ人が舞うのとそうではないものが舞うのと、どちらに歓心を寄せるのか。

 今のところは、やや鵺雲が優勢であるものの、巡と鵺雲の歓心は五分といったところだった。佐久夜にとって意外であったのは、観囃子の中には佐久夜の舞奏に歓心を寄せる者も少なくなかったことだ。

 佐久夜のことをじっと見つめる観囃子の存在を、この形式であるからこそはっきりと認識させられる。技術的には拙いはずであるのに、と思うと共に、鵺雲の言葉を思い出す。舞奏はその人間を映す。

 四曲目に入る前に、しばしの休憩が入った。とはいえ、純粋な休息ではない。ここから舞車の位置を変えるのだ。社人の中から選ばれた引き手が舞車を引き、横並びに近い形にするのである。四曲目の舞奏は同じ曲でありながら三者が違う振りで舞う為、比較を容易にする為だ。

 舞車の柵に手をつき、引き手が舞車を移動させるのをじっと見守る。この移動では、佐久夜の舞車が中心に置かれ、右手側に鵺雲の舞車が、左手側に巡の舞車が配置されることになっていた。ただし、佐久夜の舞車は他二人の舞車より一歩後ろに配置されることとなっていた。当然のことだ。この位置から見ると、一層この舞奏披は二人の相舞に見えた。

 移動している最中に、巡の方を見る。相変わらず、舞車に居る巡とはまるで目が合わなかった。巡は意図的に佐久夜を見ないままでいるようだった。巡が佐久夜の方を見たのは、あの烈しい舞奏を奉じている時だけだった。

 移動が終わると、巡との距離自体は近くなった。舞車を渡れば、容易に触れられるくらいの距離だ。勿論、巡と近くなると同時に、鵺雲との距離も詰まることになる。佐久夜がそちらに視線を向けると、鵺雲がゆっくりと振り返り優雅に微笑みかけてきた。

 どうして自分が視線を向けたことに気がついたのか、という気持ちと、この人ほど人の視線に敏感な人間もいないのだろうな、という気持ちが綯い交ぜになる。そうでなければ、生まれた時から歓心を寄せられていた、当代一の天才は名乗れない。

 振り返った鵺雲が、唇を薄く開けた。そのまま、何事かを呟く。当然ながら、その声は聞こえなかった。同じように、声を出さないまま聞き返そうとした瞬間、視界が白に染まった。

 光から大分遅れ、耳をつんざくような雷鳴が響き、観囃子から悲鳴が上がった。どうやら、雷がすぐそこに落ちたらしい。間髪入れず、遠くの方で小さな雷が鳴る。

 すぐさま遠江國とおとうみのくに舞奏社まいかなずのやしろ総掌そうしょうである秘上和津見かずみが動き、他の社人に指示を送る。そして、予想以上の雷による舞奏披の中止を宣言した。殆ど一瞬の出来事だったが、観囃子は素直に指示に従う姿勢を見せた。遠江國舞奏社の対応がしっかりとしていたこともあるが、それよりも目の当たりにした雷光の凄まじさに戦いたのだろう。

 佐久夜も夢から覚めたような気分で、暗い空を見た。この様子だと、すぐに大雨も追いかけてくるはずだ。舞奏披が始まる前は、予想されてはいたものの、そこまでではなかったはずなのに。

 対応は迅速だったが、遠江國の社人はそう多くない。観囃子の避難誘導をし、平地に送るだけでも手間取るだろう。それに、巡と鵺雲も、危険が無いよう避難させなければ。自分も舞車を降りて、社人としての業務に加わるべきだろうか。

 悩んでいる内に、社人の一人がこちらに寄って来た。やはり手伝うべきか、と舞車を降り掛けた瞬間、鵺雲が言った。

「そこの君は、僕らの避難を手伝いに来たのかな? でも、大丈夫だよ。ここには佐久夜くんがいるからね。みんなにもそう伝えてくれる?」

 変わらず雷鳴が轟いているのに、鵺雲の声ははっきりと聞こえた。

「僕達は佐久夜くんの指示に従うから、観囃子の皆さんの避難を優先させて。もしかしたら、舞奏社で休ませてあげた方がいいかもしれない。お願い出来る? みんなを連れて、舞奏社に戻るんだ。ここのことは気にしないで」

 まるで子供に言い聞かせるような──あるいは託宣を下すような、そんな声だった。そのまま、社人が弾かれたように他の社人のところに向かう。

 そうして、五分も経たないうちに舞車の辺りには誰も居なくなった。まるで、観囃子も社人も最初から存在していなかったかのようだ。どうしてこんなことになったのだ、と胸の内で呟いてしまう。

 決まっている。命じられた社人達が、不自然なくらい迅速に従ったからだ。まるで、鵺雲の指示が絶対だとでも言うように、だ。そうでなければ、大切な覡を舞車と共に放置したりはしないだろう。冷静に考えれば、こんな状況に陥るはずがない。

 自分達は、九条鵺雲によって意図的に放置させられたのだ。

「さて、」

 鵺雲が身体ごと佐久夜の方を向いた。

「まだ僕らの舞奏披は終わってないよね」

 観囃子も立ち会う社人も一人として残っていない。雷鳴が鳴り、小雨が降り始めた。けれど、確かに舞奏披はあと二曲残っている。鵺雲の言葉を聞いて、巡もゆっくりと佐久夜の方に向き直った。

「ああ……まだ終わってない。まだ、」

 その声は、巡のものとは思えなかった。暗く深く、情念に沈んだ声だった。

「舞奏披が終わるまで、舞台を放棄しないこと──」

 気づけば佐久夜は、自然とその言葉を口にしていた。巡が頷く。その瞬間、鵺雲が舞い始めた。音楽も無い、觸鈴だけの舞奏であるのに、さっきよりもずっと鮮やかな舞だった。巡も同じように、雷雨の中を舞い始める。佐久夜も、殆ど引きずられるようにして舞い始めた。

 觸鈴の合間に鳴る雷ですら、御斯葉みしばしゅうの舞奏を彩るものでしかなかった。誰一人観ているもののいない舞台であるのに、今までの舞奏とは比にならないほど素晴らしいものだった。吹き付ける風も、雨も、何一つ障害とはならない。巡の目が燦然と輝いていた。

 音を置き去りにしながら、鵺雲と巡が舞っている。自分が指の先だけでも追いつけているのか、それともまるで届いていないのかも分からない。

 だが、一つだけ言えることは、巡も鵺雲も偏に佐久夜に向けて舞っているということだった。鵺雲が一心に佐久夜へと舞を向ければ、巡の舞奏は一層煽られ火華ひばなを散らす。巡の心を揺らすことが出来る──その一点のみを認め、鵺雲は佐久夜へこれだけの恩寵を与えるのだ。

 巡の舞奏は、佐久夜にとって殆ど完璧だった。目映く、動きの一つ一つが光を放っているように感じられる。危うさすら感じさせる、明日のことなど想像もさせない刹那の輝きがそこにはあった。

 ふと、巡はもうこの先を想像すらしていないのではないか、と思った。巡の舞奏は──この一舞台だけで散っても構わないと、そう言っているような趣があった。沈みきる覚悟だ、と微かに身を震わせた瞬間、巡としっかりと目が合った。

 二度と佐久夜にも夜明けを拝ませない。巡が言外に言っていた。見届けろ、と巡が続ける。お前が求めた至高の舞奏が、昇華され到達し、魂に消えない楔を打ち付けるところを目の当たりにしろ。

 その瞬間、もう一度視界が白くなった。今度は光と音だけではなく、明確な衝撃があった。

 視界が戻ってくると、焦げ臭さが鼻についた。ぱちぱちと爆ぜるような音がする。音の出所は、巡の乗っている舞車の下の方──豪華に誂えられた木製の飾りだった。波を象ったそれが、燃え始めている。それだけではない。鵺雲の舞車にも火が付いていた。こちらは舞台の近くに配置されている華飾りからも火が上がっている。

 雷火が舞車を焼いたのだ。幸いにも、二人とも直撃は免れたようだが、舞車は大部分が木材で出来ている。このままでは危ないだろう。よりにもよって、佐久夜の舞車には火は着いていないようだった。とはいえ、隣接する舞車が燃え上がれば、ここもただではすまないだろう。

 巡と鵺雲も、流石に舞を止めていた。巡は自分の近くで立ち上る炎を、どこか凪いだ目で見つめている。一体何をしているのか、と思ったが、不意に彼が、穏やかな笑みを浮かべた。そんな表情を観るのは久しぶりだ。觸鈴を握る手に力が籠もる。

「まだ舞奏披は終わってない」

 巡が言った瞬間、鵺雲が微かに笑った。そして、巡が舞い始めた。

 巡が舞い始めたのは、酷く穏やかな──否、表面上はそう見える、舞奏だった。だが、佐久夜は、それがより一層巡自身をべた、烈しいものであることを理解した。風に煽られる火の粉が、深海から立ち上る泡のように見えた。深く沈みゆくが故に現れる末期の輝きだ。

 巡の舞奏は触れればこちらを呑み込む激流だった。逃れることを赦さぬ大いなる水の流れ、貪欲に贄を求めるものだ。その舞奏には慈悲が無く、目を逸らすことを赦さない。見つめれば見つめるほど、巡は全てを捧げ、舞奏を研ぎ澄ましていく。

 その間も、火はゆっくりと舞車を伝ってくる。このままだと危ない。だが、巡はそんなことを気にしてすらおらず、ただ舞い続けていた。全ての自我を舞奏に捧げ、射抜くような目で佐久夜を捉え続ける様は、まさに夜叉憑きの名に相応しかった。常に、一秒前よりも舞奏が研ぎ澄まされていく。表情は冷たく、凍り付いているが故に美しかった。

 この舞奏の果てが観てみたい。最後まで、ここで舞わせたい。それさえ観られるのなら、佐久夜は本当に目を焼き潰されても構わなかった。いいや、それだけでは足りない。今ここに最上があるのなら、喜んでそれと心中しよう。大祝宴だいしゅくえんすら望まない。栄柴巡の舞奏の到達点がこの舞車の上にあるのなら、他のものは全て捨てて構わない。同じ舞車の中で、共に焼けてしまえばいい。きっと、ここにあるものが至上なのだから。

 巡が觸鈴を持ち換える。

 晒された掌に、巡の化身が見えた。

 巡がいつも固く握り込んだ掌の中に隠しているものだ。栄柴の家の覡として巡を認めさせるものであり、彼の人生を縛り続けていたものだ。

 いつかの時に、佐久夜の手によって──過ちによって覆い隠されたものだ。

 瞬間、佐久夜は巡の舞車に飛び移っていた。そのまま、巡のことを庇うようにして、舞台へともつれ込む。

「ちょっ……佐久ちゃん!? 何してんの!?」

 流石に動揺したのか、巡が素の声を上げる。さっきの夜叉憑きの空気も振る舞いも顔つきも──どこにもない。ただの、栄柴巡がそこにいた。

「早く降りるぞ。このままだと危ない」

 火の粉を払いながら、佐久夜は巡の手を掴む。すると、巡は静かに言った。

「お前、また間違えてるよ」

 握った手が震えていた。それとも、握っている自分の手の方が震えているのだろうか。

「どうして最後までやらせないんだよ。今ならまだ間に合う。俺は、俺の舞奏は──恐らく、ここが到達点だ。逃げ場の無い、この場所が。手に入るぞ、お前が焦がれたものの全てが」

「分かっている」

 佐久夜は振り絞るように言った。

 分かっている。

 佐久夜はここで、巡の舞奏を止めさせてはいけなかった。あのまま舞わせるべきだった。どれだけ危険でも、仮にそれで巡が傷つくことになっても──取り返しがつかないことになっても、あの夜叉憑きの舞の果てを観るなら、そうするしかなかったはずだ。栄柴巡がどうなろうと、それを求めた夜叉として、喰らい尽くしてやるべきだったのだ。

 なのに、どうして今、佐久夜は、觸鈴を持たせるべき手を握っているのだろうか。何故、舞台から巡を下ろそうとしているのだろう。散々巡のことを貪り、その舞奏を求めてきたのに、こんなところで、どうして。

 決まっている。

 到底そうは名乗れなくても、その資格すら失っている有様でも、秘上佐久夜は栄柴巡の親友だからだ。

 彼が炎に捲かれるところなど、観たくはなかった。たとえ、佐久夜の求めた栄柴巡の舞奏を奉じられた後だったとしても。

「すまない、巡」

 炎の熱さを感じながら、佐久夜は言う。この言葉が──懺悔の気持ちが本心であることだけは、伝わって欲しいと思った。

「すまない……すまない、巡、赦してくれ、俺は親友にも、夜叉にもなれなかった。浅ましい咎人とがびとだ」

 強欲であるが故に喰らい尽くしてすらやれない、そんな人間であることが悲しかった。それでも、自分がまだ栄柴巡の手を握れることが、この手が振りほどかれることのないことが、嬉しかった。その手を引くと、巡がゆっくりと後に続き、舞車を降りてくる。

「赦さない。お前のことは絶対に」

「ああ、分かっている」

「ここで舞台を下ろしたところで、お前はまた求めるんだろう。そうして、いつかきっとこの日のことだって後悔する日が来る」

「そうかもしれない」

「それでも、お前は手を離さないんだな」

 佐久夜の手に握り込まれた化身は、外からはもう見えなかった。

「すまない……巡」

 その声を掻き消すように、またも雷鳴が響いた。

 途端に、もう一人の覡のことを──佐久夜が仕えなければならないもう一人のことを思い出した。鵺雲の舞車に視線を向ける。舞車は既に、半分以上炎に捲かれていた。

 その中で、鵺雲はなおも舞っていた。何度も稽古を重ねたから分かる。あれは舞の終盤だ。鵺雲はずっと舞い続けていたのだろう。何故なら「舞奏披はまだ終わっていない」からだ。

 激しさを増す炎は空気を歪め、鵺雲の姿を蜃気楼のように揺らがせる。舞い散る火の粉は花吹雪のようだった。なのに、鵺雲は苦しそうな様子も見せず、吹雪くそれらを纏いながら優雅に舞っていた。彼の舞は炎と戯れながら影と成る、幽玄なものだ。

 それなのに、鵺雲の身体は火に炙られることがない。上手く避けているのもあるだろうが、そもそもそれらを手懐けているようでもあった。炎が雷を焼くことは出来ない、という形容が何故か瞬時に浮かんだ。

 彼は雷華なのだ。焼かれることも消えゆくこともなく、ただそこにあり続ける華だった。

 美しい、と佐久夜は素直に思う。彼の舞奏は──彼は、この上なく魅力的だ。

 そして、優雅に鵺雲が一礼をして、眼下にいる佐久夜と巡に向かって微笑み掛ける。

 舞台に残っていたのは、九条鵺雲だけだ。舞奏披を完遂出来たのは彼だけだ。それは即ち、覡主の座を彼が勝ち取ったということに他ならない。

 観囃子の飽くなき拍手の代わりとでも言うように、ようやく雨の勢いが強まり始めた。大粒の雨が舞車にも降り注ぎ、徐々に火の勢いを弱めていく。十分に火が弱まった頃、鵺雲がゆっくりと地上に降りてきた。

「少しトラブルがあったけれど、これで御斯葉衆の舞奏披は無事に終わったかな。きっとカミもお喜びになっているだろうね」

「どうして……あんな危険なことを、」

 そう言ったのは、巡だった。燃える舞車の上で舞うなんて正気の沙汰ではない。しかも、鵺雲の舞車は比較的舞台に近いところから燃え始めたのだ。いくら取り決めがあったとはいえ、舞車を降りるべきだっただろう。

 だが、鵺雲は何故か困ったように笑った。

「僕は死なないもの」

 表情に反して、確信に満ちた言葉だった。

「僕はまだ覡として為すべきことを為していない。だから、死ぬはずがないと思ったんだよ。ここで死んだり、舞奏が出来なくなるようなことになるなら、僕はそれまでの人間だもの」

 鵺雲は当然のことのように、全く理解出来ない理屈を並べている。理解出来ていないのは隣の巡も同じであるようだった。

 だが、どうしてだか納得は出来てしまった。九条鵺雲は損なわれない。大祝宴にすら辿り着いていないのに、終わらない。もし彼が損なわれることがあるのなら、それは彼がそれまでの存在だったということなのだ。

 九条鵺雲がここで死ぬはずがない。

「じゃあ、改めてよろしくね。巡くん。……そして、佐久夜くん」

 鵺雲がゆっくりと微笑み、こちらに手を伸ばしてきた。

 雷の音は、もう聞こえなかった。

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