人は繋ぐ、不可視の星座を見る
『拝啓、
そこまで書いて、
そこに体の良い言い訳や、何が自分に引っかかっているかを書き添えて穏便に事を済ませることも出来るだろう。だが、果たしてそれが自分らしいだろうか? もっとストレートに突き返した方が自分らしいのではないか。老婆と呼ばれるような年齢になってもなお穏便になるどころか、どんどん鋭くなっていく自分の心の声が聞こえてくるようだ。
多摩川の河川敷で足を伸ばしながら、手元のレターセットを睨む。なるべく早く返事を書かなければならないのに、この気分の乗らなさは
その言葉は、聞き覚えのある単語と、意味の見当すら付かない単語が奇妙な文法で取り混ぜられたものだった。外国語に多少精通している貴子だからこそ、その寄せ集められたパーツの雑多さが耳に付いた。イントネーションは祝詞のようでもあった。
振り返ると、髪に緩やかな癖のついた少年と目が合った。
綺麗な顔立ちをしている少年だ。未熟さや可能性の残る美しさではなく、既に完成された顔つきだった。そのまま成長すれば、きっと人目を惹く青年になるだろう。未来像が寸分違わず見えるような彼を前に、貴子は口笛の一つでも吹いてやりたくなった。
いかにも
「することがない状態であるのが、あなたですか?」
今度は日本語だったが、無理矢理翻訳機に掛けたような印象が拭えない。実に奇妙な文章だ。貴子は少し考えてから笑顔で返す。
「つまり、私が暇かってことね?」
「はい。あなたに川を眺めさせているのが、暇ですね」
「解読方法が分かったわ。そう、暇だから川を眺めているの」
正確に言えば、大好きな多摩川を眺めながらお断りの手紙を書いているのだが、一念発起すればすぐ終わるものにあれこれ時間を掛けているのは暇だからに他ならない。
「ねえ、あなた。お名前は?」
「
名前まで変わっている。この出来すぎた少年によく似合っていた。
「教えてくれてありがとう、夜帳くん。あなたも暇なの?」
「はい。することがないのは、僕もです。この眺めは素晴らしいですね」
不思議なことに、夜帳の言葉は一音一音はっきりとしていく。まるでラジオがチューニングされていくようだった。使うべき言語がようやく分かった、とでも言わんばかりだ。
「何を書いているのですか?」
その言葉からは、もう独特なたどたどしさも、訳し直したような不自然さもなく、むしろ
「お断りの文章ね。とある場所から招待されたのだけど、気が乗らなくて」
「何か気に入らない条件があったのですか? それとも予定が合わなかった?」
「そうじゃないわ。同じ催しで奉じられるものが苦手なの。浪磯の大きなお家の子が私のファンだっていうから、出てあげたい気持ちはあるんだけれど。いずれ個人的に観せに行くわ」
「観せる……ということは、あなたは」
夜帳が続きを言い終えるより先に、指先に摘まんでいた手紙を振る。すると、瞬く間に手紙は鮮やかな紫色のハンカチに変わった。
「私はね、こういうことを
夜帳の目が驚きに見開かれている。そういうところは年相応の子供と同じで、大変微笑ましかった。
「行かないと、と思ったんだけど、行きたくなくて。いけないかしら」
「あなたの気持ちが大切だと思います。演じたくない理由があるんでしょう?」
夜帳が言うと、貴子は秘密を囁く声で言う。
「そうね。私は怖いの。カミさまがね」
カミさま、と夜帳が小さく呟いた。
「いくつか経験則として知っていることがある。あれを回避するのに一番良いのは、なるべく縁を繋がないようにすることなの。袖振り合うも多生の縁って言うでしょう? そのくらい、縁は重いものなの。目を付けられたが最後、思いもよらないところから絡め取られる」
自分は絶対に関わらないようにしようと思っていても、巧妙な采配で足を取られる場合がある。それはとても賢く、人間が絶対に逃れ得ない罠を仕掛けてくるのだ。
「かけ離れているような点と点が繋がるのがこの世界だもの」
「星座のように、ですか?」
「上手いこと言うのね。その通り」
「そこまで縁というものが重いものであるのなら、逃れようといずれ招かれてしまうのではないですか?」
「そうね……。逃げ続けることは出来ないのかもしれないわね……。あの子もいずれ、あれに関わる
貴子は自分の愛し子を想う。目の前の少年に負けず劣らず聡明だが、危なっかしい子供のことを。あの歳にして、一度決めたことは絶対に譲らない頑なさを持っているのだ。それは美徳であるが、思いも寄らない落とし穴に
「変なこと言っちゃったわね。偏屈なおばあちゃんの駄々こねだと思ってちょうだい」
「いえ。興味深くて……楽しいです」
夜帳が顔を綻ばせる。何とも可愛い笑顔だった。ずっと見ていたくなる。
「ねえ、私は名乗るつもりはないんだけど……君にはもう一度名乗ってほしい。改めて名前を教えてくれる?」
「僕は萬燈夜帳といいます。どうぞ、お見知りおきください」
夜帳は、さっきとは全く違う顔つきで、改めて一礼する。
「ありがとう。じゃあ、今日話したことは忘れてくれる? もしかしたら、君もこれで繋がってしまったかもしれないし」
「分かりました。忘れておきます」
「いい子ね。それにしても、そんなに沢山持ってて、疲れちゃわない? ちょっと心配になっちゃったわ」
「そんなことないです。お母さんにはよく叱られます。俺は相応に未熟なんだと思います」
「あら、どう怒られるの? 想像出来ない」
「……大人を泣かせてはいけません、とか」
「なるほど、相応に悪ガキね。ウチのとなかなか気が合いそう」
それから、夜帳は誰かに呼ばれて駆け出していった。それを見送ってから、貴子はもう一度万年筆を握り直す。
*
「『残念ですが、お断りします。私、
嫌いなので、の後に描き添えられている泣き顔の絵文字から少々の茶目っ気が感じられる。やけに達筆なところも、全体の雰囲気を和らげるのに一役買っていた。
「このハガキが観光協会から見つかったんだ。それで気になって」
三言は、ハガキの表面をなぞりながら言う。すると、比鷺が思い出したように言った。
「あー、昏嶋貴子知ってるわ。前に何かのイベントで呼ぼうとしたんだよね……俺ちっちゃかったからあれだけど、確か兄貴がファンでさ……。引退した後も、あの人ちょいちょいイベントには出てたでしょ。それなのに、がっつり断られたとか」
「舞奏が嫌いだから、らしいな」
「浪磯のイベントといったら舞奏だからね。昏嶋貴子のショーと一緒に、九十九・九パーの確率で
舞奏が嫌いな人、というのは三言にとっては不思議な感覚だった。確かに、そういうこともあるのかもしれない。三言の大好きなエビだって、全員が全員好きなわけじゃないのだ。
「そうなのか……」
「ていうか、ノートパソコンで検索したら全部が分かるわけじゃないんだからね。どうせクソまとめだけが引っかかるよ。『昏嶋貴子について調べてみました! 調べてみましたがよく分かりませんでした……』みたいなやつ!」
「そうなのか……?」
「期待しちゃ駄目だって~インターネットだもん。ていうか、舞奏が嫌いな理由なんて大した理由じゃないって~。単純にショー同士で食い合うからとかかもだよ」
「うーん……。それにしても、
「いや、それは気にしなくていいんじゃない? ていうか、よかった気がする」
比鷺は独り言でも口にするように呟く。
「あの人、舞奏が嫌いな人が嫌いだからさ。昏嶋貴子への興味もそこで終わったと思う」
その言葉があまりに淡々としているので、三言は久しぶりに何と言っていいか分からなくなってしまった。代わりに、何でも調べられるはずのノートパソコンを見る。しかし、画面には不思議なマークが沢山映っていて、どうしていいかよく分からない。
*
「昏嶋貴子。本名非公開だけど、十中八九昏見貴子だろ、これ。出身地非公開。職業はイリュージョニスト。この国で最後の魔法使いを自称し、クロースアップマジックから大がかりな脱出マジックまでをこなす。晩年は
クレプスクルムを訪れた
「わー、探偵時代の杵柄で調べてくれたんですね。ですが、
「とか言って、お前は調べてほしいタイプだろ」
「知ってますか、
「お前はどうしてこれで話題が変えられると思ったんだよ。無理筋だろ」
挙げ句の果てに、出てきたのはジンジャーエールではなく甘酒だった。出されたからには仕方がないので、そのまま口を付ける。すっきりとしていて、初詣の時に飲んだものより美味しい。
「他愛の無い話ですよ。私はおばあちゃんっ子で、よく遊びに行ってましたから、
「そんくらい隠すことなかっただろうが」
「言ってしまえばそうなんですけどね。お祖母様、舞奏が嫌いだったんです」
「舞奏が嫌い? 何でまた」
「そんなちゃらけたものは許さん! 的な?」
「的な? じゃねえよ。ざっとさらった感じの昏嶋貴子のパーソナリティーとその台詞が合ってないんだわ」
「というわけで、今の私は所縁くんの為にお祖母様の想いを裏切って闇夜衆を組んでいるわけです。お祖母様が存命であったらどれほどお嘆きになったか。というわけで所縁くん。普段にまして感謝してくれていいですよ」
「はいはいそりゃどーも。天国のお祖母ちゃんに背いてまで闇夜衆に来てくれてありがとな~」
「ありがとうございます! ねだった者勝ち!」
昏見がわざとらしく喜んでみせる。色々引っ張った割に、真相は他愛の無い話だ。小さい頃譜中によく来てました、程度のことすらあれこれ言って煙に捲く昏見の性格を噛みしめる。どうせ、今回も皋を
もしくは、舞奏を嫌っていた祖母の話を自分からは出したくなかったか。
だとしたら、昏嶋貴子の舞奏嫌いの話は、皋が思っているよりも重いのかもしれない。昏見有貴の本質に触れるほどに。そう思うと、皋は突然恐ろしくなった。自分達がこのまま
「一つ申し上げておきますと、お祖母様が嫌っていたのは舞奏そのものではなかったですよ。それに、彼女がどうして私を舞奏から遠ざけたかったかも理解していますしね」
昏見は懐かしげに呟く。
「実を言うと、私もお祖母様もカミが苦手なんです。だって、ねえ。私という人間を生み出されてしまった時点で、カミサマとやらの不完全さは証明されているじゃありませんか?」
昏見はいつもの笑顔でそう言った。説明になってない、と一蹴するには、その声色は雄弁だった。
その時皋は、今までにもまして大祝宴への渇望を覚えた。昏見の取り澄ました顔の裏にあるものを探る為には、その場所に辿り着くしかないような気がしたからだ。皋所縁はいつだって、足で情報を稼ぐ探偵を尊敬している。いくら失格探偵といえど、その姿勢を軽んじることはしたくないのだ。
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