皐所縁は探偵を辞めた(前編)
「よう、久しぶりだな。アホ怪盗」
隣に座る老婆の腕を掴みながら、
「見破られてしまいましたか。流石は
「足音が重すぎるんだよ。その身長で鳴る音じゃない。それに歩く時に頭の位置が動かなすぎ。まさか屈んでんのか?」
「ふふ、所縁くんってば耳までいいんですね。興奮します」
「何でわざわざ老婆に化けてんだよ」
「やだなあ、私ですよ? 縛りプレイに決まっているじゃありませんか。おばあさんに化けるのは腰に負担が掛かりますし、身体も痛くなりますし、散々なんです」
楽しそうに言う怪盗に対し、
「それで? 『
今回、怪盗ウェスペルが予告状を出したのは、美術館でも博物館でもなく、
「実は私、萬燈夜帳のファンなんですよ。萬燈作品は全て読んでいますし、聴いています。欲しかったんですよー、手書き原稿」
「嘘吐け」
「はい、流石の所縁くんですね。盗むものなんて何でもよかったんですよ。手頃なものが見当たらなくて」
「じゃあそもそも予告状なんて出さなきゃいいだろうが」
「所縁くんが探偵を辞めると聞いたものですから。こうして予告状出さないと会えないでしょう? 私たち」
「情報が遅いな。辞めるんじゃなくて辞めたんだよ」
「なのに来てくれたんですね」
「残念。俺も萬燈夜帳のファンなんだよ。今日の俺はプライベートだ」
「所縁くん、何で探偵辞めちゃったんですか?」
皐の嘘を無視して、怪盗がそう尋ねる。穏やかな声に反して、その目は逃げを許さない。少しだけ逡巡してから、皐は答える。
「やりたいことが出来たから」
「それって何ですか? 探偵よりもすごいこと? 怪盗と追いかけっこするより魅力的?」
面倒だな、と素直に思う。何度か相対したが、この怪盗相手はとかくやりづらい。ややあって、皐は真面目な声で続けた。
「この世から」
「うん?」
「殺人そのものを無くすこと」
「……ええっと、それは比喩的な意味でしょうか?」
「お前にしてはまともな反応だな。感動するわ」
困惑した表情の怪盗の前で、ゆっくりと首を振る。この話が誰かに通じるとも思っていない。ここだけ切り出せば与太話もいいところだ。ただ、何となく目の前の男だけは理解するのではないかと、妙な期待をしてしまった。
「とにかく、俺はお前を引き渡して帰る。不審者を通報するのは探偵じゃなくとも一般市民の義務だからな」
「あら、もう少しで萬燈先生の講演会始まりますよ? 私がここで形振り構わず逃げようとしたら、この場が台無しになってしまいます。あーあ、楽しみにしていた皆さんが可哀想」
「……怪盗、お前プライド無いのか」
「ありますよ。実家にも三個ほど備蓄してます」
その時、壇上に一人の男が現れた。どうやら、彼の言う通り講演会が始まってしまったらしい。舌打ちをしつつ手に力を込める。一段落して抜け出せるまで、怪盗のことを確保しておかなければ。
壇上に立っているのはやけに人目を引く、存在感のある男だった。大ぶりな眼鏡にパーマを当てたツーブロックは、小説家というよりモデルか何かに見える。自分が魅力的である自負に満ちていて、それを生かす術を十全に心得た男、という印象だった。歓声と割れんばかりの拍手を片手で制し、萬燈夜帳がマイクの電源を入れた。
『集まってくれてどうもな。今日は怪盗っつうのが来るって聞いてるからな、そっちを期待してる奴らも多いか? まあ、何でも構わねえ。好きに楽しんでくれ』
言及があったのが嬉しかったのか、隣の怪盗が小さく笑い声を立てた。
『──さて、講演を始める前に、一番多かった質問に先に答えておく。先月、天才小説家であるところの俺こと萬燈夜帳はデビューアルバムを上梓してヒットチャートを総なめしたわけだが──お前らは俺がどうしてそんなことをしたのか気になってるみてえだな。考えてみりゃあ当然だよな。フィッツジェラルドがピアノを弾き始めりゃあ誰もが理由を聞くだろう』
萬燈夜帳のことはよく知らなかったが、確かにめちゃくちゃな話だ。門外漢の皐でも、小説家がいきなりアルバムを出すのが普通じゃないことは分かる。萬燈はそのまま
『まず聞くが、文字を読む時に、頭ん中で音読するって奴はいるか? 逆に全く音で再生せずに文字を文字のまま読む奴は? ……まあ半々ってとこか。後者の奴らは読むのが速いって聞くな』
皐は前者で、怪盗は後者で手を挙げた。半々の言葉通り、綺麗に分かれた結果になる。
『頭ん中で音読する時、脳内で再生される声やその抑揚は人によって違うよな? 当然だ。ニューヨーク大学の研究によれば、頭の中の声は、自分の声と同じだって言う奴もいれば、全然知らない人間の声だって言う奴もいるらしい。ピッチやトーンもそれぞれ違う。それだけ内なる声ってのは千差万別だってことだ』
興味深い話だが、ここからどう繋がるのか分からない。気づけば皐はすっかり話に聞き入っていた。
『たとえば「夜が来た」って台詞があったとするだろ』
そこで萬燈は言葉を切って、軽く息を吐いた。そして口を開く。
『夜が来た』
ぞっとするようなその声を聞いて、ぞくりと皐の背が粟立つ。その寒気が去る前に、萬燈はもう一度繰り返した。
『夜が来た』
台詞は変わっていないのに、今度は旅路の終わりのような安心感を覚えた。声色とトーンを変えているからだろうが、それでもこれだけ違いを出せることが恐ろしかった。
『……とまあ、同じ言葉でも音によって言葉は変わる。文字の上でこの四文字は変わらねえのにな。この違いを出すために、小説では地の文や文脈ってので補完する。じゃあ、この二つの「夜が来た」を地の文も前後の文脈も無しで書き分けるにはどうすりゃいいと思う? 答えは音だ。頭ん中に響く音、人間がその文字から想起する音まで支配してやりゃあ、地の文無しで「夜が来る」の書き分けが叶う』
そんなことが出来るはずがない、と反射的に思う。さっき、頭の中の声は人それぞれだと言っていたというのに。その声を支配出来るとすれば、他人の脳に好きに干渉するのと同じだ。いくら音と言葉を極めたからといって、そんなことが出来るはずがない。
この会場にいる人間の殆どが萬燈の言っていることの意味が分かっていないだろう。皐だって十分理解しているとは言いがたい。それくらい萬燈の言葉は支離滅裂で、矛盾している。
『音をやるようになったのはそれが理由だな。俺は音について知りたくなった。つまり俺の曲ってのは副産物だが、俺が作ったもんだ。傑作には違いねえだろ?』
しかし、彼にはその言葉を呑み込ませるに足る、異様な説得力があった。何であろうと萬燈夜帳なら叶えてみせるだろうという暴力的なまでの信頼。それを、無理矢理抱かせる美しいカリスマ性。
『小説だろうと、音楽だろうと、俺が作るもんは誰かを楽しませる為の至上の娯楽だ。一時の快楽の為の
萬燈が高らかにそう言った、その瞬間だった。
講堂の照明が落下し、前の方に座っていた客の一人が潰される。
間髪入れずに悲鳴が上がり、講堂がパニックに包まれる。
「……所縁くん、プライベートだそうですけど」
隣の怪盗が楽しそうに言う。忌々しい声だ。だが、無視出来ない声だ。何しろ皐はもう既に、これが大嫌いな殺人事件だと察してしまっている。皐所縁は探偵を辞めた。引退したはずなのだ。しかし、世界は彼の退職願を受け取ってくれるほど優しくはない。
「このままパニックが広がれば、思わぬ事故が起きちゃうかもしれませんね」
隣の怪盗は、他人事のようにそう言って笑った。
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