6.はじめの地

第024話 はじめの地 「温泉……、って、なに?」

 かっぽん。かっぽん。


 馬の蹄の音が、リズミカルに響く。

 俺は手綱を握りながら、御者台に座っていた。


 どこまでも続く青い空の元――。

 俺は馬車を走らせていた。


 旅は、いい。

 特に目的のない旅というのは、すごく、いい。

 勇者をやってたときには、分単位のハードスケジューリングによる、「魔王を倒す」ことを究極目的とした、ナイトメアモードの旅だった。

 馬車を走らせるときだって、馬の体力がもつ、ぎりぎりの速度で行軍を続けていた。

 効率厨のプレイのように、潤いと余裕がなかった。


 いまは馬の勝手に、好きな早さで歩かせている。

 かっぽん。かっぽん。リズミカルに続く蹄の音が、いい感じ。


 商人は注文通りの馬を用意してくれた。

 白馬で、牝馬で、おとなしい、いい娘だった。

 どこかのじゃじゃ馬とは、えらい違いだ。


「なんか言ったぁ?」

「いいや。なんにも」


 馬車のうしろ。幌の中からアレイダが現れて、俺の隣に座りに来る。


「なんだよ」

「べつにいいでしょ。横に座ったって」

「かまわんが」


 俺は言った。笑いをかみ殺すのに苦労した。


「モーリンさんが。そろそろお昼ご飯ができるって」


 アレイダは言った。

 馬車の中は異空間だ。屋敷ごと持ち運んでいる。その屋敷の調理場では、モーリンが調理をしているというわけだ。


「そうか」


 俺が馬を止めようとすると――。


「あ。すぐじゃないわよ。そろそろだけど。もうしばらくかかるわよ」

「そうか。すぐじゃないのか」


 俺は手綱を持ち直して、止めかけた馬を、再び歩かせた。


「そろそろなわけか」


 すぐではなくて、そろそろなところに、アレイダの乙女心をみた。

 俺はそれを酌んでやって、すこしゆっくりと、馬を走らせた。


「野駆けとかしたいわね」


 白馬の尻尾を見つめながら、アレイダが、ぽつりとそう言う。


「乗れるのか?」

「乗れるわよ。そりゃぁ、だって――」


 と、当然のように言いかけて――。


「――私の部族は、騎馬民族だもの」


 そういや。昔の話は聞いたことがなかったな。


 こいつに対して、俺が知っていることは――。

 「カークツルス族」という名の、辺境部族ないしは蛮族の出身であるということ。

 族長の娘であったということ。

 その部族はもう存在しないということ。族長の娘が、奴隷に身をやつしていたくらいだから、当然、そのはずだ。


 その件に関して、俺はアレイダに、深く聞いてはいない。

 話したければ自分から話すだろう。


 過去になにがあろうと、俺のほうは、まったく気にしない。いまこいつが、〝俺の女〟であるという事実に変わりはない。


 ま。人生いろいろあるさ。

 俺だって、転生して勇者させられて、転生してブラック企業にこき使われて、また転生して、いまこうして――何度目の人生だ? まあとにかく、人生を送っているわけだし。


「ねえ。あそこ」


 と、アレイダが手をあげて、遠くを指差した。


「――なにか、のろしでも上がってない?」


 見れば、たしかに、そちらの方向に、煙のような白い筋が立ち昇っている。

 が――。あれは――。


「いや。あれは。ちがうな」

「でも煙でしょ? じゃあ……、山火事?」

「いや。そういうのともちがう」

「じゃあ。なんなのよ?」

「あれは湯気だ」

「湯気?」


 俺は知っていた。

 以前――といっても、こちらの世界の時間では、数十年前になるわけだが……。


 俺は、この地を訪れたことがある。


 その時には、ちょっと面倒な敵と、ちょっと派手なバトルをやって、やむを得ず大技を使い、地層深くまで貫通する大穴を開けてしまった。


 そして地下からは、大量の〝湯〟が涌きだしてきた。

 つまり、あれは――。


「あれは、〝温泉〟というものだ」


 俺はアレイダに、そう言った。


 うむ。

 最初の立ち寄り地が、決まったな。


    ◇


 馬車で街中に入ってゆく。

 温泉街――というものを、向こうの世界の感覚ではかって想像したのと、ちょっと違う街並みが広がっていた。


 観光地――というよりは、西部劇の街並みだ。

 舗装されていない道の両側に、木造の建物が、ちらほらと並んでいる。


 ま。田舎の街並みだ。


 街の中央あたりに、他よりも、すこし大きな建物があった。

 酒場か食堂か宿か。

 あるいは、その、どれでもあるわけか。


 とりあえず、俺は、その酒場らしき店の前に馬車を止めた。


「ここにするの?」

「ああ。皆を呼んできてくれ」


 俺はアレイダにそう言い返した。

 馬車の中にいる連中を呼んでくる、というのも、変な話だが……。魔法による亜空間のなかで、さらに屋敷の中にいるのだから、しかたがない。


 馬を馬車から外して、水桶のところに繋ぎ直してやる。尻を撫でて、本日の労働を労ってやると、ぶるるっと嬉しげにいなないた。


 ほんと。素直でいい娘だ。どこかの誰かとは、えらい違いだ。

 とか、思っていると――。


 その当人が、皆を引き連れて戻ってきた。


    ◇


「いらっしゃい」


 店に入る。

 美人だが、すこしとう【とう:傍点】の立った女が、俺たちを見てそう言った。彼女が店の主人らしい。


「四人にはなにか食事を。あと表の馬に干し草を頼む」


 テーブルにつきながら、カウンターの中の女に、そう言った。


「はいさ」


 物憂げに返事をすると、女は、俺たちのテーブルに水を運んできた。

 水を置くとき、豊かな胸元が、俺の目の前にやってくる。


 その重量感のある物体の眺めと――。あと、女のつけている香水の匂いと――。

 俺はどちらも満喫した。


 アレイダの手がテーブルの下に伸びてきた。

 俺の太腿を、つねりにくる。


 あー。だからー。

 表で草を食ってる女の子のほうが、ぜんぜん、可愛いわー。いい娘だわー。

 そういや、名前を付けてやらなきゃな。いつまでも「馬」では、あんまりだ。


「ふぅん……。あなたたち、このへんのモンじゃないわね?」


 女主人は、髪をかきあげると、そう言ってきた。

 サバけた感じの女性だが、仕草のひとつひとつが、なんだか妙に……、色っぽい。


「わかるか?」


 俺は聞いた。旅人をたくさん見てきているであろう、酒場の女主人――マダムに、自分たちがどう見えているのか、ちょっと興味があった。


「ええ。何年もやってますからね。すぐにわかります。……おのぼりさんは」


「ぷっ……!」


 アレイダが吹き出した。

 俺はじろりとにらんだ。手の届くところにケツでもあれば、つねりかえしてやっているところだが。


「あなたたちも、あれ? あれを目当てで、来たんでしょう?」


 マダムは言う。


「アレとは?」


 俺は聞く。


「もちろん。勇者温泉よ」


「う゛……?」


 俺は変な顔をしていたに違いない。


「ゆ、勇者……、温泉っ?」


「ええ。そうだけど……。あらあら? 知っていて来たんじゃないの? 昔々、勇者様があたしらのために掘ってくださった――ここは、有り難い温泉でね」


 いやー……。べつに掘ったわけじゃないんだけどねー。

 敵が強くてねー……。

 威力をセーブできなくて、大技ぶっ放したら、岩盤まで貫いちゃってねー。


「へー……、勇者様が……」


 ん?

 傍らを見ると――。


 アレイダのやつは――。両手を胸の前で組み合わせて、〝乙女の祈り〟って感じのポーズを取っていた。

 いっぱいに見開かれた目は、どこか遠くを見つめていて――。


 そして、その口許からは、夢見るような、つぶやきが――。


「ああ……。勇者様……っ」


「うええっ?」


 俺はぎょっとなって、隣の女を見た。


 勇者……様ぁ?


 モーリンに顔を向ける。

 信じがたい。問い質したい。そんな表情を向けていると――。


「一般的に言いますと――。〝勇者〟は、畏敬と崇拝と、憧れの対象になっていますね」

「そうなのか?」

「そうです」


 モーリンは、深々と、うなずいた。


「だって。世界を救った人物なんですから。少女たちの憧れになっていて、当然です」


 そう断言した。

 そうか。当然なのか。


「おい。スケ……。おまえも、あれか? あれなのか? 勇者……、しってるか? 勇者?」


 カップを両手で持って、くぴくぴと傾けていたスケルティアに、おそるおそる、そう聞いてみた。


「ゆうしゃ? ……それ? おいしい?」


 たいへん、個性的なリアクションが返ってくる。

 都会の底辺で物盗りをしつつ生きてきた盗賊少女の常識力は、まあ、こんな程度だろう。


「そういえばマスター。最初にあったとき、スケルティアは、マスターのことを食べるとか、そう言ってましたけど?」

「ん。」


 モーリンの言葉に、スケルティアがうなずく。


「そっち? ガチでそっちの意味だったのかよ」


 ボケじゃなくて、ガチだったようだ。モンスター娘。おそるべし。

 こいつとの夜が、なにかスリリングな気分になるのは、そうした理由か。


「あ。オリオン。ちがうから。そんなんじゃないから」


 ようやく帰ってきたアレイダが、なんか手を振って、ぱたぱたと首筋を仰いでいる

 こっちはこっちで、なにをやっているのだか。

 なにがそんなんじゃないんだか。


「はい。勇者定食。四人前。……お待たせ」


 マダムが食事を運んでくる。


 俺が仏頂面になって食事をしたであろうことは、想像にかたくない。


    ◇


「ゆうしゃ。うまかった。うまうま。」


 ご当地名物をたいらげて、俺たちは一息ついていた。


「へー、温泉って、地面から出てくるお湯のことなんですかー」


 アレイダはすっかりマダムと仲良くなっていた。


「おまえ。そんなことも知らなかったのか」

「オリオンが全然教えてくれないから。温泉。温泉。って。自分だけわかった顔してて」

「マスター。この世界では温泉は珍しいんですよ」

「そうなのか」

「モーリンさんが言うと、すぐ聞くんだから」


「ふふふっ……」


 俺たちがいつもの調子で言いあっていると、マダムは笑った。

 泣きぼくろ、というのだろうか。目の下にあるほくろが、色っぽい。


「こんなに楽しい気分はひさしぶり。あなたたちを見ていると、楽しくなるわ」


 そう言ってくる、美人マダムに、俺は――。


「ここは、宿もやっているのか?」


 そう聞いた。


「ええ。裏には、露天風呂もあるわよ」

「なになに? ろてん……ぶろ? それって、なになに?」

「それ。おいしい?」


 うちの二人は、きゅるんと小首を傾げている。

 その様子に、マダムはまた口許に手をあてて、笑った。


    ◇


「うっわー。ひろーい」


 アレイダがはしゃいでいる。

 露天風呂は、現代人の感性を持つ俺からしても、満足のいくものだった。

 池、といっていいサイズの、立派な露天風呂だった。


 うちの娘たちの、うるさいほうが――ばしばしゃと湯を乱している。


「泳ぐな。バカ」

「えー? いいじゃない? 誰もいないんだし」


 他に宿泊客はなく、露天風呂は、俺たちの貸し切り状態だ。

 混浴だが、それを気にする者は、俺たちのなかにはいない。


 アレイダあたりが、脱衣のときに、「あっち向いて」だとか「恥ずかしい」だとか、なにかメンドウクサイことをウダウダ言ってたくらいだ。


 モーリンはほんのりと肌を桜色に染めて、俺の傍らにいる。静かに湯を愉しんでいる。俺も湯に浮かぶモーリンの乳房を目で愉しんでいたりする。


 うちの娘の静かなほうは、膝を抱えて湯に浸かり、口許まで湯の中に没して、ぶくぶくとやっている。


「どうした。風呂は嫌いか」


 そういえば、こいつ。野良ハーフ・モンスターという生い立ちのおかげで、体を洗う習慣などは、持っていなかったようだ。

 はじめに捕まえたときに、デッキブラシで、ごしごしと洗ってやったが……。あれでトラウマにでもなってしまったか?


「ぜったいオリオンのせいよ! あんなブラシで、女の子、ゴシゴシと洗うから」

「ちがう。洗ってもらうのは。きもちいい。……溺れるの。こわい。」


 なるほど。

 蜘蛛は水には入らないわな。


「え? スケさん泳げないの? じゃあ、教えてあげよっか?」

「だからやめろ」


 俺たちは、温泉を愉しんだ。


    ◇


 夜。

 寝室を一人で抜け出して、階下に続く酒場のほうへと、下りていった。


 マダムが一人で店の片付けをやっていた。

 酒場となっている一階では、地元の常連客が遅くまで飲んでいた。


「喉が渇いてな。水を一杯くれないか。麦酒エールでもいい」


 片付けている最中の席に、俺は適当に腰を下ろした。


「はいさ」


 麦酒エールが出てきた。

 こちらの世界の酒は、向こうの世界より、断然うまい。そんな気がする。


「ずいぶんとお愉しみだったみたいじゃないか。この色男」

「ん?」


 なにを揶揄されているのか、一瞬、わからなかった。

 何秒かして――。三人と一戦交えていたことを言われているのだと、そう気がついた。


 あー……。

 肉欲に溺れるのは、最近、あまりに普通のことすぎた。

 食う。寝る。いたす。

 ――の、三つのことが、だいたい同列な感じだ。


 モーリンだけを相手にしていた時は、相手の体力を気遣ったりもしたものだが――。

 なにせ、いまでは三人もいる。

 むらっときたら、なんならその場ですぐに押し倒してしまっても、OKだったりする。

 モーリンはもとより、アレイダもスケルティアも、皆、俺の女にしたわけであるし。


「あんな声が聞こえてきたら……、そ、そりゃ、気になるじゃないさ」


 ウェーブのかかった髪を、しきり撫でつけながら、マダムは言う。

 そうか。部屋の外に、そんなに声が洩れていたか。

 ちなみに、うちの娘は二人いて、うるさいほうと、静かなほうがいる。


 しかし――。

 なんでそんな生娘みたいな反応を? そんな歳でもなかろうに?

 と、すこし考えてみたら――。


 ああ。なるほど。了解した。


「そんなに美人なのに、勿体ないな」


「やだ。なに言ってるんだか」


 マダムはテーブルにせっせとフキンをかけている。同じところばかりを何度も拭いている。


 マダムの反応は――。つまり、初心なほうのそれではなくて、最近ご無沙汰なほうの、それなわけだ。


「この店は? 一人でやっているのか?」


 俺はそう聞いた。

 昼も夜も、マダムが一人で切り盛りしているように見える。男の影は見えない。

 すくなくとも、良人おっとがいるような感じではない。


「宿のほうには、手伝いの娘を頼むときもあるけどね。こっちは、ずっと一人さ」


「そうか」


 俺はうなずいた。

 なら問題ない。


 俺は麦酒の残りを片付けてから、立ち上がった。

 マダムの傍らに寄り添うように立ち、その体を抱き寄せる。


「えっ。……あの、ちょっと?」


 食う。寝る。いたす。――が、同列となっている俺でも、こういうときには、なにかロマンティックなことを言わなければならないと、心得ている。


 アレイダあたりに迫るときには、「ヤラせろ」とストレートに口にして、手ではたかれたりグーでパンチされたりして「ムードがない!」と罵られながらも、そのままずぶずぶと、なるようになって、結果オーライになったりするわけだが……。


「……俺が隙間を埋めてやる」


 ん。八〇点。

 最高ではないが、それほど悪くもない口説き文句が、とっさに口から出せた。


 こんど、練習しておくか。

 スケルティアあたりを口説いても表情の変化はないし。モーリンを口説いてもあしらわれるに決まっているし。

 アレイダあたりが、ちょうどよくチョロいので、あれで練習しておこう。


 ……そして、マダムの反応は?


「だめよ。……それはだめ」


 マダムは、拒んでいる。


 ふむ。

 俺がだめなのではなくて、〝それ〟がだめなわけか。


 しかし、だめよだめよも好きのうち、とも言う。

 迫って拒まれて、はいそうですかと簡単に引き下がっているくらいなら、そもそも最初から口説きにかかるな、というものだ。

 一押しや二押ししてみるのは、〝色男〟と呼ばれた者の、礼儀であり作法の範疇というものだろう。

 俺自身には、べつに〝色男〟などという自覚があるわけではない。好きなことを、好きなときに、好きなようにやっているだけだ。

 それが〝色男〟ということになるなら、べつに、それでもいい。


 腕の中でぐずぐずやってるマダムを、俺は、さらに強く抱きしめにかかった。

 歳を経た女の量感あるボディは、アレイダともスケルティアともモーリンとも違って、新鮮な感動を俺にもたらした。


 さっきも上でさんざんヤリつくした後ではあるが、また、食欲が湧いてくる。これは別腹だ。


「いい匂いがするな」

「いやっ……。一日、働いたあとよ?」

「それがいい」


 んー。七〇点。

 やはり今度練習しておこう。


「だめよ。だめ」

「いいじゃないか」


 マダムは弱々しく拒むばかり。男の腕から本気で逃れようとしているわけでもない。

 俺は最後の一押しをすることにした。


 尻をがっしりと掴みしめて、そこを基点に体を引き寄せる。

 そして、唇を吸おうとすると――。


「だめ。……良人おっとがいるの」


 手で唇を遠ざけられた。


「……? いるようには見えないが?」


 さっき確認した。この店は一人で切り盛りしている。男の影もない。


「戦争に行ったのよ」


 どこか遠くに目を向けながら、彼女は、ぽつりとそう言った。


「……ああ」


 俺は曖昧にうなずいた。

 この世界に転生して、それほど長いわけでもないので、現在の世界情勢については、じつのところ、あまり詳しくはない。


 魔王もいない平和な世界であっても、人間同士のいざこざは、時折、起きる。


 まったく……。《勇者》とかいうヤツがブラック人生を頑張って、一命を賭して、平和な世界を築いてやっていうのに……。自分たちで争いを起こしている。

 馬鹿な話だ。


 それはそうと――。

 この世界に不案内な俺でも、いまこの近くでやっている戦争がないということは知っている。


 戦争が起きると、徴兵が起きる。

 平時から「兵士」として生計を立てている、いわゆる「職業軍人」の数は、それほど多くない。

 戦争になれば人数はまったく足りなくなる。そうなると領内の男が駆り出されることになる。鍛冶屋や交易商人など、戦時特需に関わる者は兵役を免除されることもあるが、それ以外は根こそぎだ。


 戦闘で大軍勢同士がぶつかり合う光景は、見栄えがするが……。その軍勢のうちの九割どころか、九割九分が、強制連行されてきた素人だと思えば、争いというものが、いかに愚かであるかがわかる。


 このマダムの夫だった男も、そうして連れて行かれたうちの一人だったわけだ。

 そして、帰ってこなかった側か……。


「この酒場は、あの人と、二人ではじめたものなのよ」


 俺の腕のなかで、女は、そう言った。


「あの人が帰ってきたときにさ……。この店、なくなっていたら、悲しむだろ?」


 俺は黙って聞いていた。


「だから……、あたしは、この店を守っているのさ。あの人が帰ってくるまで……」


 女の声は、まるで自分に言い聞かせているかのようだった。

 俺には、かける言葉がなかった。


 その男は死んだか、あるいはもし仮に生きているのだとしても、帰ってくるつもりはないのだろう。

 だがそんなことは、言われるまでもなく、女にもわかっているはずだ。


 俺は女の体を手放した。

 強く拒まれているわけではない。押して通れば、開いてくれそうな気配もある。

 ……が、主義として、まだ人のものである女に手を出すことはやらない。


「ごちそうさま。うまかったよ。一杯」


 俺は麦酒のカップをテーブルに残すと、酒場をあとにした。

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