第5話

 諸君は覚えていただろうか。「北風ラーメン」の讃岐さんのことを。ラーメンの出前のことを。俺はすっかり忘れていた。当然だ。サンタ運搬役のトナカイ括弧コート姿括弧返しに出合って、ビジネスホテルのロビーで談笑だ。頭が混乱しているこの状況で、配達が遅延しているラーメン屋のことなどに思いが至るはずがあろうか。


 窓の外の讃岐さんは舞い落ちる雪の中を、肩を上げ、息をホッホと吐きながら走っていた。ランニングシャツ一枚で。それはいつものことだが、その夜の讃岐さんはオカモチを提げた腕と反対の肩に天秤棒を担いでいた。棒の両端には白い四角い箱が二個ずつ提げてあった。いったい何事ぞ、讃岐さん。彼は赤レンガ小道を「北風ラーメン」の方へと走っていった。


 俺は慌てて腰を上げ、出口の自動ドアへと向かいながらトナカイさんに言った。


「悪いな。いろいろと訊きたい事もあるし、実は相談したい事もあるにはあるが、緊急事態だ。また後でゆっくりと話そう」


 やっぱり眠ったままの「ヒトミちゃん」を確認してから、俺は自動ドアをくぐって外へと出た。寒い。ダウンのベストの中で身を震わせながら、俺は小さくなった讃岐さんの背中に向けて叫んだ。


「おーい、讃岐さーん。どこへ行くんだあ。ウチのラーメンはまだかあ」


 讃岐さんは気づかなかったようで、ザッザッとリズムよく音を立てて向こうに走って行った。俺は彼を追って駆け出そうとした。すると、俺の前の雪の上に俺の長い影が伸びた。振り返ると、眩い光が一面に覆い立っていた。俺はびっくりして、雪の上に尻餅をついた。光の壁はこちらに迫ってきた。俺は目を覆った。飛んできた泥雪が顔にかかった。光は俺の少し手前で止まった。その向こうでバムという音がして、その後に雪を踏む音が続いた。雪を踏み込む音は短いテンポで徐々に大きくなり、声がした。


「びっくりしたなあ。桃かよ、急に飛び出すなって言ったろ。危うく轢いちまうところだったじゃないか」


 向かいの「フラワーショップ高瀬」の高瀬邦夫さんだった。どうやら俺は、配達から帰ってきたところの高瀬さんの車の前にまた飛び出してしまったようだった。以前も彼が運転する車に轢かれそうになったが、今回も危なかったぜ。


 俺は顔にかかった雪と泥を払いながら立ち上がり、言った。


「驚かせて悪かったな。俺としたことが、捜査対象者にばかり気を取られていて、背後に注意するのを失念していた。面目ない」


「おまえが、その真っ赤なダウンを着ていたから気が付いたんだぞ。買ってくれた外村さんに感謝しろよ」


「分かってるよ……」


「ん、どうした。元気がないな。寒いからか。だいたい、この雪の中、しかも、こんな時間に外で何やってんだよ。ははーん。さては、外村さんや美歩ちゃんに追い出されたか」


「そんなわけないだろ。人聞きの悪い。捜査だ、捜査。行方不明になっていたおそれのある男を追っていたところなんだよ。なんで俺が追い出されなきゃならん」


「お、ご機嫌も斜めかい。そう怒るなよ。今日はこっちも忙しかったんだ。リース用のヒイラギとかポインセチアの追加が多くてね。この雪の中をあっちこっち配達さ。参ったよ」


「こっちはもっと大変だったんだ。コートを着たトナカイにガラス割って突入しないよう説得したり、ここの通りを滑走路に使わないよう頼んだりだな……」


 と、俺がビジネスホテルの中を覗くと、例のトナカイさんはもう居なかった。周囲を見回してみたが、深緑色のハットのじいさんの姿は無かった。


 俺は車に戻ろうとしていた高瀬さんに言った。


「そういえば、さっきそのトナカイが、あんたの店を見回しながら、十年前にどうとか、次は近いとか言っていたぞ。いったい、何の話だよ。もしかして、店の改装資金をサンタにでも借りたのか?」


「早く帰らないと、風邪をひくぞ。外村さんも心配しているんじゃないか」


 そう言って、高瀬さんは車のドアを開けた。俺はハッとした。


「おお、いかん。こんなところで立ち話をしている場合ではなかった。あっちの方が心配だ。急がないと、ラーメンがのびる!」


 俺は高瀬さんに背を向けると、雪の上に駆け出した。後ろから高瀬さんが「おーい、桃、これは何……」とか何とか言うのが聞こえたが、俺に振り返っている暇はなかった。ラーメンだ、ラーメン。「善は急げ」ではなく「麺は急げ」だ。急がねば。



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