山無し虫有り

平宍仁蜂

話数要らん

 電子の非鳩に滞在しなければ、分からないところで、私は伊豆に行くと言った。

 しかし、そそっかしいことに、旅行先は伊豆ではなく、山梨だった。まあ、果物より飲み物のほうが好ましい私としては、してもしょうがない間違いではある。

 特産物買いに来たんじゃないんだけども。


 私の家における旅行というのは、存外退屈だ。

 東京で見かける八ツ橋や信玄餅の如く、地元でも入手できるものをわざわざ旅先でして、旅先の空気というのも、東京都の田舎とさほど変わらない。全都道府県に、これぞ田舎と言えるような地域が存在することが証明される。

 加えて、ホテルや旅館などの宿泊施設では、出身を問わずにサービスをするのは当たり前で、方言の一つも聞けやしない。東京と何が違うのか、私の家族旅行では毎回疑問に思うことだ。


 だから、これは普遍的な日記に近い。


 私は悔いた。

 この旅行が何事もなく進行すると思っていたことを。目的地が温泉宿であれば、その温泉で、髪の毛が上手くまとまらなかっただとか、貸出の浴衣の着用に手間取るだとか、そんな失敗に直面するのみで、その道中、全く旅行らしくもなんともない、知らない飯屋で食うだけのことで、何をつまずくことがあろうかと思っていた。

 それは誤りだった。


 日本家屋を思わせるジャンキーな飯屋を訪れた。これは旅行前から母が目をつけていたところで、ほうとうやらすいとんやら、スタンダードな和食が楽しめる場所だ。店内は小綺麗で、人が多い。十一時に着いて、四十五分まで待たされた。

 待った末、人が混み合う中、まごつきながらスニーカーを脱いで、座布団に腰掛ける。私は、椅子でも座布団でも、片足だけ胡座をかくのが一番落ち着くのだが、食卓にぶつかりそうで断念。

 後に、裸足のはずなのに靴下を履いているような圧迫感に悩まされたそうな。


 ここでつまびらかにメニューを挙げるとバレてしまいそうなので、手短に書く。私は、ヒレカツ膳を注文した。家族は皆、ほうとうだ。

 一番に料理が届く。白飯の多さに圧倒されつつも、ヒレカツと添え物のサラダ、味噌汁、漬け物、豆腐とあって、どれが一番、温度の低下に興醒めするかは明白であろう。私は真っ先に米を口にした。

 温かいうちに空にして、次は漬け物とメインディッシュに狙いをつけた。味覚による娯楽のみに、集中できるはずだった。


 しかし、そいつは現れた。


 私の口と食べ物の中間地点を低空飛行。目視は容易く、伸びる足はモノのないクロ一色。大きさに反して、聴覚をまるで刺激しないところだけは、褒めてもよかった。

 蝿だ。一匹の蝿が飯屋の中を遊覧していた。

 空いた手を団扇うちわにする。掠りもしない。眺める。他の客に擦り寄る蝿。ナンパ失敗。こっちに来た。

 しばかれるのはお前だ、お前と茶をしばくのではなく。


 というのは、ことを終えた筆者のジョークに過ぎない。実際のところ、私はもそもそと漬け物を砕き、おの柔らかさに舌鼓を打っていた。

 眼前の有害生物に対して、全く対処をしていなかったのである。


 昔からそうだ。小、中、高、どの学舎においても、授業をパンデミックに変えるスズメバチや蝿との遭遇で、私はこと虫に関して、反応しないことが癖になっていた。

 同級生の女子たちの、可愛こぶった悲鳴を思い出す。弦楽器の弦を無理矢理切断したら、同じ音がするはずだ。似非器物破損罪に手を染めるなど言語道断。


 私は叫ばない。戸惑わない。駆除のために五指を滅茶苦茶に働かせない。

 そうして落ち着いて食事を続けたのが良くなかった。

 虫の公害は依然続く。あちこちの客にナンパを仕掛け、振られ、押しては引く作戦で気を引こうとする。


 そしてついに、そいつは小鉢の上に着いた。縁を歩いた。ずり落ちるのではなく、そうしろと、脳が命令したかのように、内容物に触れた。


 横で兄が猿のように対処を促してくる。こいつは空気激震罪かもしれない。

 なんと言われようと、駆除歴〇回の私に彼奴は殺せない。加えて、中身を撒き散らさず、彼奴を殺す方法が私には思い浮かばなかった。


 ともかく、終わった。豆の加工物を彩る緑は、網膜に映す以上の役割を果たさず、盥回たらいまわしにされることになる。


 腹を壊すか否か、そんなことは問題ではない。これは蝿を大きく上回る知能ゆえの思い込みだ。

 確かに身体を洗わずそこここを歩く蝿は汚い。しかし、細かい塵や雑菌を纏って、大雑把な洗浄で済ませている人間も汚いはずだ。

 自分を棚上げにして、それより遥かに矮小な、生活環境の違う生き物を毛嫌いしているに過ぎない。


 そこまで分かっていながら、蝿への嫌悪は収まらず、また、対処するほどの反射神経もなく、私は豆腐に口を付けずに飯屋を去った。


 ていうか、家族だって殺す気がないじゃないか。どうせなら殺せ、払えないくらいで文句を言うな。

 似非潔癖が。


 車中に戻っても、兄は食後の苦悶に顔を歪めながら、害虫の追放失敗をあげつらい、陰湿に掘り返した。口内にほうとうを再召喚しろ。胃世界脱出、新なろう系台頭だ!

 気持ち悪っ。


 それから、ホテルのチェックインの時間まで、二、三時間ほど暇を潰したけれど、この時間がとにかく退屈だった。観光施設など訪れちゃいない。

 ただ、地元にはないイオンモールで、イトーヨーカドーとの違いはなんぞやと考えながら、ぼうっとするのみだ。


 こういう時間が、後に「物足りない旅行だった」と回想させる一因なのだろう。

 ほんの数十分の楽しさより、何時間も持続する無為が辛い。


 ホテルは、外観はともかく、内装が、明治か大正をイメージしたような、和洋折衷の格好つけたものだった。

 床に、足音を吸う敷物。天井で輝くシャンデリア。小屋みたいな公衆電話。

 似非大正? あるいは、本当に建物が古いのか。そのあたりを区別するだけの教養がないので、如何ともし難い。気に入らないと言ったら虚言になることだけは分かる。


 どうせ部屋は小ぢんまりした和室だろう、と経験則から判断すると、これも違う。和室と洋室を兼ねた広い部屋だ。和室には座卓と座布団付きの椅子、洋室には縦長のテーブルと椅子が幾つかあり、冷蔵庫も設置されていた。

 この手のホテルがスタンダードかどうかは分からない。しかし、家族旅行のみならず、学校の宿泊行事でもお目にかかったことのない部屋だったと思う。

 最初の一時間ほど、私は喜び部屋を褒め称えた。あとの数時間は夕食までぐっすりである。というか、思い出しながら書き連ねることに限界を感じている。


 飯、美味しかった。風呂、メンスのためシャワーのみ。後、部屋に戻ってネット浸り。就寝、まあまあ疲れてたっぽい。


 こんな具合の旅行日記だ。なぜ蝿との遭遇にこれほど字数を割いているのか。自虐で済ませずに言えば、疲れているからだろう。

 今も、疲れている。帰りの車中、十八歳には飲めもしない山梨特産物の工場に行って、うろちょろワイン売り場を歩いていた。たとえ飲んでもこれから高速道路だ、お手洗いに行きたくなったら困る。


 大体、少し前に学校で習った。

 平安時代の歌人は食べ物を口にすることを穢れてるだのなんだの言って、歌の題材に選ばなかったらしい。この旅行で一番満足したのが食事だけれど、それこそ文字の創作物で持ち出してはならない出来事なのだ。

 やっぱり嘘。面倒くさい。食い気も詩情も脳味噌が出発点だから書かないのは怠気なまけ。本能という名の汚泥、えーんがちょ、えーんがちょ!


 もう十分文字数が増えただろう。本当にこの一泊二日を概説しようものなら、あまりの長さに読者がドン引く。PV数引く


 山梨に行きました、楽しかったです!

 絶対嘘じゃん。

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山無し虫有り 平宍仁蜂 @Umeki2hachi

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