夜を飲む

鍔木シスイ

ひとつめの話 「 コーヒー 」

 

 コーヒーを飲むとき、私はいつも、夜を飲んでいる気分になる。


 夜「」飲む、ではない。夜「」飲む、だ。夜という時間を、それがまとう雰囲気を、それに含まれる空気を、夜空で輝いている星々を、丸ごと飲んでいる気分になるのだ。

 それがどんな気分か、と詳しく説明するのは難しい。ただ、その時間の暗さと闇の深さに似つかわしくなく、わくわくしながらコーヒーを飲んでいるのは確かで、私は、いつの頃からか、夜という時間が、そして、夜に飲むコーヒーが、待ち遠しいものとして感じられるようになっていた。

 夜に窓辺で飲むコーヒーは、黒々と、全てを飲み込んでいる。星も月も、未だ眠らぬ街の明かりも、夜空さえもその中に溶かして、ただ静かに、私に飲まれるのを待っているのだ。

 私はコーヒーに口を付ける。当然のことながら、ブラックだ。本当は、ブラックコーヒーは少し苦手なのだが、ミルクを入れるのも砂糖を入れるのも、この時間には似合わない気がしてしまう。それで、毎回、入れるかどうか迷っては、結局やめる、という具合。黒々とした闇のようなコーヒーは、全てを飲み込み、内包するにふさわしい色をしていると思う。全てを塗りつぶし上書きする色が白ならば、全てを飲み込んで内包する色が黒なのだと思う。

 ……などと、深刻そうな顔をして考えて、少しだけ思考の背伸びをしてみたりして。そうして、少しだけ背伸びをした夜更かしの気分に浸りながら、ブラックコーヒーを一口飲む。

 やっぱり、苦い。

 けれど、これが、大人になるためには必要な苦さなのだと自分に言い聞かせながら、私は、コーヒーに溶かされた夜ごと、コーヒーを飲む。何度も何度も、その苦さと重さに怖気おじけづきながら、それでも少しの期待を隠しきれないままに夜を飲む。

 もしこれにミルクが入ったら、それはきっと夕焼けの色だ。白と黒、明と暗、昼と夜。相反する二つのものが、ほんのわずかな間だけ、まじりあうことを許される時間。

 もしこれに砂糖が入ったら、それはきっと深夜二時ごろの色だ。決して他人に邪魔されることはない、たった二人だけの恋の時間。甘いはずなのに、時折、思いがけず、苦味が舌をかすめるような。

 もしこれに、砂糖もミルクもどちらも入ったら、それはきっと、幸せを約束された夜明けの色だ。甘く、とろりと流れる蜜のような、当たり前の幸せを当然に共有できる、そんな時間の色だろう。

 けれど、私が、今、夜に飲みたいと思うのは、そのどれでもない。

 私が、今、飲みたいのは、ブラックコーヒー以外のなんでもない。

 だから、これはこれで幸福なのだろうと思う。

 夜更かしをして、自分の好きなようにコーヒーを淹れて、それを飲みながら、静かに好きなことをして、それから、微睡みの中で朝を迎える。夜を存分に楽しみ、夜明けを待ち、朝を迎え、ずっと後で眠い目をこすりながらまた起きて――

 でも、そんなに先のことは、いったん、置いておこうと思う。

 とりあえず、今は。

 目の前にある、この「夜」を、存分に、楽しむのだ。

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