無名2

@tinnpeti_etti

第1話

―カチ、コチ。カチ、コチ。ゴーン、ゴーン、ゴーン…。

見ると、時計はもう朝六時を迎えている。ワタシは目を開けて、伸びをしながらベットから起き上がる。窓から差し込む朝日は鋭くて、ワタシが気まぐれに集めている調度品たちに陰影をつける。ワタシはクローゼットから何着もある黒いワンピースを取り出して着た後、隣のアップライトピアノに目をやる。これを置いたのはあの日の屈辱を忘れないようにするためだった。今でも、あの日の風景はワタシの中に深く刻み込まれている。ワタシは感傷に浸るのを程々にして茶褐色の扉のドアノブを握る。キィーッと言う音がして扉が開く。ワタシはスリッパを履いてそのまま階段を降りて行った。


ワタシはこの世界のものではなかった。ワタシが本来住んでいる世界は『無駄』を極限まで減らした世界。このシェアハウスに来たのは効率的にミッションを終えるためだった。


リビングルームに向かい、電気ケトルのスイッチを入れる。トースターを動かした頃にはフライパンにのせた卵とベーコンがジューっと音をたて始める。上の階から誰かが降りてくる。

「おはよう、優子ちゃん。もう少しで朝ごはんできるからね。」

「…はい。」

彼女は風見優子。朝からしっかりとメイクをしたその顔には、今日も疲労がたまっている。優子ちゃんはそのままダイニングテーブルの椅子を引いて座り、スマートフォンをいじり始める。

ワタシは目玉焼きとベーコン、トーストを真っ白な皿に盛り付け、ダイニングに運ぶ。

「…いただきます。」

ワタシは皿を置いたその足で電気ケトルのお湯を注いだティーカップを片手に二階にあがる。二階には階段から見て左側にワタシの部屋を含む三部屋、右手側に二部屋並んでいる。ワタシは階段に近い左手側にある扉をノックする。

―コンコン。

「杉原さん、もう朝ですよ〜!朝食が終わったらお皿を洗ってしまうので食べるなら早くしてくださいね!」

すると、奥からくぐもった男性の声が聞こえる。

「はーい。あと五分したら起きるから。」

杉原灰斗。彼はこのシェアハウス内ではワタシに最も歳が近い。だが、遅刻の常習犯で皿洗いを終えた後に皿を汚し、自分で始末もしなかった。だから毎日ワタシは彼を起こしに行っている。はっきり言ってムカつく奴だ。

ワタシは彼の返事を確認した後、そのまま振り返って真後ろにある扉にもノックする。

―コンコン。

「…はい。」

ワタシはか細い少女の声を確認してから扉を開く。

「おはよう、今日も朝ごはんいらないの?」

「…おはようごさいます。はい、勉強しないといけないので…。」

彼女は黒川円香。今年、大学受験を控えているらしく、朝も顔を出さずに毎日勉強している。ワタシは彼女の勉強机の脇にティーカップを置き、声をかける。

「たまには下に降りてきなさい。勉強ばかりしてると疲れちゃうでしょう。」

円香ちゃんはワタシに向かって小さくお辞儀をしてまた勉強を始める。ワタシはそのまま彼女の部屋の扉をそっと閉めた。

そして、もう一人はワタシと杉原さんの間の部屋の住人。切戸契。見た目は普通の男性だったはずだ。初めてこのシェアハウスに来た時に、「あまり話しかけないでください。」と言われたのでそれからは会ってもいないし、話してもいないのではっきりとは分からないが、時々洗われた食器が立てかけられていたり、洗濯物は部屋の前にまとめて置いてあるので『いる』ということはわかっている。


一階に降りると、もう優子ちゃんはいなくなっていた。ワタシが一人で朝食を済ませ、二人分の食器を洗っていると、誰かが二階から降りてくる音がした。それは遅刻魔のものだった。

「杉原さん遅いです。もう洗い終わるので食器は自分で洗ってください。」

ワタシはこの家の家事をするのが嫌いではなかった。魔法使いとして昇級してからは自分で家事をするような生活とは遠く離れてしまっていたし、魔法使いのランクは能力主義によるものだ。だから人のために何かをするのは久しぶりで面白さを感じていた。もちろん、杉原さんのような人間がいるのは困るけど。

ワタシが全ての家事を済ませるともう午前十時を上回っていた。ワタシは自分の部屋に戻り、荷物を整える。革靴を履いて、玄関の扉を開くとジメジメとした空気がワタシのもとに押し寄せてきた。



空に朝の日差しは消え、灰色の雲がたちこめている。天気予報によると雨は降らないらしいが商店街には傘を持っている人もいた。

ワタシはこの閑静な商店街の片隅で占い師をしている。ついこの間まではただ街をフラフラしているだけだったがそれだけでは情報収集が上手くできない。だから短時間に様々な人間と交流できる占い師になった。

ワタシの目的は人間に関するありとあらゆる情報の収集だった。それはワタシたちにとっての人間の価値を吟味するためだった。そしてワタシは向こうの世界から人間の赤ちゃんほどのサイズのある青い魔石をリュックサックに入れて持ってきていた。杖の先端についている魔石の大きさではこちらの世界に渡れなかったためである。ワタシたち、魔法使いはこの魔石の力を借りて魔法を使う。魔法は十七歳になった時の成人儀式の際、魔石のはめられた杖を授かり使えるようになる。つまり、十七歳までは魔法が使えないので、子供たちは魔法なしの生活を強いられるのだ。


ワタシは占い師として商店街に居座ってから数週間が経っているがまだ一人も客が来ていない。現実はそんなに甘くはないのだ。ただただ遠くの人間を観察している毎日である。その日も一人も来ないまま、机と椅子を片そうとした時だった。一人の少年がワタシの方を見ていた。ワタシは彼に気づいて微笑みかけたが、少年はワタシから目を逸らした。しかし、彼は間を置いてから歩み寄ってきて向かいの席に座った。

「…あの、占いをお願いします。」


彼の名前は田辺優太と言った。髪はちょっぴりボサっとしていて、有名ブランドのロゴが入った黒いTシャツを着ている。よく見るとほんのりと日に焼けている。その出で立ちから中学一年生くらいかと思ったが中学三年生らしい。

「…それで、田辺くんは何を占って欲しいの?」

ワタシは初めてシェアハウス以外の人と一対一で会話するので少しワクワクしていた。

「僕、実は陸上競技部で八月一日の大会に向けてずっと練習してきたんですけど、最近何だか嫌になっちゃって…どうすればいいかなって。相談しようと思えばできる人は沢山いるんですけど…。何だか全く僕を知らない人に相談したいなって思ったんです。」

「だから、占い師に?」

「そうです。占い師なら客観的な意見を教えてくれると思って…。」

真面目な顔をしてそんなことを言うもんだからワタシはぷっと吹き出してしまった。

「そんなこと占う前から答えは決まっているわ。」

「え?何ですか?教えてください!」

田辺くんは身を乗り出し、目を丸くしている。

「やめるべきだよ。だって君は練習がやりたくないんでしょ?」

「…うん。」

「じぁ、やらなくていいじゃない。大丈夫よ。きっとリフレッシュが必要なんじゃない?例えばゲームしたり、友達と思い切り遊んだり…何か好きなこととかしてみれば?星もそう言っているよ。」

ワタシは浮き浮き顔で彼に楽しそうなことを提案する。しかし、彼の目はまだ曇っている。ワタシはさらに言葉を続ける。

「ほら、そんなことよりも今君がやりたいことをやりなって。人生損するよ。練習なんてまた気が向いたらやればいいでしょ。きっとそれでも、良い成績は残せるよ。」

「で、でも…。」

ワタシは彼が悩んでいる理由が何となく分かっていた。田辺くんは大会に向けてずっと練習を積み重ねてきたのだ。それを今という一瞬のためだけに無駄にしたくないのだ。確かにこれは魔法が使えない彼にとっては重大な問題なのだろう。しかし、魔法が使えないがためにこんなちっぽけな悩みに時間を費やしてしまうなんてつくづく人間は可哀想な生き物だ。ワタシは改めて哀れみを感じた。しかし、今回は占い師になってから初めての客。ワタシはその哀れみに免じて、サービスしてあげることにした。ワタシは彼の泳いだ目をじっと見つめる。ワタシは悪魔的な笑みを浮かべて彼を促す。

「田辺くんの気持ちも分かるよ。ワタシも昔、ピアノを習っていたの。」

―だから、努力の危うさも苦痛も知っている。

「ワタシを信じて。」

ワタシは自分の声色が冷たくなっていないか心配になった。しかし、彼はしばらくの間、沈黙してから口を開いた。

「……分かりました。そうしてみます。」

彼の表情は未だ晴れていなかったものの、何とか了承してくれた。ワタシは彼からお代を頂き、お返しにワタシの名刺を渡す。そこにはワタシの名前と電話番号が書かれていた。

「何かあったら電話してね。」

ワタシは彼の手にそっと名刺をのせて、手を振る。しかし、田辺くんは最後まで浮かない顔をしていた。



数日後、学校帰りなのか体操服を着た田辺くんがワタシの元にやってきた。彼は以前よりもずっと明るい顔をしていた。

「占い師さん、ありがとう。」

何を占って欲しいのかを聞く前に彼は言った。

「ん?」

「この間の。占い師さんのおかげで今、僕はとても楽しいんだ。」

ワタシは得意顔になって続ける。

「言った通りだったでしょう?人のことを心配する必要なんてないのよ。君の人生は君が楽しいことをすればいい。」

ワタシは彼に含みを持った笑みを浮かべる。

「それで君はリフレッシュするために何したの?」

「えとね…」

田辺くんは幼なじみの友達の家にお邪魔して、テレビゲームを一緒にやったそうだ。しかも限定販売中の新作ゲームだったらしく、彼はそのゲームの魅力をワタシに語り尽くした。ワタシには全く関係のない話だったものの、彼の嬉しそうな表情を見ていると何故かワタシも幸せに感じた。

「あ、そうだ。占い師さん、今度東京の方に遊びに行くんだけどお土産何がいい?」

―オミヤゲ?あぁ、お土産か。

大人になってから赤の他人である子どもからお土産を貰うなんて何だか変な気もするがワタシはありがたく、彼のご好意に甘えることにした。

「うーん、何でもいいかなぁ。」

「えぇー?それが一番困るんだけどー。」

田辺くんは失笑をうかべた。しかし、彼はどこか嬉しそうだった。

「とにかくワタシのことは気にせず、楽しんでおいで。」


ワタシはその夜、魔法を使った。これは私情ではなく、この世界での魔法の活用実験ということにする。ワタシは魔石に向かって強く念じる。

―田辺優太の八月一日の姿を見せて。

すると、魔石の青白い光が分離して天井に向かって立ち上る。その光が波打ち、浮かび上がった絵が動き出す。そこには競技場のような場所で表彰台の下で俯いて涙を流す田辺優太の姿があった。ワタシはその絵に対してフィンガースナップをする。すると、絵が変化して表彰台の上にいた少年の顔が田辺くんに描き変わる。彼はメダルを掲げ、満面の笑みで賞賛を浴びている。ワタシはそんな彼の表情を微笑みながら見ていた。


彼はそれからも三日に一回のペースでワタシの元に来た。来る日も来る日もワタシに今日何があったのか、何が楽しかったのかを話した。まるでワタシがただの「占い師」だということを忘れてしまっているかのようだった。かく言うワタシも自分の役割を忘れてしまっていた。


しかし、そんな日々は長くは続かなかった。一ヶ月程が経ち、梅雨が明けた頃、田辺くんは唐突にこういったのだ。

「占い師さん、僕戻ることにした。」

「え?」

それはあまりにも衝撃的でワタシは自分の耳を疑った。

「部活に戻って練習する。」

「…なんで?」

ワタシには訳が分からなかった。どうして彼が嫌になっていた部活に戻るのか、楽しい毎日を捨てるのか。何も分からない。

「だって、僕がそうしたいから。」

「で、でも今から練習したって意味無いよ。」

「そんなことないよ。意味があるかなんてやってみなくちゃ分からない。それに僕の人生は僕がやりたいことをしないと。そう言ったのは占い師さんでしょ?」

「ダメだよ。そんなこと言ったって君は…。」

「占い師さん、本当にありがとう。でも今僕はすごく、練習がしたいんだ。」

ワタシは口を噤む。田辺くんの目を見れば分かる。彼は怒っているのではなく、決心したのだ。目には強い光が宿っている。ワタシはとりあえずこの場では降参しておくことにした。

「…わかったよ。頑張ってね。」

「はい!」

彼の笑顔はあまりにも眩しかった。



ワタシは帰ってすぐに魔石の元に近寄る。魔石の光は以前よりも光を失いつつある。ワタシはその魔石に向かって強く念じる。

―田辺優太の八月一日の姿を見せて。

この間と同じように魔石の青白い光が分離して天井に向かって立ち上る。そこには病院の診察室で足の痛みに苦しむ田辺優太の姿があった。ワタシはさらに時を進める。すると彼はこの間のように表彰台の下で涙を流していた。ワタシはもう一度フィンガースナップをしてみるが絵は変わらない。―どうして?

ワタシはもう一度、魔石の光の量を確認する。魔石からの魔力の漏出は今も続いている。向こうの世界との連絡量、ワタシが向こうに戻る量、最低限を加味しても魔法を使えるのはあと一回は残っているはずだ。彼の心に直接干渉するほどの魔力は残っていないが。

ワタシがもう一度指を鳴らそうとすると視界が眩しい光に奪われる。しかし、その光は一瞬にして消え、その代わりに魔石の上に『マスター』の顔が浮び上がる。

「言ったはずだ。余計な感情移入はするな。一人の『ニンゲン』に固執するな。お前のミッションは『ニンゲン』が私たちにとって有益な存在か否かを見極めることだ。」

それだけ言って彼の顔は掻き消える。魔石の光は先程よりも格段に光の量が減っていた。

―…何で、何でよ!?

もう光の量は最低限しか残っていない。もうなにも出来ない。終わった。しかし、怒りは一瞬にして消えて、悲しみが立ちのぼる。

―ごめん。ごめんね、田辺くん…

ワタシは心の中で彼に謝り続けた。

―ごめん…。ワタシのアドバイスのせいだ。本当にごめん。

ワタシはその場に座り込み、しばらくそのままだった。



あれから三日がが経った。田辺くんの言う八月一日の大会まであと半月もない。梅雨が明けて連日、猛暑の日々が続いている。日差しの強さは増す一方だ。


田辺くんがあの日以来、ここに来ていないのは彼が大会に向けて毎日毎日練習に一生懸命取り組んでいるからだろう。ワタシも毎日のように彼の意志を変える方法を模索していたが、最近になってから客が増えてきたので彼のことだけを考えている暇はなくなってしまった。そもそも彼の住所も連絡先も分からないから向こうからのアクション待ちだ。


そんなある日、部屋でコーヒーを片手に読書をしていた時、田辺くんから電話がかかってきた。ワタシがスマートフォンをとった時に聞こえてきた声はとてもハキハキしていて初めて私の元に来た時の彼の面影は全く感じられなかった。

「久しぶり!占い師さん」

「…久しぶりね、田辺くん。どう調子は?」

ワタシは田辺くんにずっと心配していたことを悟られないように普通の声音を装った。彼の声はワタシの脳内に直接響いてくる。

「実はこの間の練習で足首の辺りを捻ってしまって『一週間は安静にしてろ』って医者から言われちゃったぁ。」

陸上競技に何の知識もないワタシでもそれが大会に向けた練習に致命的なダメージを与えることは分かっていた。ワタシは予期していた未来が刻一刻とワタシのもとに忍び寄ってきたのを感じていた。

「…大丈夫なの?」

「うん!僕は大会には出るし、全力で取り組むから。」

ワタシには田辺くんがずっと遠い存在になってしまったような気がした。ワタシは純粋な疑問を投げかけた。

「…何故そこまでするの?」

「…何故って?」

彼は一呼吸おいてから

「…?占い師さんがそう言ったからだよ」

「確かにワタシは『自分のやりたいことをしろ』とは言った。でも、そんなにズタボロになってまで頑張ることが君のやりたいことだとでも言うの?ワタシは諦めた方がいいと思う。…努力をしたってもう意味なんてない。」

「…いや、僕は諦めないよ。努力に意味があるかどうかを決めるのは僕だ。」

ワタシの脳内にはありし日のピアノの旋律が流れていた。それはピアノコンクールの会場でワタシが挫折した日だった。あの日、ワタシは一生懸命努力を続けて本番に望んだが、魔法を使って一瞬でピアノをマスターした友達にワタシは敗れた。本来は規定により魔法の使用によるコンクール出場は認められないのにその子は母親の杖を奪い、魔法を使用した。もちろんその事は直ぐにバレたけどその一瞬、友達が浴びている賞賛の嵐はワタシへの侮辱に思えた。その時からワタシは努力することをやめた。魔法に勝るものなんてないんだ。それなら何もかもが『無駄』。そう信じ込んだ。

ワタシは彼に待ち受けている未来を見せてやりたかった。「今君が傷付くほど練習をしたってもう何も変わらない。それは『無駄』なのだ。」と。ワタシは言葉を続ける。

「でも、君はワタシのアドバイスのせいで努力をしなかった期間がある。それは取り戻せない。」

「…何言ってるの?あの時、占い師さんがリフレッシュするように勧めてくれたから今こうして僕は一生懸命練習できているんだ。それにそもそも取り戻せなくたっていいんだ。」

ワタシはどんどんと胸が締め付けられて苦しくなっていく。

「占い師さん。僕はね、占い師さんに感謝しているんだ。ずっと今まで僕は大会に向けて努力をしてきた。でも、大会に向けて努力をしたことで共に戦う仲間に出会い、僕のその姿を見て喜ぶ母を見て、何より占い師さんに出会えたんだ。僕の人生にとって『大会』は大きな通過点でしかなくて、それよりもそれに向けた努力の過程で出会った感情の方がずっと僕の中で長生きするんだ。」

「…そんなこと…。」

ワタシはつかの間沈黙した。そして、鳥肌が立った。

―あぁ、そうか。

ワタシは在りし日の記憶を思い出していた。何もかもが努力の上で成り立っていた頃の生活を。ワタシはまだ魔法を使えない年齢で毎日学校に向けて歩いて登下校をして、毎日ピアノを弾いて、一生懸命テスト勉強をして…どれもが大変だったけどその過程で友達ができたこと、博識になったこと、曲が引けた感動…どれもが鮮明に覚えていた。確かにこれらは魔法が使えれば秒間に『可能』ではあるが友情も経験も感動も魔法では手に入らない。「これが電話で良かった」と思った。ワタシは気付いたら目が潤んでいた。そして、半ば涙声で言葉を押し出した。

「…君は賢いね。」

「…え?そうでもないよ。実際テストの点数は低いし。でも、いつかの授業で習ったよ。『結果より過程』って。でも、確かにこんなに簡単なことなのにしょっちゅう忘れちゃうのは事実なんだけどね」

田辺くんはケロッとした声で言う。彼やこの世界の人には簡単なことでもワタシたちの世界では誰もが忘れている言葉だった。魔法…それは神から与えられた絶対的な力、誇るべき力。しかし、それは違った。魔法は人々に感動を忘れさせ、世界を盲目にした。悪魔的な力だったのかもしれない。ワタシたちにはまだ扱える範囲のものではなかったのだ。

「あ、ヤバい、ランニングの時間だ!またね占い師さん!次は大会で!絶対来てね!」

「…う、うん…。」

ワタシはスマートフォンをそっと机に置いた。ワタシはしばらくそこから動けなかった。

―何故ワタシはこんなにも大切なことを忘れていたのだろう。

ワタシは心に決めた。机の上にある魔石がとても強い青白い光を放っているように思えた。



そこはあの町の駅から三駅進んだ場所にある大きな競技場だった。開始までまだ一時間以上あるがもう既にかなりの人で賑わっていた。こんなに人がいるところは初めて来た。競技場内に入ると真新しいラインの入ったトラックがあった。そして三六○度、青い座席がそれを囲んでいる。ワタシは前から八列目のゴール前の座席に座る。殆どの人がワクワクしていたり、ドキドキしているのが表情に出ている中、ワタシだけが暗い表情をしていた。


開始時刻になった。喧騒が止み、選手が入場して来る。その中には緑の選手服を着た田辺くんの姿もある。彼がどんな表情をしているのかはここからは見えない。しかし、ワタシもスタートラインに並んでいるかのようで心臓がすぐ耳元で脈打つ音が聞こえていた。


…この緊張感はいつ以来だろうか。新しい魔法を使う時とも敵の魔法使いと戦う時とも違う。これはあの日スポットライトをあびてピカピカした鍵盤にそっと指を置いた…そう…あの時の感覚…。

―バーン!

スタートの合図であるピストルの音がワタシの思考を現実に戻した。まるで一瞬のような約十秒間。ワタシはどこか彼に奇跡が起こることを願っていたが、田辺くんの順位は『見た通り』最下位だった。


ワタシはその場を後にして競技場を出る。コンクリートの上を歩くとコツコツと音がして、それはまるでワタシの心から聞こえてくるかのようだった。すると、

「占い師さぁーん!!」

田辺くんの声がする。彼の声は弾んでいて、喜色を含んでいた。ワタシは思いがけない声に動揺しつつも、振り向く。そこには満面の笑みで涙を流す田辺優太がいた。

「占い師さん!僕の事見てた? 頑張ったよ!」

「…うん。」

なぜ彼はこんなにも嬉しそうに泣いているのだろうか。まだ息が上がっている田辺くんの顔を一筋の雫が伝う。それは汗なのか、涙なのか。

「…占い師さん、僕さ、今ホントーに嬉しい。そりゃもちろん、最下位なのは悔しいけど僕は今、とっても気分がいいんだ!」

すると遠くで田辺くんを呼ぶ声が聞こえてきた。その方向には田辺くんに似た四十代ほどの女性と田辺くんと同じゼッケンを着た少年たちがいた。女性の方はワタシにペコペコと頭を下げている。その目には田辺くんと同じような涙が浮かんでいる。

「ほら、もう行きな。君を待ってるよ。話はまた今度聞くからさ。」

「うん…改めてありがとう。占い師さん。」

「いや、ワタシの方こそ…ありがとね。」

それは心の奥底から出た言葉で、名状しがたい感情がワタシの中で湧き上がる。

「何で占い師さんが僕に感謝してるの?」

彼はクスクスと笑う。

「ほら、早く行きなって。」

「うん、またね。」

「えぇ。」

あの魔法で見た未来の姿の田辺くんはこんな姿だっただろうか?泣いていたのは覚えているが彼の顔は分からない。それはワタシが結果にこだわり、彼の心情を、顔を見ていなかったからだ。彼の涙は苦しみの涙ではなく、清々しい涙だったのだ。ワタシはみんなの元に笑顔で駆け寄る彼の後ろ姿をいつまでも見つめていた。彼はまるで魔法を使うようにワタシの心を変えた。


ワタシは魔石に触れて、心の奥底から念じる。こんなことをしたらもう後戻りはできない。それでも、ワタシはこれが正しいことだと思うから。いや、これが正しいと信じているから。ワタシは魔石に残る最後の魔力で願い事を呟く。これはただの独りよがりだ。それでも、ワタシはあの世界の人達に知って欲しかった。ワタシの気持ちを。この世界を構築する根本的な心理を。その時、魔石はパキンという音を立てて壊れて弾け、そこから溢れ出した光がクルクルと回り、天井に向かって上っていく。ワタシは眩しくて目を瞑るが、次に目を開いた時光は跡形もなく消え去っていた。




「沙織さん、…最近、機嫌いいですよね。」

優子ちゃんはそう言うと、ワタシが淹れた紅茶を口に運ぶ。今日は日曜日でいつも忙しい彼女も今日はダイニングでゆったりとしている。

「ん?あぁ、ちょっといいことがあってさ。優子ちゃんこそ、明るくなったよね。」

「え?そ…そうですか?」

優子ちゃんから前のようなぎこちなさはもうほとんど感じられないし、何よりも彼女の笑顔がキラキラしているような気がする。

「…なになに?もしかして、彼氏?」

ワタシと優子ちゃんがそんな話をしていると、二階から杉原さんが降りてきた。彼は優子ちゃんの隣の席に座ると、

「おじさんが相談にのってやろうか?」

と言う。ワタシがそんな彼を「杉原さん、セクハラですよ。」と注意すると、優子ちゃんは子供のようにあどけなく笑った。


季節は春。冬の寒さを耐え忍んだ街路樹の桜が息をするように咲き始めていた。歩道はピンクに染まり、親子が手をつなぎ歩いている。暖かな日差しはまるで微笑んでいるようだ。


「そろそろあの子呼んでくるね。」

ワタシは二人を置いて、二階に上がる。その部屋には春らしいピンクのワンピースに身を包み、ベットに横たわる円香ちゃんの姿があった。彼女の手に教科書はなく、ファッション雑誌が握られ、彼女の勉強机に山積みの参考書はなく、文庫本や漫画、スケッチブックがのっている。彼女はワタシに気付き、話しかける。

「…あ、沙織さん。も、もう夕飯ですか?」

「いえ、まだだけどもう五時だから…。」

ワタシがそう言いかけると

「…え?!分かりました。今行きます。」

円香ちゃんは雑誌をベットの上にほっぽり出して、階段をダッシュで下りていく。ワタシが彼女の後に続いて階段をおりると優子ちゃん、杉原さん、円香ちゃんは三人ともテレビの前のソファに並んで座っている。

すると、テレビから軽快な音楽が流れてきてオープニングが始まる。三人は今、このドラマに夢中なのである。

「俺は絶対こいつが怪しいと思うんだよなぁ。」

「…いえ、違います。その人は…。」

「…二人とも違いますよ。そ、その人の恋人がきっと…。」

「お前ら、俺の本職は探偵だぞ?」

随分と話が盛り上がっている。その風景はあまりにも和やかでワタシは思わず微笑みをもらす。しかし、僅かな心残りがあった。それは切戸さんだ。

数ヶ月前、切戸さんの職場の人がシェアハウスに訪ねてきて、彼が職場にしばらく行っていないことを知った。その時彼の部屋を見に行ってみたが、そこはもぬけの殻だった。警察に捜索願いが提出されているが、有力な情報すら見つかっていないということだ。

「…切戸さん、見つかるでしょうか?」

ワタシたちは彼の同居人であるはずなのに彼の異変に気づけなかったことに責任を感じた。

「きっと見つかる。近いうちにへらへらしながら帰ってくるよ。」

杉原さんは優子ちゃんや円香ちゃんにはそう言ったが、明らかに険しい顔をしていた。しかし、もう無力なワタシにはただ彼の無事を祈る以外どうすることも出来なかった。


ワタシはキッチンで夕飯を作り始める。ドラマを見ながら盛りあがる三人の声が聞こえる。

この小さな屋根の下、ワタシたちは悩みや秘密を抱えながら生活し、お互いに人生の壁を乗り越えて成長してきた。ワタシたちはそのことに気付きながら、一歩成長した自分に誇りを持って生きていく。ここがワタシの、ワタシたちの大切な居場所なのだ。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

無名2 @tinnpeti_etti

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る