無名

@tinnpeti_etti

第1話

 いつでも都会の夜は、彼女を迎え入れてくれる。

 とある日の仕事終わり、ホームから出た彼女はそこから動くこともせずぼんやりとビルの並びを眺める。それしかしたくなかった。この灯りに生かされている、できる限りずっとそれを実感していたかった。

 都会はどんなに夜遅くても、見渡す限り無数の光が灯っている。あのとき急に世界が彼女を“大人”にしてから、彼女はこの寂しくない世界に執着した。誰かが暗い夜、同じように息をしていることを知って、それでやっと自我を保っているような不安定さは、悪い意味でとても彼女らしい。

 しばらくぼうっと立ち尽くしていると不意にとん、と何かが肩に当たり、彼女は後ろに一歩後ずさった。彼女のヒールがタンと音を響かせ、足を離れる。彼女は大きくああっ、と声を出し、改札へ繋がる道の真ん中に倒れるように座り込んだ。周りに立つ人がこちらを冷たく睨んでいること、それを彼女の目、頭はどうでもいいこととして処理した。そんなことより高い場所から見ていた世界が、急に彼女を見下げ始めていることが怖くて、仕方なかった。

 風見優子は、どうしようもなかった。

 まだ慣れない世界に、無理矢理住んでいるのだ。

 シェアハウスに帰るまでの路地には人通りがあったが、その賑やかさで彼女の目から溢れる涙を静かに隠してくれた。


○*○*○*


 昨晩はあんなに遅くに帰ってきたというのに、目覚まし時計は無慈悲に朝を告げた。夢の中でも特に幸せなことはないけれど、現実は頭も体も、心も重い。

 自分の顔を見て、昨日のメイクを落とすこともしないで眠りについたことをやっと思い出した。涙でぐちゃぐちゃになった自分の顔はまるで溶けたアイスのようにあるべき形を失っている。

___あるべき形、とは彼女の場合、自分らしさのかけらもない、目立たない、しかし一目で大人だとわかるような見た目を指すのだと思う。優子の顔はまだ幼いままで、身長も低い。それを彼女は必死に隠そうとして、分厚いメイクをしてピンヒールを履く。しかしどうも、憧れの見た目を手に入れたとしても彼女は本当の大人にはなれないらしい。

 鏡の中に映る自分の顔を睨んで、優子はメイクを落とした。


 いつも通りに分厚くメイクを施し、重い足で階段を下ると、食卓にはいつも通り誰もおらず、キッチンに沙織一人だけが立っている。

「あら、優子ちゃんおはよう。今日は少し遅かったわね」

 彼女は笑う。きっと優子の目が腫れていることにも気づいているのだろうが、何も言わなかった。

「………おはようございます」

 いつも通り、顔がひきつる。どうしたらこの重たい顔で素敵な笑顔を作れるのか、優子には分からなかった。彼女との会話を乗り切れる気がしなかったから、ポケットからスマホを取り出す。そんな無愛想な優子に対しても沙織は何も言わなかった。

「今日の朝はパンにするわね。優子ちゃん、ロールパンと食パン、どっちがいいかしら?」


○*○*○*


 優子の職場は、彼女が暮らすシェアハウスのある街とは離れている。

 いくつも採用試験を受けたが彼女に採用を出した会社は今の一つのみで、そこに勤めることを余儀なくされた。

 営業、という肩書きはずっと前から変わらずにあるが、ついこの前までは誰でもできるような仕事と呼ばれているものばかりが回ってきた。しかし彼女はそれで精一杯で限界だった。

___先日、彼女に営業の仕事が任された。

 彼女は昨日、初めて営業の練習を人の前でしたが、笑顔がぎこちないだとか、話し方がおかしいだとか上司に散々に言われた。

 笑顔とお話しの練習は宿題ね、と言われたものだが、家に帰ったのも夜遅くでろくに練習する時間もなかったのが余計に彼女を不安にさせた。


 今日の雑務と練習を終えると、昨日と同じ新人指導のベテラン上司が近づいてきた。

「風見さん、昨日の練習の反省ちゃんとしたの?」

 冷たい目で見てくる上司の前で、優子は嘘なんかつけなかった。

「……いえ、昨日は、時間がなくて……」

 それを聞いて、上司はため息をつく。あのね、強い口調でそう吐かれた途端に、優子の背筋は凍りつく。

「風見さんはね、お勉強が足りないのよ。だから上手く話せないし、このままじゃ買い手なんてつかないわ。ほら、なんだっけ?田舎の高校の中退でしょ?ろくに大学も行かないでねぇ」

 そこまで聞いて、頭が真っ白になる。

 私は、私は。

 私は、本当はまだ、大人になんてなりたくなかったんです。

 喉の奥から吐き出したいその言葉と共に、嗚咽が上がってきそうだ。

 本当は今だって、素敵な友達と一緒に勉強をしているはずだったのに。私は仕事になんてまだ就くべきじゃなかったのに。そうやって言い返したかった。でもこんなところで泣いたら、また言われる。馬鹿にされる。ろくに教育を受けてないって、馬鹿にされる。

 優子はぐっと歯を食いしばるようにして、喉と目の熱さが引くのを待った。待って、息を吐いて、すみません、とだけ呟いた。

“まだ17歳”の彼女にも、社会と現実は優しくしてくれない。

「早く大人になりなさい。いいわね」


___一体何をもって、大人になれるの?


 優子は駅のホームで泣いた。涙が溢れてしまった。過去に自分が経験した悲劇と、本当なら今も通っているはずだった大好きな制服の高校。そしてやりたくもないのに仕事をしていることに関するコンプレックス。思い出せば思い出すほど、心の傷に毒を塗られていく気分になった。

 都会の賑やかなホーム。昨日は自分のことを睨む人なんて全く気になっていなかったのに、今日はなんだかみんなが自分を馬鹿にしているように感じて、苦しかった。

「あの」

 隣に立っていたスーツの人が、彼女に声をかける。

 やめて、こっちを見ないで。

 私のこと、大人になれずに泣いている私のことを馬鹿にしないで。

「お姉さん、大丈夫ですか」

 喋れない。私は上手く喋れない。

 口を開けても、嗚咽しか出てこない。

「……落ち着くまで、どこかでゆっくりしませんか」

 涙で濡れた目を開くと、目の前に立つ人は優子にハンカチを差し出していた。

 断ることも出来ずにそれを受け取り、ゆっくりと首を縦に動かすと、その人は彼女の先を歩いた。


○*○*○*


 駅の近くの喫茶店に入る頃には、優子の涙は止まっていた。先程まで涙で見えなかったスーツの人は、短い癖っ毛と大きな目のせいか幼く見える。

「……あの、ありがとう、ございました」

 無愛想だろう。自分でもうまく笑えていないことがよくわかっていた。

「ううん、こちらこそ急に声をかけてしまってごめんなさい」

 それでもその人は優しく彼女に答える。

「僕、保育士やってるんです。職業柄なのかな、声をかけたくなってしまって」

 優子は彼が僕という一人称を使ったことに驚いた。てっきり女の人だと思っていたが、よく考えてみたら少し声も低い。可愛らしい見た目に見惚れていたら、しばらく会話を止めてしまっていた。

「……ええと、お名前は?」

 彼が訪ねる。

「か……風見、です」

 人付き合いに慣れていないせいか、名前を言うのをためらってしまい、結局苗字だけを伝えた。

「僕はオウカです」

 オウカ。彼の名前にはいったいどんな漢字を当てるのだろうか。

「風見さん、何か頼みますか?」

 彼は横に立てかけてあるメニューに手をかけて、差し出した。

 優子は本当はお金もないし、何も食べたくなかった。ただ自分だけ遠慮することも出来ず、一番安いアイスコーヒーを選ぶ。

 注文が終わると、彼はあの、と優子に呼びかけた。

「嫌なことを思い出させてしまったら申し訳ないのですが……

何か、お辛いことがあったのですか?」

 そうだ。私は泣いていたのだ。

 みすぼらしかっただろう。きっと今の自分も昨日のようにどろどろのメイクで汚くなってしまっているのだ。

「……え、と」

 何を言えばいいのかわからずに、優子はうつむいた。きっと話しているうちにまた涙が溢れてしまう。それも怖かった。

「無理に言う必要はないんです。ごめんなさい、辛いことってあんまり話したくないですよね」

 頭の中に先程の上司の言葉がよぎる。咄嗟に耳を塞ぎそうになって、ここが自分の部屋でないことを思い出し、急いで手を膝の上に置き直す。

 そんな優子の様子を見てから彼はすこしの沈黙を置いて、ゆっくりと口を開いた。

「……僕の話を聞いてもらってもいいですか?」

 ゆっくりと優子が顔を上げた。彼女の目は先ほどより痛々しい色になっている。

「僕の両親、仕事で海外にいることが多くて。小さい頃から1人の時間がほとんどだったんです」

 彼が優子の目を見て話すから、優子も同じように彼を見て話を聞いた。不思議とそうなった。

「中学生あたりになって、僕学校に行かなくなっちゃって。外に行くのも怖かったので、誰とも話さないで過ごしていたんです。

ただ、僕保育士になりたかったので」

 ほんと、そこだけ曲げられなくて。彼は言う。

「すごく頑張ったら、実績を残している私立の高校に入れて……そこで、なんでも話せる友人を見つけたんです」

 優子は気づいたらただ真剣に話を聞いていた。

「僕が今まで相談できなかったこと、全部その人が受け止めてくれて……だから風見さんにも、そんなお友達がいたらぜんぶ、話してみてほしいなって」

 自分の辛い時期のことを話したあとも、彼の表情は穏やかだった。

 優子はそのとき、思った。いつかこの人のように、笑って自分の辛かった話が出来るようになれば幸せだなと。そうなれるようにしたいな、と。

「本当に、ありがとうございます」

 優子の顔には、先ほどまでの不器用なものではなく、自然な笑顔が浮かんでいた。


○*○*○*


 珍しいことに、その日の彼女は目覚まし時計を頼らずに布団から立ち上がった。朝早く目覚める、というのがここまでに清々しいものだったのか。彼女はうんと背伸びして、メイクをする。__今日のメイクはいつもより薄くてもいいかな、なんて思いながら。

 タンタンタンと、スリッパが音を立てる。心なしか今日はダイニングに向かう足が軽い。

 階段を降りきると、そこにいるのは沙織一人だった。

「おはよう、優子ちゃん」

 一人キッチンに立って料理をしていた沙織は長い髪をなびかせて優子に声をかけた。自分らしくて笑顔の素敵な彼女はきっとほんとうの理想の大人だ。

「おはよう、ございます」

 ぎこちなく笑う自分の顔は今日も変わっていないようだ、顔の筋肉が錆び付いているのだろうか。油をさしても太るだけなのだけれど。

 ふと机の上に目をやると、5人分の皿がすでに置いてあった。灰斗さんはともかく他の二人が降りてくることなんて滅多にないのに、わざわざ用意するだなんて。優子はなんだかこの空間に虚しさと、少しの暖かさを感じた。

 沙織がトースターに食パンをつめているのを横目に、冷たいコーヒーにガムシロップを入れる。シロップをコーヒーの色が飲み込んで見えなくなる。

 ふと、昨日の話を思い出す。

 誰か、自分の悩みを打ち明けられる人を作れてからの彼の話。

 自分も、この家で隠してきた年齢のことを打ち明けられるようになれば。大人になりきれていないことを大人の沙織に伝えられたら。

 口を開けようとして、やはりつぐんでしまった。それでも彼女の心の中には、息苦しさよりもずっと前向きな感情が宿っていた。

 ピンヒールをいつも通りに履いて、ふと右手を見る。 

 手の甲に可愛らしい字で書かれたのはオウカさんの電話番号だ。結局彼の名前の漢字はわからなかったが、今度電話でそれを聞こうと思う。

 電話をかけるまでには、誰かに相談できるようになろう。そして、自分の辛かった過去を彼に笑って話せるようにしたい。

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