第16話
琴平さんと室戸さんは、若い頃に恋仲だったそうだ。二人で切磋琢磨し合い、互いの作品を協力して作っていた。あの「未来望橋」の橋柱や欄干のデザインも二人の作品らしい。俺が見た橋柱には琴平さんの名前が記されていた。きっと通りの向こう側の橋柱には室戸さんの名が記されているはずだ。二人はアポリネールの詩が好きだったので、彼の代表作である「ミラボー橋」に因んで、あの橋を「未来望橋」と名付けたそうだ。
二人は幸せに暮らしていた。琴平さんは絵画教室で教え、室戸さんはステンドグラス造形家として全国を飛び回っていた。
そんなある日、運命が二人の間を切り裂いた。琴平さんの作品が国際的な賞をとったのだ。彼女は世界から注目され、一躍時の人となった。しかし、それと同時に、琴平さんの絵と色使いが似ていた室戸さんのガラス作品は、琴平さんの絵の盗作ではないかと疑われた。室戸さんは、それまで燃やし続けていた創作の炎を消してしまった。その後に制作した作品は、どれも魂が抜けたようになってしまった。やがて、彼は美術界から姿を消した。そして、琴平さんの前からも。
琴平さんは「アキ・ムロト」と名乗って作品を描き続けた。そう、室戸さんに教わった色使いで描き続けたのだ。彼への敬意と感謝と愛を世界に示すために。そして、彼が手がけたステンドグラスのある家を転々とし、彼の作品を買い集めて、彼を探し続けたそうだ。何十年も。この家の玄関のステンドグラスも彼が作成したものらしい。だから素晴らしいのだ。さすが魔術師。
そして、今年の春、琴平さんはようやく室戸さんを見つけた。しかし、彼はもう認知症になっていて、施設に入っていた。記憶もほとんど曖昧だった。だから、室戸さんに自分を思い出してもらうために、琴平さんは絵を描き、その絵を施設に寄贈した。あの秋の農夫の絵を。
きっと、あの絵を見て「トトさん」は室戸豊栄を取り戻したのかもしれない。だから「アキ・ムロト」の絵が展示された日以降、何度も小林たちから本当に逃げ出したのだ。それで、小林は観音寺に「トトさん」を探しに来ていたのだった。
琴平さんは室戸さんが玄関ドアを手がけたこの家で、室戸さんの実家の墓がある「観音寺」に隣接するこの家で、毎日弁当を二つ注文して、徘徊している室戸さんが尋ねてくるのを待った。だが室戸さんは来なかった。彼は「未来望橋」に向かった。小林たちが割ったガラス片を集めて入れた布袋を握り締めて。
たぶん彼は、琴平秋を思い出し、共に作業した未来望橋で、もう一度琴平さんと作業するために向かったのだろう。橋の欄干には割れたガラスが粘土のような物でベタベタと貼り付けてあった。彼は冷たい豪雨の中で、震える手で欄干にガラス片を貼り続け、その作業中に欄干から足を滑らせて落水し、溺死した。ガラス片が入った布袋を最後まで強く握ったまま。
琴平さんは陽子さんに尋ねた。
「どうして分かったの、私が『アキ・ムロト』だと」
陽子さんは琴平さんから借りた古い詩集を広げた。
「何となく、心に残る詩でした」
そう言った陽子さんは、詩集を顔に近づけ、必死にその詩を読み上げ始めた。
秋
がに股の農夫が霧のなかを去ってゆく
牛もゆっくりと 秋の霧のなかを
うしろに見える貧しく恥ずかしい部落をかくしているような
はるか向うへ去りながら農夫は小声で歌っている
恋とそして不実の歌
くだかれた指輪とくだかれた心の物語
おお! 秋 秋は夏を殺した
霧のなかを二つの灰色の
(アポリネール作 滝田文彦訳)
なんとか読み上げ終えた陽子さんは、静かに詩集を閉じると、琴平さんに差し出して言った。
「アポリネールの恋人だったローランサンとの悲恋を綴った詩だそうですね」
「ええ。そう言われているわ」
「施設に寄贈した絵は、この詩がモチーフなのですね」
「そう。この詩をイメージして描いたの。豊栄さんが好きな詩だったから」
そう答えた琴平さんの頬を一粒の涙が伝った。滴は彼女の膝の上の詩集に落ちて、滲みていく。
横に立っていた詰襟スーツの弁護士さんが、怪訝そうな顔で陽子さんに尋ねた。
「どうして、お気づきになられたのですか。失礼ですが、外村さんは少々お目が不自由でいらっしゃるようですが……」
陽子さんは静かに首を横に振り、答えた。
「気付いたのは、桃太郎さんです」
琴平さんは黙っていた。弁護士さんは目を丸くして口を開けていた。無理も無かった。だって、俺は猫だから。
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