第11話
琴平さんの家からの帰り道、と言っても、すぐそこだが、「フラワーショップ高瀬」を覗いてみた。その日の朝、俺が散歩で訪れた時には、邦夫さんが一人で店の前を掃除していた。公子さんは奥の居間で横になっていた。腰は相当に痛そうだった。陽子さんも心配して、琴平さん宅からの帰りに立ち寄ることにした。
「おはようございます、高瀬さん。腰の具合はいかがですか」
店の隅にしゃがんで作業していた邦夫さんが、振り返って腰を上げた。
「ああ、外村さん。おはよう。昨日は大変だったね。大丈夫でしたか」
「ええ、ウチは何とか」
「阿南さん所の
「そうみたいですね。桃太郎さんが気付いて飛び出していきました」
どうだという顔をしている俺に、邦夫さんはからかうように言った。
「なんだ、桃は腰が抜けて伏せていたんじゃなかったのか」
「それはあんたの奥さんだろ。実際に横になっているじゃないか」と俺が言うと「雨の中を萌奈美さんの店の前まで駆けていったんですよ」と陽子さんが擁護してくれた。
「へえ、あの風雨の中をねえ。あ、だから今日は茶色のベストなんだな」
「ずぶ濡れになったんだ、仕方ないだろうが」
俺は邦夫さんを一にらみした。
「ところで、奥さんのお具合はいかがですか。少しは……」と陽子さんが言いかけると、店の奥から声がした。
「ここ、ここ。ここよ、陽子さん。ごめんなさいね、動けないのよ」
店に続く居間のテーブルの向うから手が上がっている。邦夫さんは「昨日のカミナリで、また腰が抜けたんだと」と呑気な事を言っていたが、陽子さんは「あらら、大変」と慌てて居間に上がった。
公子さんは手をパタパタと振る。
「ああ、陽子さん、助かったわ。この人ときたら、何にも出来ないものだから、困ってたのよ」
俺が背伸びして台所を覗くと、食べ終えて空になったウチの弁当の容器が重ねてシンクの上に置いてあった。洗って捨てるくらいしろよ、邦夫さん。と俺が邦夫さんに顔を向けると、邦夫さんは店の外で土佐山田九州男さんと話していた。二人とも深刻そうな顔つきだった。気になって、俺もそっちに行ってみた。
すると、九州男さんが、「モナミ美容室」の前でお客さんを見送っていた萌奈美さんを見つけて、「阿南さん、阿南さん」と手招きしながら呼び寄せた。萌奈美さんが来ると、九州男さんは「さっき伺ったら、お仕事中でしたから。今、ちょっといいですか」と断ってから「お宅の被害も、風のせいじゃないかもしれません。聞きましたか」と険しい顔で尋ねた。萌奈美さんは訳が分からず、顔を前に出した。俺にもさっぱり分からなかった。邦夫さんが説明した。
「今朝、『
大通りを南に進んだ先にある「未来望橋」は、隣町との境の川に掛かっている橋で、虹のように美しい
九州男さんが腕組みをして続けた。
「一昨日も徘徊したらしくて、警察に保護されたばかりだったそうですよ。なのに戻ってすぐまた施設から脱走したんだそうです。なんで、あんな暴風雨の中に飛び出していったのか……。増水した川に落ちて、溺死されたようですね」
間違いない、「トトさん」だ。昨日、大内住職と小林さんが話していた人だ。亡くなっただって? どういう事だ。
どこかでガラスが割れる音がした。
九州男さんと邦夫さんは周囲を見回したが、何の音か分からなかった。
九州男さんが萌奈美さんに言った。
「それでね、その亡くなったお爺さんは布袋を握り締めていたそうでね、その中に入っていたらしいんだよ」
「何がですか」
要領を得ない顔で尋ねた萌奈美さんに邦夫さんが言った。
「お宅の割れた廂の破片だってさ。本屋の窓ガラスの一部とか、そこの床屋の赤と青のガラスも入ってたって」
「いや、高瀬さん、まだ決まった訳ではないですよ」と邦夫さんをたしなめた九州男さんは、萌奈美さんに言った。
「ただ、鮮やかなオレンジ色のガラス片も入っていたらしくて、たぶん阿南さんの所の廂の一部じゃないかと、さっき警察の方が言っていました。今、大通り沿いの店を一軒ずつ確認して回っているそうです。ウチにも来ましてね。先に阿南さんにも知らせといた方がいいと思ったものですから」
萌奈美さんは眉を寄せた。
ほら、言ったとおりだろう、器物損壊事件じゃないか、と俺は言えなかった。何か重たいものが俺の胸を押し付けていた。
萌奈美さんは、「モナミ美容室」に次のお客さんが来たので、俺たちに一礼して帰っていった。
そこへ陽子さんがハンドタオルで手を拭きながらやってきた。邦夫さんに「洗い物の方はやっておきました。洗濯物の方は、私が後で干しに伺いますので」と言うと、邦夫さんは驚いた顔で「どうして、公子に頼まれたのかい?」と尋ねてから、厳しい顔を奥の居間に向けた。
陽子さんは「いえ、気にされていたようですから、私が勝手に」と言って公子さんを庇った。邦夫さんは溜め息を吐いて「まったく。外村さんだって大変なのは知っているはずなのに。すみませんね、ホントに」と言い、陽子さんに頭を下げた。そして顔を上げると、九州男さんに「そう言えば、土佐山田さんの奥さんも腰を痛めていらっしゃるそうですね」と尋ねた。九州男さんは顔の前で手を一振りしてから「いや、あれは仮病ですよ。ほら、例のアキ・ムロト、彼の絵が見たくて、手倉病院に行く口実が欲しかったのでしょ」と笑った。
俺が「なんだ? 伊勢子さんの腰痛はウソなのか?」と尋ねると、陽子さんが「アキ・ムロトさんって、世界的に有名な画家ですよね。そんな人の絵が、この町にあるんですか」と目を丸くした。
九州男さんは頷いた。
「信じられないけど、手倉病院のロビーに飾ってあるそうです。何と言っても、あのアキ・ムロトの絵ですから、美術館に高額の入館料を払わないと直に見る事なんて出来ないはずでしょ。それが無料で、間近で見られるって事で、一昨日から手倉病院には診察の予約が殺到しているそうなんです。たぶん、半分以上は絵の鑑賞が目的ですな。ウチのも、湿布を貰って帰ってきましたから。ウチは薬局なのに」
邦夫さんは振り返った。
「さてはアイツも……」
透かさず陽子さんが言った。
「いえ、奥さんのは違うと思いますよ。本当にお悪いようですから」
「公子さんは、アキ・ムロトの絵をご覧になっていないのでしょ?」
九州男さんが尋ねると、邦夫さんは頬を掻きながら答えた。
「まあ、確かにそうですね。昨日はそれどころじゃ無かったようですから」
「だったら、本当に腰を痛めているんですよ。ウチのは……」
九州男さんはズボンのポケットからスマートフォンを取り出した。
「こうやって証拠写真まで残していますから。友だちにメールで送信しようとして、間違って私のスマホに送ってきたんですよ。ほら」
九州男さんは表示した写真画像を邦夫さんと陽子さんに見せた。俺には見せてくれない。
邦夫さんと陽子さんは顔を近づけて、九州男さんが握っているスマートフォンを覗き込んだ。陽子さんは一瞬、眉を寄せた。邦夫さんが口を尖らせて言う。
「ふーん、丁度この季節の絵ですか。しかし、勝手に撮影とかしていいんですかね」
すると九州男さんは画面の上で指を滑らせながら頷いた。
「そうなんだよ、ほら、何枚も。著作権もヘッタクレもあったものじゃない。逮捕されたらどうするんだって、昨日、厳しく言ってやったところなんです」
陽子さんが画面を指差しながら、九州男さんに尋ねた。
「この、横に写っている詰襟スーツの男性、この方がアキ・ムロトさんですか」
九州男さんはスマートフォンを顔の前に近づけて確認してから答えた。
「ああ、たぶんそうですよ。覆面芸術家だか何だか知らないけど、気取っちゃって、まったく」
九州男さんの言い方には明らかに嫉妬が込められていた。まあ、無理もない。
俺は「覆面芸術家って、マスクを被っているのか」と尋ねようとしたが、邦夫さんが「顔写真とか全部NGの画家ですよね。素性も隠していて、よく分からない。俺の作品だけを見ろって事でしょうかね」と言ったので、黙っていた。
九州男さんはスマートフォンをポケットに仕舞いながら不機嫌そうに答えた。
「知りませんよ。顔を出せない事情でもあるんじゃないですか。ま、伊勢子に言わせれば、そのミステリアスなところが良いらしいのですが、アイツがどれほど芸術を理解しているのやら」
陽子さんが心配そうな顔で言った。
「そんな人の写真を勝手に撮影して大丈夫だったのですか。どれも承諾なしに撮影した画像に見えましたけど」
九州男さんは険しい顔で頷いた。
「そうなんですよ。訴えられたらどうするんだって話ですよ、ほんとに。しかも絵の方も近々別の場所に移されるらしいですからね。ネットで調べたんですけどね、アキ・ムロトには専属の弁護士もいて、権利関係は相当にきっちりしているらしいのですよ。絵が移転したのは、撮影が原因だとかいう事で裁判でも起こされるのではないかと、心配で仕方ない」
「絵が移されるのですか」と陽子さんが尋ねると、九州男さんは小声で「ウチも薬局で処方箋なんかを扱うから分かるんですけどね、こういう方法で診療目的ではない患者を募って診察しているとなると、国からチェックが入る可能性があるんですよ。最初は客寄せの狙いがあったのでしょうけど、予想以上に人が押し寄せたので、手倉病院も焦っているんじゃないですか」と言って少し笑った。
陽子さんと邦夫さんは、「ああ」と頷いた。
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