第7話
その日、陽子さんはいつもより早めに店を閉めた。普段も他の店よりも早めに閉めるのだが、その日は一時過ぎに高瀬さんのご主人が弁当を取りに来ると、すぐに店のシャッターを下ろした。陽子さんが支柱を動かしてシャッターの閉まり具合を確認していると、二
「なんだ、いつもより早いな。いつもは月末に……ぐわっ」
「おっと、悪いな。すみませんね、奥さん。今日は急いでいて。これ、いつもどおり裏に運べばいいんですよね」
いってーな。商品だろうが、もっと丁寧に置け、丁寧に。しかも荷台の中が汗臭いぞ。お宅は食品用のプラスチック容器を売る店だろうが、もっと衛生に気を使え! と俺がその男をにらみつけていると、陽子さんが「お願いします。中身だけ倉庫の上に置いておいてください」と言った。
「わかりました。受取書の方にサインをお願いします」と言って男は陽子さんに伝票を渡すと、大きな段ボール箱を抱えて店の脇道から奥へと入っていった。
陽子さんが伝票にサインしていると、隣から萌奈美さんが出てきた。
「あ、今日はもう終わりですか」
「ん? お弁当? 一人分?」
「はい。あ、でも閉められたのなら、いいです。向こうのコンビニまで買いにいきますから」
「栗ご飯はまだあるわよ。ちょっと待っててね、すぐに作るから」
再びシャッターを開けた陽子さんは、店の中に戻ってお弁当を作り始めた。それを待つ間、萌奈美さんは俺のベストを見て「やっぱり赤が似合うわね」と微笑んだ。俺は気恥ずかしくて横を向いた。
「忙しいみたいね」
容器に栗ご飯を詰めながら、陽子さんが言った。萌奈美さんは「行事のシーズンですから、予約が多くて」と困った顔をしながらも少し嬉しそうだ。
「今日も遅くまで仕事なの?」
弁当に蓋をした陽子さんが尋ねた。萌奈美さんは頷いて弁当を受け取った。
「今夜が最も危険らしいわよ。準備の方は大丈夫なの。忙しいなら、私が何かしておきましょうか?」
「いえ、合間を見てやっておきます」
陽子さんは心配そうに言った。
「そう。さっき須崎さんが行員さんに手伝わせると言っていたわよ。一人じゃ大変でしょうから、やってもらったら?」
そこへ、さっきの男が空の段ボール箱を持って戻ってきた。彼は陽子さんから伝票を受け取ると帽子のツバを握ったまま「どうも。じゃあ、また来月」と頭を下げた。陽子さんが「お疲れさま。運転も気をつけて下さいね。風も強くなってきましたから」と言うと、萌奈美さんも「ご苦労様です」と小さく会釈した。男は嬉しそうに会釈して返すと、運転席に乗り込み、車を走らせた。
支払いを済ませた萌奈美さんは、弁当を軽く持ち上げて「じゃあ、これ、いただきます。ご面倒かけて、すみませんでした」と言ってから帰っていった。
阿南萌奈美さんは、隣の「モナミ美容室」を独りで経営している。毎朝きちんと定刻に店を開けるし、入り口の自動ドアや窓の掃除も欠かさない。若いのに感心だ。もっと若い頃にいろいろあったそうで、ここで一からやり直すと言っていた。俺もよく遊びに行くが、お客さんが居ない時も、店の中を掃除したり、人形の髪を切ってカットの練習をしたりと、努力を続けている。頑張っている。だから、皆が応援する。そういう事だ。
再びシャッターを閉めた陽子さんは、脇道から店の裏手に回った。
重ねられた空の弁当容器がビニールに包まれて倉庫の上に置かれていた。容器を数えた陽子さんは、それを倉庫の中に仕舞う。扉に南京錠を掛けていると、玄関の横にランドセルを背負った女の子がヒョコリと現れた。美歩ちゃんだ。
「よう、美歩ちゃん、早かったな」
「ただいま」
「あら、おかえりなさい」
俺は二人と共に二階へと上がった。
美歩ちゃんは小一だ。利発で素直なとてもいい子だ。小学生になって初めての夏休みを終え、行事が満載の二学期を満喫している、はずなのだが、その日はいつもより随分と早く帰ってきた。
美歩ちゃんを着替えさせた陽子さんは再び一階の厨房へと戻った。シャッターを閉めても、まだ仕事は残っている。俺は夕飯までの間、美歩ちゃんの相手をしている事にした。泥棒の捜査をしたいところだが、雨が降り出したからだ。濡れながら捜査をする緊急性はないだろう、俺はそう思っていた。
「それにしても、今日はえらく早く帰ってきたな。先生たちがストでも起こしたのか?」
俺が尋ねると、美歩ちゃんは頷いた。
「あのね、今日、アサガオのきろくで先生にハナマルをもらったんだよ。きんしょうだって」
「ふーん」
美歩ちゃんが俺の前に突き出して見せたクレヨン書きの花の絵と観察文のセットを見ながら、俺はもう一度尋ねた。
「だから給食の後ですぐに下校か? よく出来たから自由ですって、収監者が仮釈放される仕組みと同じだな」
美歩ちゃんはまた頷いた。
「なわとび大会もあるんだって。でも、今日はあぶないから、お外でれんしゅうしたらダメなんだよ」
「縄跳び自体が危ないじゃないか。もっと危ない事があるのか?」
「こんな大きいのがくるから、お外に出ないで、家でどくしょをしましょうって、先生がいってた」
美歩ちゃんは短い両手を精一杯に左右に広げた。
「な、何が来るんだ。怪獣か?」
「桃太郎さん、そこはあぶないんだよ。窓の近くはあぶないって先生がいってたよ。みぞであそんでもいけませんって」
この部屋にある「溝」と言えばサッシと襖と障子の敷居くらいのものだが、とりあえず美歩ちゃんが言うから、そのつもりでいよう。窓からも離れるんだな。
俺は窓の近くから離れた。
「それから、かいちゅうでんとうを近くにおいておきましょうだって。ちょっとまっててね」
美歩ちゃんは背伸びして戸棚の引き出しを開け、中から小さなLED電灯を取り出した。駅前の百円ショップで買った物だが、単四電池二個ではっきりと光る優れ物だ。便利そうだったし、暗い所が苦手な陽子さんの必需品でもあるので、我が家には何個も買ってある。美歩ちゃんは、その内の一つを俺に渡すと、自分の分も小さな手に握って、スイッチを押した。
「よし、ちゃんと点く。桃太郎さんのは点く?」
俺もスイッチを押して灯りを点けた。
「ああ、点くぞ」
「よし、点くね。ほら、明るいでしょ」
「明るいというか、眩しいぞ、美歩ちゃん。どうして俺を照らすんだ」
「ていでんになったら、あわてずにライトを点けましょうだって。桃太郎さんもあわてちゃダメだよ」
「俺は今、慌てている。眩しいからライトを消してくれ、美歩ちゃん」
美歩ちゃんはやっとライトを消してくれた。そのライトを机の上に置いて、ランドセルからノートと筆箱を取り出した美歩ちゃんは、急に宿題を始めた。漢字練習帳に黙々と「風」と綴っている。邪魔をしてはいけないので、俺は詩集を読むことにした。陽子さんが琴平さんから借りた詩集だ。灯火親しむべし。俺は詩集の頁を捲った。
暫らくして陽子さんが上がってきた。外はえらく暗くなっている。「秋の日は釣瓶落とし」と言うが、それにしては早かった。釣瓶落としどころか、空手家の踵落とし並みだ。陽子さんはライトを横に立てて宿題をしている美歩ちゃんを見て、クスリと笑った。俺は詩集を広げたまま、陽子さんに尋ねた。
「なあ、陽子さん。何かあったのか? まさか怪獣が来る訳じゃないよな」
陽子さんは雨粒が風に舞う中、通りに面した高窓を開けた。束ねてある左右のカーテンがパタパタと細かく揺れた。窓から半身を乗り出した陽子さんは、髪と上半身を雨に濡らしながら、壁の横から戸板を引き出し始めた。スルスルと窓の外に戸板を並べ、最後の一枚をカタンと鳴らして閉める。
部屋の中が真っ暗になると、美歩ちゃんが急いで懐中電灯をつけた。俺はその明かりを頼りに、電気の紐に美歩ちゃん用にさらに結んで足された長い紐を引っ張り、天井の電灯を点けた。明るくなった部屋の中は、まだ夕方前なのに真夜中のような感じだった。でも、夜中と何かが違う。懐中電灯を消した美歩ちゃんは、急に秘密基地か潜水艦の中のようになった室内に少しだけ目を輝かせていた。
陽子さんが窓を閉めると、戸板に打ちつける雨の音が消えて静かになった。陽子さんはシャツの七分袖を引っ張りながら「降る前に閉めとけばよかった。失敗した」と呟いた。美歩ちゃんが「お母さん、窓の近くはあぶないんだよ。先生がいってたよ」と言うと、陽子さんは「そうね。でも雨戸を閉めたから大丈夫よ」と微笑んだ。
美歩ちゃんが「大きいのが来るかな」と尋ねると、陽子さんはリモコンをテレビに向けて「どうかなあ。逸れるとは言っていたけど……風と雨が強くなるのは変わらないでしょうね」と眉を寄せた。
テレビでは夕方前のニュースをやっていた。日本地図の横に大きな円が大中小と並んでいる。陽子さんは嘆息した。
「随分と迷走しているわね……」
「めいそうって?」
「迷子のことよ。台風さんがあっち行ったり、こっち行ったりしているの」
合点がいった。なるほど、台風か。だから土佐山田さんは庭を片付けていたんだな。警察の警戒態勢も、台風対策だ。なにが泥棒だ、まったく。余計な捜査をするところだったじゃないか。
俺が鼻息を強く吐くと、美歩ちゃんが尋ねた。
「台風さんも、困ってるのかな」
「そうかもね。でも、上陸したら悪さするから、みんなも困るでしょ。だから、あっち行けーって祈ってるのよ。さ、美歩も一緒に祈りましょ。あっち行けー」
「あっちいけー」
そんな念力で台風が逸れるか。
テレビ画面に向かって必至に祈っている二人に俺が冷ややかな視線を送っていると、美歩ちゃんが「お母さん、桃太郎さんはお祈りしてないよ」と言った。
「んん。桃太郎さん」
陽子さんの恐い視線が刺さる。仕方なく俺も祈った。
「あっちに行けえ。ビリビリビリ」
どう考えても探偵の仕事ではなかったが、俺は必至に念力を送った。秋は念力だ。芸術、食欲、読書の秋とくれば、次は念力だ。念力の秋だ。俺は自分にそう言い聞かせながら、次の連続窃盗事件のニュースを読んでいるアナウンサーの真顔に向かって、懸命に両手を振り続けた。
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