第4話
「では、また明日お持ちします。日替わり弁当を、お二つでよろしいのですね」
七色に照らされた玄関に立った陽子さんは、琴平さんにそう確認した。琴平さんは車椅子の上でゆっくりと頷く。
「お願いします。ドアは開けておくわ」
俺は琴平さんに言った。
「鍵はしないのか。無用心じゃないか」
すると、陽子さんが「お伺いする前に、お電話いたしますので」と言ってから、玄関の上がり框に目を落として続けた。
「あ、私、鍵を掛けてから、リビングの方から出ましょうか。明日お弁当をお持ちする時も、ご迷惑でなければ、お庭からリビングの方に回りますけど……」
確かに陽子さんが気に掛けるとおり、車椅子では玄関の下に降りてドアの鍵を閉めることができない。上がり框からドアまでも、手が届く距離ではなかった。
しかし、琴平さんは首を横に振った。
「ありがとう。でも、鍵は開けたままで結構よ。来客があるかもしれないから」
「そうなんですか」
お弁当を二つ注文する理由は、そういう事か。その時、俺はそう思った。
俺と陽子さんは、紅茶と牛乳のお礼を言ってから、その古い家を後にした。
赤レンガ小道に出ると、隣の花屋の前に白いバンが停まっていた。車から花屋の奥さんの高瀬公子さんが旦那の邦夫さんに肩を借りながら降りてくる。
陽子さんが声をかけた。
「おはようございます。高瀬さん、どうかされたのですか」
公子さんは腰を押さえながら答えた。
「ああ、陽子さん。ちょっと、腰をやっちゃって。今、手倉病院で診てもらってきたところなのよ。あいたたた……」
公子さんを支えながら助手席のドアを閉めた邦夫さんが言った。
「えらく混雑していてね、駐車場が空いてなくて大変だったよ」
公子さんは癇声を上げた。
「駐車場の事なんて、どうだっていいでしょ! 妻が重症なのよ。車と私とどっちが大事なのよ。あんな所で、いつまでも病人を待たせて」
邦夫さんは呑気だから、診察が終わった公子さんを、待合フロアか玄関ロビーで長く待たせていたのだろう。その苛立ちを腰の痛みが増長させたに違いない。
陽子さんは心配そうな顔で尋ねた。
「それで、診断の結果はいかがだったのですか」
「心配ない、心配ない。ただのギックリ腰だって」と手を振る邦夫さんの横で、公子さんが怒鳴る。
「ただのとは何よ! あなた、どれだけ痛いか分かってるの! あいたた……」
邦夫さんは公子さんを宥めながら、彼女を店の奥の居間まで連れていった。
陽子さんは「お大事に」と言った。
俺は「頑張れよ」と言った。
邦夫さんは上がり口の敷居の上に公子さんを座らせながら、俺と陽子さんのどちらかに軽く手を一振りした。たぶん、俺にだろう。
俺と陽子さんは大通りの方へと歩き始めた。「観音寺」の入口の前を歩いていると、後ろから邦夫さんが声を掛けた。
「ああ、外村さん」
振り返ると、駆け寄ってきた邦夫さんが小声で「悪いけど、お昼のお弁当を二人分、とっておいてもらえるかな。公子のやつ、あれじゃ台所仕事は無理だし、俺は料理が出来ないから」と言った。陽子さんがニコリとしながら頷くと、邦夫さんは安心した様子で「悪いね、後で取りに行くから」と言って戻り、店の前に停めた配達車に乗り込んだ。俺は駐車場へと走っていく車を見送りながら「だったら夕食の分まで四人分買え!」と言いたかったが、黙っていた。その時、俺はハッとした。琴平さんもそうなのではないか。琴平さんは車椅子だから、外出が困難だ。昼食の分と合わせて夕食の分までのお弁当を注文したのでは。
俺は何だか申し訳なくなって、トボトボと歩いた。
陽子さんとは「観音寺」への横道の角の「モナミ美容室」の前で別れた。ウチの「ホッカリ弁当」はその隣だから、もう大丈夫だろうし、俺は流れ者の探偵だから、客筋のいい「ホッカリ弁当」の表から入って店の信用を落とす訳にはいかない。という訳で、俺は、帰る時はいつも観音寺の敷地を通って、低い塀を飛び越えてから、ホッカリ弁当の裏庭に入ることにしている。まあ、少し面倒だが、探偵には用心も必要だ。仕方ない。
俺は横道の先の古い大きな門をくぐって、玉砂利が敷かれた境内に入った。
寺の本堂の斜め前には、太い大きなイチョウの木が立っている。樹齢二百年を超える古木らしいが、赤レンガ小道商店街のどこに立っても見える木で、この観音寺だけではなく街のシンボルともなっている。真夏には緑の葉が真っ直ぐな幹を覆い、その中が蝉どもの集会所となって喧しかったが、今はすっかりと静かになった。遅番の
俺がその巨大な季節計の前を通り過ぎようとすると、視界の隅にドタドタと走る若い僧侶の姿が映った。本堂の前の縁側の上を慌てた様子で走っている。彼は「大変です、和尚様、
何事か、有らん。
そう思った俺は、僧侶を追いかけた。
砂利の音を鳴らさないように事務所の建物に近づいてみると、入り口の扉が少し開いていた。見つからないようにこっそりと中に入り、様子を伺う。嗄れた老声が聞こえてきた。大内ご住職の声だ。
「とにかく、ご無事で何よりでしたな。きっと御仏様の御守護なのでしょう」
「いや、『トトさん』はクリスチャンでして……」と言ったのは、ポロシャツ姿の若い男だった。応接ソファーで大内住職と対座しているその男に、住職の後ろに立っている、さっき走っていた若い僧侶が厳しい視線を送った。その前で、大内住職はツルピカ頭を撫でながら言う。
「まあ、怪我をされなくてよかった。しかし、なんでまた雨の中を、しかも夜中に幼稚園なんかに行かれましたかの」
ポロシャツの若い男は首を傾げた。
「さあ。彼がどういう目的でそこに行ったのかまでは分かりませんよ。『ただ、なんとなく』じゃないですか。以前は、『
「歩いてですか。えらい遠出をされましたな」
「その時は歯科医院の窓を割って、大変でした。謝りに行くのは僕ですからね」
「小林さんも大変ですなあ」
その小林という男は深く頷いていた。今度は大内住職が首を傾げて言う。
「しかし、以前にウチで彼を保護した時には、何も問題は起こされませんでしたがな……。なあ」
首を反らした大内住職から尋ねられた若い僧侶は、はっきりと頷いた。
「はい。雨を避けて、ご本堂の縁の下でうずくまっておられただけでしたよ。穏やかそうな方でしたし」
小林さんは顔の前で手をパタパタと横に振った。
「いやいや、それが今は違うのですよ。施設でも、とにかく大変で。まあ、暴れるわ、物は壊すわ」
大内住職は顔をしかめた。
「それは、ご本人さんも、さぞ苦しんでおられるのでしょう。凡百の迷いに心を振り回されておいでなのかもしれない」
「振り回されて苦しんでいるのは、僕ら介護職員の方ですよ」
と小林さんは笑った。どうやら、この人は福祉施設の職員らしい。彼は言う。
「せっかくこの頃落ち着いてきたと思ったら、急にまた始まっちゃって。ウチの施設に飾っていた『アキ・ムロト』絵も、昨日から急遽、本部病院の方に移すことになって、今いろいろと大変なんですよ」
「本部病院というと、手倉整形外科病院のことですか」
「ええ。ウチは手倉病院が経営している特別養護老人ホームの一つですから」
「たしか、隣町にも手倉病院系列の施設がありましたよね」
「ええ。ピースピア・ケアライフですよね。ウチの姉妹店ですけど、あっちはデイサービスとショートステイも併設している施設ですから規模が違いますよ。ウチは特養一本ですからね、小さい施設です」
「いやいや、小さいだなんて、そんな。だって、アキ・ムロトさんと言えば、世界的に有名な画家の方では。その方の絵を飾っておられたんでしょ?」
「はい。院長先生の方で伝手があったそうで、アキ・ムロト先生が入所者の方に目で楽しんでもらいたいと、わざわざ描いてくれた新作だということです」
「ほう、それはありがたい絵ですな」
「ええ。だから、大事にしないといけないということで、病院のロビーに移すことになったんです。入所者の皆さんは残念がっていましたけど、僕は正直ホッとしています。トトさんに破られたりでもしたら、僕も現場主任として責任をとらされますから」
大内住職は腕組みをして言った。
「まあ、確かに高価な絵でしょうからな。しかし、それは職員の方々の注意で何とか防げるのでは」
「一日中トトさんに張り付いていたり、絵の前に立っているわけにはいきませんよ。僕らも忙しいですからね」
大内住職は鼻息を長く鳴らした。
「――では、あの方は今後もそちらの施設で」
「はい。ただ、今後は身体拘束をするべきか否か、いま幹部会議で検討中です。僕としては反対なのですけど」
大内住職の深い溜め息が聞こえた。
「私の方で、もっと何かできるといいのでしょうが……」
「いえいえ。ご住職には、宗教も違うトトさんの身元引受人になってもらっていますから。本当に感謝しています」
深く頭を下げた小林さんに大内住職は言った。
「まあ、あの方の亡ご親族は、この寺の檀家さんでしたし、現にお墓もある訳ですから、住職としては当然ですよ」
小林さんは頷くと、腕時計を見て、慌てた顔でソファーから立ち上がった。
「じゃあ、そろそろこれで。私も警察署にトトさんを引き取りに行かないといけませんから。どうも、急に押しかけておきながら、長居してしまって……」
「いやいや、わざわざのご報告、ありがとうございます」
「失礼します」
住職に軽く一礼した小林さんは帰っていった。俺に気付いた大内住職が「桃太郎くん、今日もお仕事ですか。精が出ますな」と言った。俺は「誰だよ、『トトさん』って」と尋ねた。すると、「和尚様、宗派の違う方なのに、よろしいのですか」と大内住職の後ろから若い僧侶が尋ねた。大内住職が「身寄りの無い方ですからな。墓もあるのに知らぬふりをする訳にはいかんでしょう」と答えると、若い僧侶は眉を寄せて「施設から、こうも度々抜け出して徘徊したあげく、他人の家の物を壊したりするという事は、相当に認知症がひどくなっているという事ですよね。そろそろ今後の事も考えておくべきでは」と不安を口にした。「そうですなあ」と言った大内住職はツルピカ頭を撫でながらソファーから腰をあげ、廊下へと出て行った。俺は「その『トトさん』とか言う人は、認知症なのか。この辺を徘徊するのかよ」と若い僧侶に尋ねたが、彼は俺を一にらみして、事務机へと向かった。俺は、「なんだよ、教えてくれてもいいじゃないか」と吐き捨てて、外に出た。風が冷たくなっていた。見上げると、空に灰色の雲が広がっていた。
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